男の娘研究部へようこそ   作:涼月秋名

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チュートリアル

 薄暗い部室に男が三人。

 空気は重く、ひりつくような緊張感が部屋を支配していた。

 

「それでは──第一〇一回『男の娘研究会議』を執り行う!」

「うおー」

「……」

 

「今回の議題はッ! 『男の娘において、女装が必要条件となり得るのか』についてだ!」

「……部長。その議論、何回目?」

「もう飽きた」

 

「黙れ! これは極めて重要な命題である! 前々回、そして前回。我々の議論は平行線を辿り、結論を出すには至らなかったではないか!」

「いや、だからさー。見た目が女の子っぽくないと『男の娘』とは呼べない。俺の意見は不変だよ」

 

「違う違う違ぁあああう! 断じて違うぞ! 『男の娘』の本質において、女装などという外面的な装飾は、必ずしも必須ではないのだ!」

「そーは言ってもだな……。そもそも俺は男の娘が可愛いから好きなんだ。萌えるんだよ。だから大前提として、女っぽいことが男の娘が男ではなく男の娘たるためには必要だと思うんだ」

 

「その言い分なら、男の娘にこだわる必要が無いだろう。可愛い女を好きになれば良いではないか。可愛い女に萌えれば良いではないか。そんな生半可な覚悟でこの聖域の門をくぐったのか? 朝比奈彼方!」

 

 部員ナンバー3、朝比奈彼方。

 どこにでもいる、少しばかり冴えない男である。

 男の娘経験なし。当然、女性経験もなし。

 

「いや、それはそうだけどよ……男の娘にしか無い魅力ってもんがさぁ……」

「ほう、言ってみろ」

「そりゃあ、やっぱり……女の子よりも気安く接することができる、とか?」

「馬鹿もおおおん!」

 

 朝比奈の言葉を遮るように、部長の掌がテーブルを叩きつけた。すさまじい衝撃音が室内に響き渡る。

 

「うわっ!? びっくりした……大声出すなよ……」

「朝比奈彼方。確かに、それも一つの側面ではある。だが、それは付随的な効果に過ぎん! 思考が浅い、浅すぎるぞ!」

「じゃあ、何だってんだよ」

「それは──『男である』という残酷なまでの背景だ」

「いいか、よく聞け。男の娘において『初見で女に見える』というファーストインプレッションは絶対だ。しかし、出会った瞬間の我々にとって、そいつはいまだ『女』でしかないのだ」

「ん? どういうことだ?」

「はぁ……。よし、より具体的かつ、貴様の単純な脳細胞でも理解できる話に変えよう。朝比奈彼方、今日我がクラスにやってきた転校生……覚えているな?」

「ああ、それはもちろん。花園薫子だろ」

 

 今朝、教室に現れた彼女は、文字通り掃き溜めに鶴だった。

 クラス中の男子生徒の脳を片っ端から焼き尽くしていくような、可憐で、どこか儚げな美少女。

 

「そうだ、その花園薫子は女である」

「そうだな、明らかに女の子っぽい容姿に、声、名前。確実に女だな。それがどうしたんだ?」

「いいか、よく聞け。あそこまで完璧な美少女、花園薫子は──実は、男だ」

「な、ななな、な、なんだってえええええッ‼」

「……」

「そ、そんな、馬鹿な。あんなに可愛いのに? 声も名前も、あんなに女の子女の子してるのに⁉ ……だ、だが待てよ。……それも……アリだッ!」

「嘘だ」

「嘘かよッ!」

 

 ずっこける朝比奈を冷ややかな一瞥で射貫き、部長は悠然と腕を組んだ。

 

「そもそも私は、三次元の『男の娘』に萌えがあるなど懐疑的である。だが、今この場においてそんなことは重要ではない。『実は男である』という、その残酷なまでの背徳的設定こそ、真理(萌え)は宿るのだ」

