「もう、こんな時間か……」
部長は、PCのシステム時計を確認し溜息を零す。
既に涼森と朝比奈は帰宅し、部室には天城一人が残されている。ブラインドの隙間からは、燃えるような真っ赤な斜陽が差し込み、放課後の終わりを告げていた。
「続きは明日だな」
PCをシャットダウンし、手際よく荷物をまとめて部室を後にする。
部室の閉鎖後、鍵を管理室へ返却するのは、いつも最後まで残る部長の役目だった。
文化部棟の廊下は、既に静まり返っていた。
部長は静寂の中を歩きながら、時折各部室から漏れ聞こえる物音を耳にする。それぞれの情熱を趣味に注ぎ込み、学生生活という限られたリソースを惜しみなくつぎ込む姿。それは学生としてあるべき、非常に好ましい姿だと部長は一人、深く頷いた。
すると、その時。その部室の扉が勢いよく開き、一人の男と目が合った。
「あ! 天城ッ!」
「げっ…………田中真澄」
その人物の名は、田中真澄。部長改め天城と同様、この時間まで部活動に真摯に(あるいは妄執的に)取り組んでいる男。
「天城、年貢の納め時だ! 我が『
田中は伝統芸能の歌舞伎よろしく、大振りな見得を切ってみせた。彼の背後のドアには、『VN研究部』と力強く彫られた看板が堂々と掲げられている。
田中真澄。VN研究部部長であり、天城に劣らず熱い男であった。
「何度、言ったらわかるのだ。私は『男の娘研究部』の部長だ。VN研究部には入るつもりはない」
「こちらも何度言ったらわかる! 我が部には、お前のような研ぎ澄まされた変態的知見が必要なンだ!」
引かぬ天城に、媚びぬ田中。現在に至るまで、二人の主張は平行線のまま交わることを知らない。
「田中真澄。貴様のVNにかける情熱は認めている。だが私には『男の娘』という揺るぎない志があるのだ。そう易々と鞍替えはできん。それに──私には既に、志を共有した仲間がいる」
この男の娘研究部部長、意外にも情に厚い男である。
「なンだあ? 仲間と言っても、あの不愛想な『置物』と、間抜けでひょうきんな『凡夫』の二人きりじゃないか」
「重要なのは数ではない。貴様のところも人数だけは多いが、それで満足しているのか? 貴様が一番わかっているはずだ。真なる同志が一人いれば十分、二人いれば十二分であるということをな」
「ぐッ……」
図星だったのか、田中は苦々しく言い淀んだ。
「まあ、実情は聞き及んでいる。これ以上追い詰めるのも本意ではない。──そうだ、今日、貴様が勧めていた例のゲームをプレイしたぞ。まだ一√だけだがな」
天城なりの気遣いか、あるいは単なる趣味の話か。話題を変えられた田中は、待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「おお! あれは傑作だろう! 終わったら次は『恋剣』か『るい友』、『〇〇〇*〇〇〇〇』あたりがお勧めだぞ。メジャーで入手しやすいのも美徳だ。それから──」
「そこまでだ」
「おぉ……なンだ?」
天城は、マシンガントークを始めた田中に冷徹な「待った」をかける。
「あまり、人からレコメンドされるのは好かんのだ。バイアスがかかってしまうからな。それでは意味がないのだ。エロゲのセーブファイル名を変更する機能くらい、意味がない」
「おい! それには深い意味があるぞ! ただ技術を持て余して作られたUIなンかではないッ!」
田中の瞳に、愛する媒体への矜持が火花を散らす。
「もう十分示してもらった。これ以降は自分で開拓する。その過程こそが至福なのだ」
「……んまあ、それもそうだな。その孤独な探求心、俺もよくわかる。ゆえに──同志として、ますますお前をこちら側に引き込みたくなるンだがな」
田中の天城に対する執着……もとい勧誘の意志は、微塵も衰えていなかった。
「VN研究部の活動も終わりか? 今から鍵を返しに行くところだ。代わりに持っていってやってもいいぞ」
「そういうなよ。俺も行く。その道中、VN形式の美しさについて語りあおうじゃないか」
「……はぁ、承知した、行くぞ。ただし、主導権はこちらが握らせてもらう」
それまでは、眠ったように静まり返っていた廊下は、二人の美学論争によって、騒々しい空気へと塗り替えられていった。
背後に差し込む夕日が、二人の影を長く歪に伸ばしていた。
…………
……
「ところで田中真澄、今何時だ」
天城の問いに、田中が懐から無造作にスマホを取り出した。画面を見た瞬間、彼の表情から血の気が引く。
