イチ兄事、酒寄
そんなイチ兄は家を慌てて飛び出したのか、部屋着のままでいつもしている伊達メガネを忘れている。整った顔と僅かに覗く細マッチョな胸元や首周りが、僅かに滲んだ汗でいつもより色っぽい。
じゃなくて
「どうしたの、そんなに慌てて」
「いや、妙な気配が遠くに落ちて来たかと思ったら、かなりのスピードでコッチに向かってくるわ、気が付けば彩葉の気配が家の近くまで来てて鉢合わせしそうだわで、心配になって飛び出してきたんだよ。そしたら……」
イチ兄はそう言いながら私に近づき扉の開いた電柱の中を覗き見る。
「……はあ、取り敢えず敵意が無いどころか普通の赤ん坊のように無邪気だし、害は今のところ無さそうなのが救いか。あ~、平和ボケし過ぎだな、俺。今回は良かったものの、次はどうなるか分からんし気をつけんとな」
「……いろいろ聞きたい事もあるけど、取り敢えず普通の赤ん坊のようって何?」
「いや、電柱がゲーミング化して開いた中にいる時点で普通じゃないだろ。俺が言えた義理じゃないが」
「確かに……」
私はそう答えて慣れないながら赤ちゃんを電柱から抱えて取り出す。するとゲーミング電柱はその輝きを失い、ただの電柱に戻った。うん、慎ましくていいと思います。男の子を拾ったら突如光に溶けて消える公園よりずっと心に優しい。正直あの光景自体は綺麗だったけど、引き起こされた結果のせいでちょっとホラーっぽさを感じてしまうんだよね。
「……連れて帰るのか?」
「うん、この暑い中放置もマズイし、お父さんとお母さんに事情を説明して相談に乗ってもらう。前例があるし信じて貰えるよ」
「まあ、その前例であり、お前の優しさに救われた俺が否定する訳にもいかんか」
こうは言うけど、それは私たち家族を思っての事。多分、この赤ちゃんに関わった事で私たち家族が害を被るんじゃないかと心配しているんだ。
イチ兄は表面上は分かりにくいけど、ファミリーコンプレックスってレベルで家族を大切にしている。出会うまでに何があったのか知らないけど、想像が出来ないほど辛い事があったんだと思う。だから私は待つ。イチ兄がその胸の痛みを吐き出してくれるその日まで……
その日まで、
「それで、連れて帰ったんだね」
「うん、普通の赤ちゃんじゃないから110番や児相に連れて行くわけにもいかないしね」
「……」
テーブルの席に着きお父さんに事情を説明する私を、お母さんはジッと見つめてくる。正直、かなりシビアなところがあるお母さんがこの状況でどんな対応をするか未知数だ。イチ兄の時はお父さんが引き取ると言った為、お母さんがそれを尊重したカタチだった。でも今回はまだ子供の私がこの娘をどうにかしてあげたいと願い出た形だ。イチ兄の時のお父さんほど責任能力や現実的なプランがあるわけでも無い。でも、あの娘をほっとく事も出来ない。
因みに当の赤ちゃんはイチ兄がリビングで面倒を見てくれている。あやし方が手慣れているところを見るに、年の離れた妹や弟が居たのだろうか?
「う〜ん、お父さんの信用出来る知り合いに引き取って貰えるか掛け合うって手もあるけど、確実性は無いね。お母さんはどう思う?」
お父さんに話を振られ、お母さんは目を伏せて熟考を始める。未だにこの話し合いの中で一度も口を開いてない。お母さんらしくない。いつも鋭い切れ味の小言をグチグチと言ってくるのに。
「……ウチで育てましょ」
「え!?」
「何や?そないな覚悟もあらへんのに拾うてきたんか?」
「いや、お母さんが最初にそれを提案して来るとは思わなくて……」
「ほぉ~、そらどないな意味や?」
「ヤバッ」
その後、お母さんから鋭い切れ味の小言をたんまりと貰い、赤ちゃんをウチで育てる事、私も自分を蔑ろにしない程度で積極的に育児に協力する事が決まった。
「ふえええええええええええええええ!」
「すまん、彩葉!来てくれ!」
「は〜い、どうしたの?」
話し合いが終わったタイミングで赤ちゃんの泣き声とイチ兄からのヘルプが届く。リビングの方を見ればイチ兄に抱えられた赤ちゃんが私に手を伸ばしている。
「どうも眠いみたいなんだが、俺じゃ安心出来ないみたいでな。どうも彩葉に寝かしつけて貰いたいみたいだ。悪いが代わってくれ」
「え?でもどうすれば……」
「コツは教える。取り敢えず、ほら」
「う、うん」
イチ兄に差し出された赤ちゃんをおっかなびっくり抱える。少し泣く勢いが弱まったと思ったら、また直ぐ大泣きとなった。寧ろさっきより凄いことになってるんだけど!?
「イ、イチ兄、どなんしよう!?」
「ああ〜、興奮しすぎて眠れないみたいだな。何か穏やかなメロディーの歌を歌ってあげるといい。それで寝れるはずだ」
「うた……」
歌で頭に浮かんだのは推しである月見ヤチヨ。
「大切なメロディは流れてるよ〜〜♪あなたのハートに〜〜♫」
『Remember』。一番も歌い終わらない間に赤ちゃんは寝息を立て始めた。
「ヤチヨパワー、すげー」
「この娘もな。こりゃ大物になるぞ」
声を抑えて笑いながら言うイチ兄。この時、その言葉が近い将来現実になるなんて、私は思っても見なかった。