「ちょっと待てよ。たとえ最初から『男の娘』だって分かってたとしても、俺は花園さんに同じように萌える自信があるぞ。可愛いは正義だろ!」

「……フッ、やはり浅いな。浅すぎて底で頭を打つレベルだぞ、朝比奈彼方」

「なんだとぉ?」

「いいか。男の娘という存在が『確定』する瞬間のシチュエーション……そこにこそ、宇宙の心理が凝縮されているのだ。現実的ではない例を挙げよう」

 

 部長は立ち上がり、教壇に立つ教師のように身振り手振りを交えて熱弁を振るう。

 

「例えばだ。廊下の角で偶然、花園薫子と激突したとしよう。お約束のラッキースケベだ。貴様の掌は、倒れ込んだ彼女の……いや、彼の胸に吸い込まれる。……そこで貴様は知るのだ。そこに、あるべき『膨らみ』が存在しないことを!」

「なっ……!」

「その時だ! 花園薫子が浮かべる表情は、胸を触られた『乙女の恥じらい』ではない! 自分が女を装っているという欺瞞、守り通してきた『男であるという矜持』が、あまりにも無様に露呈してしまったことへの『焦燥』! これだ! これこそが至高のエロス……断じて否! 魂の萌えなのだ!」

「な、なるほど。……言われてみれば、そんな気がしてきた……(してない)」

「よく言われる例えだがな。最初から見せられているパンティよりも、偶然見えてしまったパンティにこそ、人類は抗いがたい神聖さを感じるものだ。性別という、生物学的な絶対領域における『心理的チラリズム』……これこそが、男の娘が男の娘たる、最大の魅力なのだよ!」

 

 自信に満ちあふれた部長が、天高く拳を掲げる。しばしの静寂。部室の空気が、彼の熱量によってわずかに歪んだ気がした。

 

「さて、話が逸れたが。今回の本題……『男の娘において、女装は必要条件となり得るのか』についてだが……」

 

「……。なあ部長。さっき言ってた『心理的チラリズム』ってやつには、そもそも『女装』してることが前提なんじゃないのか?」

 

「違うな、朝比奈彼方。断じて違う」

 

「なんでだよ。女の格好をしてるから、男だとバレた時に萌えるんだろ?」

「それは浅瀬の議論だ。いいか、世界には『先天的男の娘』という特異点が存在する」

「せんてんてき……? 生まれつきってことか?」

 

「これは私の哲学であるが、男の娘を定義づけるには二つの評価軸が必要だ。一つは『内面的男性強度』。そしてもう一つは、『女装強制度』である!」

「……。あー、もう脳みそが耳から漏れそうなんだけど」

 

「特段難しい話ではない。いいか、まず『内面的男性強度』とは、本人の自認がいかに『男』であるかを示す指標だ。外見のせいで不本意にも女の子扱いされているが、魂は鋼の如き男子(おのこ)である場合、この値は極限まで高まる。逆に、自らを女の子だと思い込んでいる、あるいは男として見られたくないと願う場合、この値はマイナスへと沈む」

 

「う、うーん……?」

 

「次に『女装強制度』だ。これは『いかに女装を強いられているか』を示す。本人にその気がなくても環境によって着せられている場合はプラス。逆に、誰に命じられずとも趣味で積極的に着ている場合はマイナスとなる。つまり、着たくもないのに着せられ、かつ内面が男気溢れるものであればあるほど、そこに発生する『歪み』は甘美な蜜となるのだ!」

 

「はあ……」

 

「結論を言おう。私が提唱する『先天的男の娘』とは、内面的男性強度、および女装強制度、その双方が『ニュートラル』な状態にある存在を指す!」

 

「…………理屈は分かったよ。でもさ、そんな都合のいい人物、現実にいるのかよ」

 

「ふん、灯台下暗しとはこのことだな。貴様はまだ気づいていなかったのか。……さて、真理の証明といこう。出番だ、涼森鈴」

「……ん?」

 