「ちょっと待てよ……やばいぞ! あと三分しかないッ!」
「……! まずいな、急ぐぞ」
二人の顔が同時に引き攣った。学園側の温情と善意という細い糸で繋がっている、いわば準・公認の限界部活動である二つの部には、厳しい鉄の掟が存在していた。
【学園管理規則:特別部活動の利用について】
下校時刻を過ぎての施錠、ならびに鍵の返却の遅延は、いかなる理由があっても学園管理規則違反とみなす。
「ああ、うちの部はツーアウトなんだ。あと一回何か粗相をしたら──」
「私もだ」
もはや「VNの演出」だの「男の娘の矜持」だのと言っている余裕はなかった。二人は管理室がある別棟へと向かって、猛然と駆け出した。
しかし、いかんせん日頃の活動は「椅子に座っての思索」と「指先のみを動かすPC操作」である。階段を駆け下りる足取りは重く、心肺機能は早くも悲鳴を上げ始めた。
「はぁ……はぁ、天城、肺が……肺が焼けるようだぞ……!」
「黙って、走れ……!」
酸素不足で思考が朦朧とする中、ようやく一階へと辿り着く。ここを曲がり、廊下を直進すれば別棟への連絡通路だ。
二人は加速を止められぬまま、曲がり角へと突っ込んだ。
──その瞬間だった。
角の先からやってくる誰かの気配。
田中が「あ」と声を上げる暇も、天城が回避運動を取る猶予もなかった。
わずかに先を走っていた天城を魁にその誰かに衝突する。
「うわっ!」
「うおおお!」
ドンッ、という鈍い衝撃。
重力と慣性に逆らえず、天城の視界は激しく回転した。
天城はもはや抗うことを諦め、反射的に目をつむって物理法則に従属するまま地面へと倒れ伏した。それは、ぶつかった相手も同様である。
状況が収束したとき、天城が最初に感じたのは、掌に伝わる『硬さ』であった。
しかしそれは、廊下の床の無機質な硬さとは異なる、有機的な……それでいて違和感のある『硬さ』。
あぁ、相手に覆いかぶさるように倒れてしまったのだと、天城は思った。
幸い、天城自身に怪我はない。だが、こちらが猛進していた過失はある。天城は謝罪と相手の安否確認のため、恐る恐る目を開けた。
──そこには、想像を絶する至近距離で、顔があった。
数瞬前の天城と同様に、その人物は目をぎゅっとつぶり、苦しげに唸っている。
「うぅ……」
天城はその顔に見覚えがあった。それと同時に、内側から弾けるような別の危機感が天城を襲う。視界に飛び込んできたのは『女子学生用制服』。
相手は女子学生。この密着状態。即座に脳裏をよぎるのは、罵声、暴力、あるいは社会的制裁。恐怖に天城の身体は硬直し、動くことができない。
「うーん……何なんだよ、もう……」
天城の戦慄をつゆ知らず、彼女は無慈悲にも目を開けてしまう。
至近距離で視線が交差した。天城が一方的に知っているだけだが、互いを個体として認識したのはこれが初めてのことだ。
彼女は状況の異常さに気づき、急速に冷却されていく頭で、自身の胸元へと視線を落とした。
天城もまた、吸い寄せられるように自分の掌へと視線を向けた。
そこにあるのは、紛れもなく彼女の胸部。
──ツーアウト。
天城は思った。
次の瞬間、羞恥に染まった顔面へのビンタ、あるいは鼓膜を裂く悲鳴が飛んでくるのだと。
──しかし、何かがおかしい。
彼女は綺麗な顔を歪め、再び天城の瞳を覗き込んだ。その表情に浮かんでいたのは、『羞恥』よりも、正体を見咎められることへの強烈な『焦燥』。
その時、天城の脳内に衝撃が走る。
今もなお掌に伝わる、この平坦で『硬い』感触。それは女性の身体が持つ弾力とは、根本的に異なる構造物の手応え──。
「き、貴様────『男』かッ⁉」
「────うわあああああ!」
彼女──否、彼の焦燥が爆発し、鼓膜を震わせる絶叫が廊下に響き渡った。
驚愕に慄いた天城の頬に、激痛が走る。歪な形で現実となった「拒絶」のビンタ。
「うごおっ!」
天城は慌てて立ち上がり、這うようにして距離を取った。
一方、ビンタを放った彼は、放心したように俯き、ぶつぶつと呪詛のような独り言を繰り返している。
「ラッキースケベだな」
背後で一連の流れを特等席で鑑賞していた田中が、他人事のように零した。
「そんな場合かッ!」
様子がおかしい。立ち上がった彼は、瞳孔をぐるぐると回し、明らかに正気ではない様子で天城を睨みつけてきた。
「お、おい、やはり『男』だな⁉────『花園薫子』ッ!」
その名に、彼はビクッと肩を震わせた。
彼はそのまま天城へと詰め寄る。田中は「ひっ」と声を漏らして後退した。
