朝は遅い。
これは別に比喩ではなく、単純に有坂(ありさか)真昼(まひる)の朝が遅いという意味である。
真昼は、午前十一時四十分に目を覚ました。
「……終わってるな」
天井を見ながら、起き抜け一発目の感想がそれだった。
終わっているのは人生か生活習慣か、その両方か。判定は難しい。とりあえず布団の中でスマホを探り、顔認証に失敗し、もう一度目を開けてロックを解除する。
通知がいくつか来ていた。通販、ニュースアプリ、母親からの「生きてる?」という短文、それから見慣れない差出人のメールが一件。
件名は、
【至急】除魔・浄化のご相談
だった。
「…………は?」
真昼は三秒ほど固まり、それから寝返りを打ってスマホを枕に埋めた。
寝ぼけているのだと思った。そういう夢の続きだと。
しかし、埋めたところで通知の振動がまた鳴った。現実はだいたいしつこい。
仕方なく起き上がり、ぼさぼさの頭のままメールを開く。
『はじめまして。
日本民間霊性対策協会のホームページを見てご連絡しました。
急で申し訳ないのですが、娘の様子がおかしく、部屋でも変なことが続いています。
悪魔なのか、悪霊なのか、私には分かりません。
どうか一度見ていただけないでしょうか。報酬はお支払いします。
住所は――』
そこまで読んで、真昼はそっと画面を閉じた。
「いやいやいやいや」
口に出して言わないと追いつかない類の“いや”がある。
今のは完全にそれだった。
真昼は一週間前、深夜テンションと酒の勢いで、ネット広告に出てきた通信教育エクソシスト養成講座なるものを申し込んだ。
事の発端は友人たちとの通話だった。
『今の時代、なんでも資格になるよな』
『マジで? なんか変なのある?』
『あるある。“陰陽師養成”とか“波動カウンセラー”とか“悪魔祓い入門”とか』
『悪魔祓いって何だよ』
笑いながら検索して、笑いながら申し込んで、笑いながらテキストが届き、笑いながらオンライン試験を受けたら、なぜか受かった。
教材は妙にしっかりしていた。
「近代悪魔学概論」「宗派別祓魔儀礼比較」「対話的浄化の実践」など、言葉だけは立派だったし、動画講義の講師は揃いも揃って薄暗い部屋に座っていた。あまり信用ならない。
だが試験問題はさらに信用ならなかった。
第一問、“悪魔に対する基本姿勢として最も適切なものを選びなさい”
A. 威厳をもって接する
B. 慈悲をもって接する
C. 距離をとって接する
D. ケースバイケース
正解はたぶんDだった。
こういう問題ばかり四十問。落ちる方が難しい。
そして三日前、真昼の部屋にA4サイズの修了証が届いた。
民間認定準一級エクソシスト
筆文字風の書体でそう印字されていた。額縁に入れたら怒られそうなやつである。
「ネタにはなるかと思ったけど……」
まさか仕事が来るとは思わないだろう、普通。
しかも至急だ。
真昼はしばらくメール画面を見つめ、次に差出人情報を確認し、最後に窓の外を見た。晴れていた。現実感だけがいやにある。
「……まあ」
ひとまず水を飲もうと思った。
キッチンでペットボトルのミネラルウォーターを開ける。ぬるい。だが寝起きの体にはちょうどよかった。
そのまま二口、三口と飲んだところで、スマホが鳴った。
着信。さっきの差出人と同じ番号だった。
「うわ」
出るしかない流れだった。
「……はい、有坂です」
『あっ、あの……! 今メールした佐倉と申します!』
女性の声だった。張りつめている。後ろで何か物音もする。テレビではない。生活音とも違う、細かいノイズのような音だ。
『本当にすみません、突然……。でもホームページで“当日対応可”って書いてあって……』
「あー……」
書いてあったな、と真昼は思い出した。講座を修了した者は、協会の簡易名簿に登録される。そのとき勢いでチェックを入れた気がする。深夜の自分を殴りたい。
『娘が昨夜からずっと変なんです。部屋で誰かと話してるみたいで、鏡を見て笑ってて、朝になったら急に“あれが来る”って……』
「はあ……」
『病院にも行こうと思ったんです。でも、その、部屋の壁に黒い手の跡が……。それに、置いてあったお札みたいなのが燃えて……!』
「お札?」
『近所の人に相談したら、とりあえず貼っておけって神社でもらった交通安全の……』
「交通安全」
真昼は目を閉じた。
それはもう、いろいろな意味で違うのではないかと思う。
だが相手は本気で困っている。そこは分かった。たぶん藁にもすがる気持ちなのだろう。もしかしたら精神的な不調かもしれないし、環境の問題かもしれない。思い込みというのは本当に体調を崩す。