 部長は、議論など我関せずと、端で黙々と本に目を向けていた第三の男を舞台に引きずり出した。

 涼森の瞳は、部長と彼方の間を頼りなげに行ったり来たりして、所在なさげに瞬いている。どうやら、さっきまでの熱い議論は一文字も彼の耳には届いていなかったらしい。

 

「涼森鈴。……貴様は、女か?」

「ううん、違う」

 

 涼森は、小首を傾げて静かに首を横に振った。

「そうだろうな。なぜなら今、貴様が身に纏っているのは紛れもない『男子学生用制服』なのだから。……さて、朝比奈彼方。改めて貴様の節穴な眼球に問う。貴様から見て、涼森鈴はどう見える?」

「そりゃあ──……可憐で、儚げで、どう見ても守ってあげたくなるような美少女に…………はッ⁉」

 

 彼方は、喉元まで出かかった言葉の矛盾に気づき、愕然と目を見開いた。

 

「気づいたか! そう、今この場に、会議の最初から鎮座していた涼森鈴こそ! 私の提唱する『内面的男性強度』および『女装強制度』が共にゼロ地点で均衡する、世にも稀なる『ニュートラルな先天的男の娘』なのだッ!」

 

 部長に有無を言わさず手を引かれ、ボクシングの勝者のように天高く腕を掲げられる涼森。しかし本人は、特段興味なさそうに、空いた片手で読みかけの文庫本を捲っている。

 

「もとはと言えば、私が彼を本学における最重要研究サンプルとして勧誘したのだ」

 

 それは勧誘などという生易しいものではなかった。

 図書室で静かに読書に耽っていた涼森を見つけるや否や、部長は「……いたぞ、真理だ」と呟き、そのまま彼を小脇に抱えて強制連行したのである。

 それ以降、活動日になるたびに部長が涼森を担いで部室まで搬送してくるのが、この『研究会議』の日常風景となっていた。

 担がれる涼森が、それをどう感じているのか。……それは、神のみぞ知る領域である。

 

 部員ナンバー2、涼森鈴。

 女性経験なし。だが、男の娘経験──()()

 

 

…………

……

 

 

 会議が終わり、各々が部室で時間を過ごしていた。

 部長は備品のPCのモニターに釘付けであり、涼森は文庫本を読んでいた。

 そして、暇を持て余した朝比奈が興味本位で部長に話しかける。

 

「おっ、部長はエロゲやってんのか」

「ああ、今ちょうど共通(ルート)が終わったところだ」

「それにしたって、部長もエロゲなんてするんだなー。男の娘にしか興味が無いと思ってたぜ」

 

 モニターには、いかにも二〇一〇年代を感じさせる明るい背景CGに、エロゲヒロインの立ち絵がテキストボックス越しに微笑んでいた。

 

「よく見ろ、朝比奈彼方。テキストボックスの左側だ」

「ん? ……これ、今喋ってるの主人公だよな?」

 

 画面中央で華やかに描かれたヒロインとは別に、テキストボックスの左端に控えめなウィンドウが表示されていた。そこに描かれている「顔」は……。

 

「そうだ。そして、どう見ても可憐な美少女だろう?」

「……。まあ、そうだな。え、これ百合ゲーなのか?」

「否。彼は男だ」

「な、なんだって⁉ 攻略対象のヒロインじゃないのに、こんなに可愛いのかよ!」

 

 スピーカーからは、主人公のセリフが、高く澄んだアルトの声で流れてくる。この手のジャンルにおいて、主人公にボイスがついているのは、ある種の『必然』だ。

 

「そうだ。シナリオは王道中の王道。女装してお嬢様学校に潜入し、正体を隠しながら乙女たちと交流する恋愛アドベンチャーだ」

「うーん、なんか不思議な感覚だな。自分が男なのに、画面の中の主人公が女の子の格好をして、女の子を攻略するって……」

「ほう、貴様はまだこの地に足を踏み入れていなかったか」

 