「だ……」
「だ?」
「だ、だれにも言うなよおおお!!」
「ぐはぁあ⁉」
懇願に似た絶叫と共に、ダメ押しのハイキックが天城の顎を捉えた。
「あっ! パンチラ!」
田中の余計な野次が響く中、天城の視界は再び天を仰ぎ、そのままノックアウト。
「いてえ…………」
天城が這い起きたときには、既に彼の姿はなかった。
「あいつなら、猛スピードで走ってどっかいったぞ」
「そ、そうか……」
「それにしても、幸運イベントだったなあ、天城」
「ああ、間違いない。──花園薫子、奴は重要なサンプルだ」
ぶつかった人物は、今日天城のクラスに転校してきた美少女『花園薫子』その人であった。
新たな天文学的発見に、痛みも忘れ、天城は顔を歪めて歓喜の笑みを浮かべた。
その時、田中が不意の一言を発する。
「あっ…………鍵返してねえ」
「しまったッ!」
──コーン、カーン……。
完全下校時刻を示すチャイムが二人の鼓膜を震わせた。
おのれ、花園薫子。
…………
……
部室に男が三人。
「部長、結局女装が必須じゃないなら、何をもってして男の娘なんだ? 部長の見解を教えてくれよ」
「ん? 何をもってして男の娘だと?」
「そうだよ。定義とまでは言わないけどさ、部長は何を基準にその……『男の娘』を判別してるんだ?」
昨日の議論がよほど喉に刺さっていたのか、朝比奈は食い下がるように天城へ尋ねた。
「なんだ、そういうことか」
部長は納得したらしい。
「では逆に問おう、朝比奈彼方。貴様が『男の娘』という概念に求めているものは何だ?」
「相変わらず、質問を質問で返す回りくどい奴だな……。でも、そうだな……やっぱり『男なのに可愛い』っていう、あの強烈なギャップかな」
「……ほう」
「昨日も言ったけど、接しやすさもあるだろ。男同士の気楽さがあるのに、見た目は美少女。俺は男だらけの環境で捻くれて育った自覚があるからさ、日常の中に不意に現れる『男としての共通点』と『女としてのビジュアル』の落差に惹かれてるのかもしれない」
朝比奈の言葉を最後まで聞き届けた天城は、満足げに鼻を鳴らした。
「……せいぜい、五十点だな。だが、悪くない視点だ。誉めてやろう」
天城は立ち上がり、昨日の涼森にしたように朝比奈の頭をわしゃわしゃと撫で回す。
「嬉しくねえ、って、頭撫でてくんな!」
「なんだ、昨日は羨ましそうに見ていたではないか」
「ちげーよ! 男に撫でられたって一ミリも嬉しくねーんだよ!」
朝比奈は天城の手を振り払い、顔を赤くして座り直した。
「でも、五十点ってなんだよ。何が不満なんだ?」
「別にこれに関しては、個人の感性によって正解は異なる。だが、私の美学という採点基準に照らし合わせるならば、五十点だと言わざるを得ない」
「……んじゃあ、部長にとっての正解は何なんだ?」
「まず、前提として。私のスタンスは貴様が言った『男なのに可愛い』とは真逆に位置する」
「はあ? それが男の娘にとって本質じゃないのかよ」
「違うッ! 大前提は、『男なのに可愛い』ではなく、『可愛いのに男』なのだ!」
「『可愛いのに男』……? 言葉を入れ替えただけじゃねえか、何が違うんだよ」
「はぁ……。貴様は昨日の会議すらも聞き流していたのか? 朝比奈彼方、男の娘にとって『男である』という情報は、可愛さよりも一つ奥のレイヤーに存在せねばならんのだ」
天城は手に持っていたマーカーをホワイトボードに叩きつけ、力強く『TRAP』と書き殴った。
「海外では『男の娘』を指す言葉に
「現在、一つのジャンルとして確立してきた『男の娘』とは、消費者の脳内補完があって初めて完成する高度な
「……共犯関係?」
「例えば、漫画の『額の汗』という記号や、背景の『擬音』だ。あれを日本のマンガ文化に全く触れていない外国人が見れば、ただの不衛生な水滴か、画面を汚すノイズにしか見えん。だが我々は、そこに『焦り』や『衝撃』という情報を読み取る」
「……あー、なるほど。あれを感情や音として受け取れるのは、俺たちが『そういう約束事』を共有してるからってことか」
「その通りだ! 男の娘も同じだ。視覚情報だけで萌えるのは、あまりに勿体ない。手に入るすべての情報を……その裏に隠された『性別』という毒を、有効活用するべきなのだ」
天城はホワイトボードを指し示しながら、さらに声を張り上げる。
「例えば、男の娘を他者にプレゼンする際。多くの者は鼻高々に『こいつ、実は
天城は言葉を切り、鋭い眼光を朝比奈に向けた。