だったら、むしろ下手に大事にせず、落ち着かせた方がいい。
真昼は社会に出てから学んだ。世の中の七割くらいは、水分と睡眠と換気で少しマシになる。
「分かりました」
口が勝手にそう言っていた。
『えっ』
「いや、その、たぶんまず落ち着いた方がいいと思うんで。一度そちらにうかがいます。住所、メールのところで大丈夫ですか」
『は、はい! 本当ですか!?』
「はい。まあ、あまり期待はしないでください」
期待しかしていない声で、相手は何度も礼を言った。
電話を切ったあと、真昼はしばらく立ち尽くしていた。
「何やってんだ俺……」
そう呟きながら、とりあえず顔を洗った。
佐倉家は、ごく普通のマンションだった。
駅から徒歩十二分。築二十年ほど。オートロックの前に植え込みがあり、宅配ボックスが並んでいる。どこにでもある、少しだけ生活に疲れた外観の中層マンション。
エントランス前で立っていた女性が、真昼を見るなり駆け寄ってきた。
「有坂先生ですか!?」
先生。
その呼び方にまず面食らう。
「あ、はい……有坂です」
三十代後半くらいだろうか。化粧は薄く、目の下に寝不足の隈がある。スマホを握る手がこわばっていた。
「本当に来てくださって……!」
「いや、まあ……近かったので」
実際は少し遠かったが、今さらそこはどうでもいい。
エレベーターで六階へ向かう間、佐倉は早口で事情を話した。
娘は高校二年生。名前は美月。ここ数週間、夜中に目を覚ますことが増え、誰もいない部屋で会話をしているような声が聞こえるようになった。本人は最初、「夢みたいなもの」と言っていたが、昨日の夜から明らかに様子がおかしくなった。鏡に向かって何か囁き、知らない言葉で歌い、急に泣いたかと思えば笑い出す。
「それで、朝、部屋に入ったら……」
六階に着く。廊下を進む。玄関前で、佐倉は震える指で鍵を開けた。
「これです」
中は、きれいに片付いていた。
少なくともリビングは。
問題の“部屋”は廊下の突き当たりにあり、そのドアだけが半開きだった。そこから、ひやりとした空気が漏れている。
真昼はそこで初めて、少しだけ違和感を覚えた。
エアコンはついていないはずなのに、妙に空気が冷たい。
それに――音がする。
かり、かり、と。
爪で壁紙をひっかくような、乾いた音。
「……娘さんは?」
「今はリビングで休ませてます。朝から急にぐったりして……」
「なるほど」
真昼は部屋を覗き込んだ。
高校生の女子の部屋らしい部屋だった。ベッド、机、本棚、ぬいぐるみ、コスメ、小さな観葉植物。だが壁際に黒ずんだ汚れがある。手形のようにも見えた。床には何か細い塩の線が引かれていて、途中でぐちゃぐちゃに乱れている。
そして姿見の鏡。
その表面に、内側から爪で引っかいたみたいな無数の筋がついていた。
「……」
真昼は近づいて、鏡を覗く。
自分の顔が映る。ぼさっとした黒髪、コンビニで買った白シャツ、紺のチノパン。どう見ても悪魔祓いの専門家ではない。
だがその奥、鏡の深いところに、何かもう一つ影が映った気がした。
細い手。黒い、長い指。人のものに見えて、人のものに見えない。
それが鏡の内側から、ぴたりとこちらを見ていた。
「先生……?」
佐倉の声で、真昼は瞬きをした。
影は消えていた。
「……あー」
気のせいだ。たぶん。
疲れてるのかもしれない。朝飯も食ってないし。
「とりあえず」
真昼は振り返った。
「換気しましょう」
「……換気、ですか?」
「はい。空気がこもると気も滅入るんで」
言いながら、窓に近づく。カーテンを開ける。
その瞬間だった。
部屋の隅から、ぐしゃり、と何かが蠢くような音がした。
黒い染みのようなものが床を這い、窓際へ逃げる。人影ほどの大きさ。だが輪郭がない。煙のようで、泥のようで、見るほど形が定まらない。
佐倉が息を呑んだ。
真昼は見なかったことにした。
「カビとかもありますしね。湿気良くないですよ」
窓の鍵を開ける。
がたり、と窓が開く。
春先の乾いた風が吹き込んできた。
その瞬間、部屋の奥で何かが悲鳴を上げた。
耳ではなく、頭の奥に直接刺さるような甲高い声だった。
佐倉はその場にへたり込み、真昼は反射的に眉をひそめる。
「……うるさ」
ぽつりと呟いた、その一言。
それだけで、窓際に溜まっていた黒いものが、熱湯をかけられた虫みたいにじりじりと縮んだ。
真昼はそれに気づかなかった。
「水、あります?」
「み、水?」
「何でもいいです。ペットボトルとか」