 部長が、獲物を見つけた狩人のような目でモニターから目を離し、朝比奈に向き直る。

 

「いいか、朝比奈彼方。こういったビジュアルノベル形式において、プレイヤーは主人公と視界や感覚を共有し、疑似恋愛を体験する。我々が男である以上、主人公が男である方が感情移入しやすいのは自明の理だ。……だが! 主人公が『男の娘』である場合、その移入先は二重構造へと昇華されるのだ!」

 

「に、にじゅうこうぞう……?」

 

「そうだ。一方では『女を攻略する男』としての主体を保持しつつ、もう一方では『周囲から女として愛でられる対象』としての快楽を同時に享受する!  つまりこれは、『攻め』の能動性と『受け』の受動性を一つの個体で完結させる、究極の自己充足的システムなのだよ!」

 

 薄暗い部室に、部長の朗々とした声がこだました。

 

「……そ、そうなのか。なんか、すごいことだけは分かったよ」

「そうだ。ということで、ここから私はシナリオへの没入を開始する。集中するゆえ、話しかけるな」

「あ、はい」

 

 好き勝手に持論をぶつけられ、そのまま放置された朝比奈は、釈然としない思いで椅子に戻り、置いてあった漫画を読み始めた。

 すると、いつの間にか部長のモニターを隣で覗いていた涼森がぽつりと零す。

 

「これ──まだバレてないんだね」

 

「おっ! 涼森鈴、いい所に目を付けたな。よしよし、実によい観察眼だ。さすが私の見込んだサンプル」

 

 部長は、朝比奈の時とは打って変わって、弾かれたように振り返ると、涼森の頭を愛おしそうに撫で回した。

 

「……ん」

 

 涼森は少し照れたように、目を伏せて部長の手を受け入れている。

 

「……おい。俺への対応と、あまりに違いすぎねーか?」

 

 少し離れた場所から朝比奈の悲痛な叫びが聞こえるが、部長はそれを完全に黙殺して解説を再開した。

 

「その通り、共通√が終わったというのに、主人公の性別がこのヒロインには開示されていない。見てみろ」

 

『〇〇ちゃんは女の子なんだから、もっとオシャレに気を遣わなきゃダメだよ?』

 

 モニターの中のヒロインは、正面にいるのが「男」だとは露ほども疑わず、無邪気にショッピングを楽しんでいる。

 

「これは、この後に訪れる『超重要イベント』へのカウントダウンに他ならない。ヒロインが主人公に惹かれる過程で、必ず絶望的な壁が立ちはだかる。……そう、『同性』という名の障壁だ」

「……」

 

 涼森はどう感じているのだろうか、黙って部長の話に耳を傾けている。

 

「ヒロインは苦悩するだろう。同性に恋をしてしまった自分は異常なのか、この想いは許されるのかと。マイノリティが抱える、心を引き裂くような重い命題。しかし、彼女は最後には結論を出すのだ。『性別なんて関係ない、私は貴女が好きなんだ』と! ……だが、どうだ? その覚悟が決まった瞬間に、『実は男でした』という事実が発露する!」

 

 部長はモニターを指差し、オーケストラの指揮者のように激しく腕を振った。

 

「その時、彼女が抱えていた『重すぎた命題』は、嘘をつかれていたことへの怒りや戸惑いといった、個人的で可愛らしい感情へと見事に昇華される。つまり、このシステムは、同性愛という社会的タブーを擬似的に経験させつつ、そのリスクだけを綺麗に取り除き、カタルシスへと繋げる装置なのだよ!」

 

 ここまで一息。

 

「これこそ、ハッピーエンド!」

「ぱちぱちぱち」

 

 涼森が興味なさそうに手を叩く。

 それを聞いて、部長は陶酔した表情で、一人悦に浸っていた。

 

 

 

 

「…………なんだこれ」

 

 完全に蚊帳の外に置かれ、ハブられていた朝比奈は、虚空を見つめてポツリと独りごちた。

 