「それは『誤解の拡散行為』になりかねない、極めて危険なプレゼンと言わざるを得ない」
「どういうことだ? 俺も他人に男の娘を勧めるときにそういったことを言ったことがあるぞ」
「ついていると言ってしまうことで、可愛いのについていることが魅力になり替わってしまうのだ」
「それは、悪いことなのか?」
「当然だ! 隠された男性器をイコンとして、その存在そのものを信仰する。それは視野が狭すぎる。『こんなに可愛いのに、私たちと同じものがついている=背徳的な魅力』という式は初等数学の教科書にすら載っていないぞ」
「そりゃ載ってねーだろ」
「いいか朝比奈。お前の語った『ギャップ』や『日常性』は、実体験ではない。あくまでデータからお前の脳が導き出した『補完』だ。私が貴様に五十点を与えた理由はそこにある。視覚情報に頼り切らず、その裏にある『概念』を享受しようとしていたからだ」
「現代の消費者は、その補完がかなり高度なレベルに到達している。良くも悪くもな」
「例えば、SNSの住人は金髪ツインテールで釣り目のヒロインを一目見たとき、『ツンデレ』というタグを貼るだろう。そして勝手なストーリーを脳内で補完するのだ」
「確かに。ストーリー性なんてないような一枚絵のオリキャラでも、設定とか背景を勝手に考察されてバズったりするよな」
「そうだ。過去の膨大なコンテンツ消費経験により、単語を文脈に変換する能力が、今やほとんどの者に携わっていると言ってもいい。……だが、そんな世の中であるがゆえに」
天城はそこで言葉を切り、深い溜息とともに肩を落とした。その姿は、進化しすぎた人類の行く末を案じる預言者のようでもある。
「我々は、本来『萌え』の根源にあるはずの『未知との遭遇』を、自ら手放してしまったのだ。最初から『これは男の娘だ』という属性を看板に掲げて提供するのは、ミステリー小説の表紙に犯人の名前を印字するような愚行だ」
「あー……まあ、楽しみは減るわな」
「楽しみが減る、などという生易しいレベルではない! それはもはや罠ではない。単なる『答え合わせ』だ。我々は、自ら獲物を探し出し、自ら罠に嵌まりにいく……その能動的なプロセスにおいてのみ、真のビッグバンを体験できるのだ」
「いいか朝比奈。安易なネタバレを伴うプレゼンは、受け手の『能動性』を奪う冒涜行為に他ならない。『実は
「えぇ……。良かれと思って使ってたんだけどな。衝撃が強い方がいいかと思って」
「浅はかなり! 我々が求めているのは、単なる『男である』という情報ではない。その事実が発覚する寸前、喉元まで出かかった『可愛さへの全肯定』が、性別の壁にぶつかって火花を散らす……その『倫理の火損』なのだよ!」
「……」
「そもそも、現代の『萌え』は、あまりに間違った解釈がなされていると思っている。……嘆かわしいことに、多くの者は『萌え』を『答え合わせ』と勘違いしてしまっているのだ」
「こういうキャラクタは、こういうところが愛せるのだ……という、製作者の引いた白線の上を歩くような安心感。その『想定通りの事象』に安住することを、彼らは『萌え』と呼ぶ。……しかし! 貴様ら、あの衝撃を忘れたのか!? 九十年代から〇〇年代初頭にかけて、我々の脳髄を焼き、倫理を揺さぶった、あの衝撃に次ぐ衝撃を!」
「はぁ……(またデカい話になってきたな)」
朝比奈は、頬杖をつきながら遠巻きに眺める。そんな彼の冷めた視線など、今の天城には届かない。
「あの、辺り一面に埋もれた金鉱を見つけ出した、あの頃の我々のパトスを失ってしまったのか!なんと……おお、なんと嘆かわしいことだ……!」
「……泣いてる」
涼森が、どこか可哀そうな人を見る目で天城を眺める。
「『萌え』とは、『発見』でなくてはならないのだ、朝比奈彼方!」
「せっかくこんなにも素晴らしいコンテンツがあふれる世の中で、既視感のあるシチュエーションに甘んじ、自分の脳内だけで完結する予定調和で満足するなど、あまりに勿体なさすぎる! それは食事ではなく、ただの栄養摂取だ。私が求めているのは、未知の毒を喰らって全身が痺れるような、魂の震えなのだよ!」
「お、おい」
天城はそこまで言い切ると、涙を拭った。
「と、いうわけで類に漏れず『男の娘』の正解とは、未だ発見できていない部分であるとまとめよう。また、『男の娘』の定義は人それぞれで違う」
「なんか、ふわっとした結論になったな」
「わかる者にはわかるであろう、この意味が」
…………
……