 

…………

……

 

 

「部長! これを見てくれよ」

 

「なんだ、朝比奈彼方。先ほど話しかけるなと言ったばかりではないか。今良い所なのだ」

「いや、そんな場合じゃねえんだって。これを見てくれよ」

「うん?」

 

 部長は、朝比奈が突き出してきたスマホの画面に、不承不承といった様子で視線を落とした。そこには、人気アニメの男の娘キャラに扮した、溜め息が出るほどの美女が映し出されている。

 

「なんだ、これは。ただのコスプレ画像ではないか」

「実はな──これ、本当に男の娘なんだよ! さっきSNSで流れてきたんだ。このレイヤーさん、実は男なんだってさ。すげえだろ?」

「…………くだらん」

「おいおい部長、男の娘だぜ? そんな興味なさそうに装うなって。ほら、拡大してみろよ、この脚とか……」

 

 朝比奈は、すでに興味を失ってPCモニターへ戻ろうとする部長の肩をぐいぐいと揺さぶる。

 

「くだらん、と言っている!」

 

「なっ……!」

 

 部長に撥ね除けるような強さで突き放され、朝比奈はその場によろめいた。

 

「その人物が『男の娘』だとしても、私の琴線に触れることはない」

「なんでだよ! どう見たって完璧に女に見える男……これこそ究極の『男の娘』だろうが! 俺はこれを見て素直に可愛いと思ったぞ。部長はそう思わないのかよ!?」

「ふん、貴様が何を思おうと勝手だ。個人の自由だな」

「おいおい、男の娘研究部の部長が聞いて呆れるぜ。自分の守備範囲外が出てきたからって、逆ギレされても困るなあ、部長?」

 

 朝比奈はニヤニヤしながら、再び部長の肩をポンポンと叩く。だが、部長の瞳に宿る光はどこまでも冷徹だった。

 

「共感されんでも構わん。共感とは他者の個性を殺す行為だ。私にはその男が魅力的には感じない。ただそれだけだ。それに──」

 

 部長は椅子の向きを変え、真理を説く予言者のような顔で朝比奈を見据えた。

 

「何でも守備範囲内であると豪語する行為程無様で浅薄なものはない。『これでなくてはダメだ』という狭量な矜持こそが、性癖を高徳なステージへと押し上げるのだ」

「ふーん、よくわかんねえなあ。でもさ、『男の娘』ってタグが付いてる以上、世間的にはこれが正解なんだぜ?」

「属性タグなど、情報を極端に圧縮して分類するための記号に過ぎん。確かにその『分かりやすさ』による魅力もあるだろう。だが、『男の娘』という広大な宇宙においても、原子レベルでの細分化は当然なされるべきなのだ」

「……つまりは、部長の好みじゃないってことね。相変わらず、分かりにくい言い方しやがって」

「……あまり他人の趣向にとやかく言う質ではないが、あえて言わせてもらおう。朝比奈彼方、仮にも男の娘研究部の部員ナンバー3を名乗るなら、もう少し『男の娘』に対して真摯になったらどうだ」

 

 部長の口ぶりに対して朝比奈は少し身を乗り出し、食ってかかる。

 

「……聞き捨てならねえな部長。俺はあんたの生き方に憧れて入ったのもあるが、今や男の娘は俺の人生の一部なんだよ。それをあんたが否定すんのかよ!」

「ふん。その真っ直ぐさだけはある程度評価している。でなければ入部など認めていない。だがな──その明らかな『受動的な萌え』に浸りきった態度は、ミーハーのそれだぞ」

 

 部長は、朝比奈が握るスマホの画面を冷たく指差した。

 

「受動的……?」

「そうだ。SNSにはびこる一枚画像の萌えなど言ってしまえば『受動的な萌え』である。そんなものは誰にだって体験できる快楽だ。一方、この男の娘研究部では、『能動的な萌え』を追究する場だ。貴様、途中参加とはいえ百回を超える我々の会議を、ただの雑談だと思って聞き流していたのか?」

「……その、『能動的な萌え』ってのは何だよ。この画像と何が違うんだよ」

 

「良い機会だ。教鞭を振るってやる」

 

 部長はわずかに口角を上げると、おもむろに立ち上がり、ホワイトボードの前に陣取った。

 

「その画像のような『受動的な萌え』とは、創作者側が望んだ形で私たちに伝わる萌えだ。一見良いことだと映るやもしれんが、実情は創作者の掌で踊らされているだけ、思うつぼだ。こちらとしては、その方が楽だからな。だが、そんなのは思考停止も甚だしい。単なる消費者以下だ。創作者の自己顕示欲を満たす傀儡に成り下がってしまう」

 

 部長はペンを走らせ、図解を始める。困惑する朝比奈を置いて、その舌鋒はさらに鋭さを増す。

 

「対して『能動的な萌え』とは、我々が持つ独自の『性癖というフィルタ』を通して、対象を再構築する行為だ。創作者の真意を読み解くだけでなく、時には望まれていない形での消費すら辞さない。それは単なる消費ではない。新たな性癖の生産、いわばビッグバンになり得るのだ!」

「…………はぁ」

「我々受け取る側が創作者と対等になれる唯一の手段、それが『能動的な萌え』なのだ」

 

 話の全容は掴めないまでも、朝比奈は負けじと反論の糸口を見つけた。

 

「つ、つまり、受け取り方次第ってことだよな?」

「そうだ」

「じゃあ、おかしいじゃねえか! このレイヤーの画像だって、俺の受け取り方次第でその『能動的な萌え』になるはずだろ。部長にとやかく言われる筋合いはないはずだ!」

 

 朝比奈にとっては会心の一撃。しかし、部長の返答はあまりにも呆気なかった。

 

「そうだ」

 

「……あれ?」

 

 あっさりと首肯した部長に朝比奈は呆気にとられた。

 

「その通りだ。貴様の理屈は正しい。しかし、どうだろうな?」

 

 部長はホワイトボードを叩く。

 

「貴様はこの画像を提示した際、『男の娘であること』を看板にしてプレゼンをした。それは能動的と言えるのか? その画像には『男の娘として見てほしい』という情報しか存在しない。そこには欠落も、隠された『コンプレックス』すらもないのだ」

 

「……っ」

 

「重要なのは、その者が『女性として見られたくて女装している』のか、それとも『男の娘として見られたくて女装している』のかという点だ。男であることを公表し、属性タグとして利用している時点で、それはただの『記号』だ。舌の肥えた受け取り手には、その微妙なズレが致命的な違和感として残るのだ」

 

「…………」

 

 朝比奈は何も返す言葉が無いように見える。

 部長は、視線の端で一瞬だけ涼森の姿を捉えた。

 当の涼森は、外界の喧騒などどこ吹く風といった様子で、膝の上で文庫本を開いている。

 

「そもそもだ、朝比奈彼方。私は三次元における『男の娘』という存在そのものに対して、常に懐疑的な立場を取っている」

 

「……どの口が言ってんだよ。そんなこと言い出したら、涼森はどうなるんだよ。部長、俺なんかに比べて明らかに涼森を贔屓してるだろ?」

 

 朝比奈が涼森を指差す。

 

「…………ふん」

 

 部長は鼻を鳴らし、今度こそ完全に興味を失ったようにPCモニターへと視線を戻した。

 

「……素直じゃねえなあ、部長は」

 

 朝比奈は苦笑し、あきらめたように涼森へ視線を移す。

 涼森は、本を開いたまま動かなかった。ただ、その瞳は活字を追うのを止め、PCのスピーカーから漏れ出るヒロインのセリフが響く部室の中で、部長の背中を見つめていた。

 

 

 

 

『性別なんて関係ない──貴女が好き。この気持ちは変えられないの』

 

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