「は、はいっ」
佐倉が慌ててキッチンへ向かう。
残された真昼は、部屋の中央で腕を組んだ。
正直、何も分からない。
ただ、こういうとき人は何か“やってもらった感”があると落ち着く。メンタルケアには手順が必要だ。たぶん。
そう思っているうちに、佐倉が天然水のボトルを両手で持って戻ってきた。
「これで、足りますか……?」
「十分です」
真昼は受け取って、キャップを開けた。
透明な水だ。ラベルには採水地とミネラル成分が書いてある。どう見てもただの市販品である。
「先生、それは……」
「まあ、あの」
真昼は少し考え、なるべく“専門家っぽい顔”をした。
「一回、お嬢さんに白湯を飲ませてください」
「さ、さゆ……?」
「温かい方が落ち着くんで。あと水分足りてないと変な夢とか見やすいですから」
佐倉は完全に混乱していた。
だが、“分からない専門用語”より“日常の行動指示”の方がかえって信じやすいことがある。真昼は昔、クレーム対応でそれを覚えた。
「それと、今日は早めに寝かせて、スマホ見せないでください。部屋はしばらく換気。鏡は布でもかけとけばいいです」
「は、はい……」
その後ろで、鏡の表面がぶるぶると震えた。
真昼は気づかない。
だが“向こう側”ははっきりと見ていた。
目の前の人間が、何でもない顔で立っていることを。
威圧もない。祈祷もない。呪文もない。なのに、窓を開けただけで焼ける。水を掲げただけで喉が裂ける。声を荒らげもせず、「うるさ」と漏らしただけで核が軋む。
ありえない。
ありえない、はずだった。
人は、恐怖し、すがり、意味を与えるからこそ触れられる。儀式や信仰や禁忌を介してこそ、こちらと向こうはつながる。
だというのに、この男は違う。
信じていない。
まるで最初から、こちらを“その程度のもの”として扱っている。
理解の外に置かれたものは、存在の足場を失う。
鏡の奥で、それは初めて恐怖を知った。
『やめろ』
声にならない声が揺れる。
『それを、向けるな』
「ん?」
真昼はペットボトルを少し傾けた。
水面がきらりと光る。
『やめろ』
「飲みます?」
次の瞬間、鏡の内側から黒い腕が飛び出しかけて、
――ばしゃ。
真昼が何気なく前方にこぼした数滴の水が、それに触れた。
肉に油を落としたような音がした。
黒い腕は煙を上げ、絶叫と共に鏡の内側へ引っ込む。表面を走っていたひびが一気に白く濁り、ばき、ばきばき、と乾いた音を立てた。
佐倉が悲鳴を上げる。
真昼はさすがに飛び退いた。
「うおっ、え、割れる!?」
鏡は割れなかった。
その代わり、表面にこびりついていた黒ずみが、潮が引くように消えていく。壁の手形も、床に残っていた汚れも、少しずつ薄れていく。
部屋の重さが抜けた。
さっきまで皮膚にまとわりついていた嫌な冷気が、春の風に押し流されるように消えていく。
静かだった。
拍子抜けするほど、あっけなく。
「…………」
「…………」
佐倉は口元を押さえ、部屋を見回した。
「き、消えた……?」
「え」
真昼も見回した。
たしかに、さっきより空気が普通だった。単に換気が効いただけかもしれない。たぶんそうだ。
「いや、まあ……気のせいじゃないですか」
「で、でも今……!」
「鏡、寿命だったんじゃないですかね。最近のやつ急にいきますし」
「そんな雑な家電みたいな……」
もっともなツッコミだった。
だがそのとき、リビングの方からぱたぱたと足音が聞こえた。
「お母さん?」
制服のままカーディガンを羽織った少女が、廊下の向こうに立っていた。顔色は悪いが、目は朝よりずっとしっかりしているらしい。
「……あれ、なんか、頭軽い」
「美月!」
佐倉が駆け寄る。
「大丈夫なの!? 気分は!?」
「う、うん……。さっきまですごい嫌な感じだったのに、急に静かになった。……誰?」
娘の視線が真昼に向く。
真昼は少しだけ気まずく、片手を上げた。
「有坂です」
「何の?」
「……エクソシスト」
言った瞬間、自分でちょっと恥ずかしかった。
だが美月はぽかんとしたあと、真顔で言った。
「全然そう見えないですね」
「よく言われます」
初めて言われたが、たぶん今後もよく言われるだろうと思った。
一時間後、真昼は近くのファミレスにいた。
佐倉家ではあのあと、もう一度だけ部屋を確認し、美月にも白湯を飲ませ、念のため心療内科か内科にも相談するよう勧めておいた。怪異だろうが体調不良だろうが、病院は行った方がいい。そこは本心である。
帰り際、佐倉は何度も頭を下げた。
「本当にありがとうございました……。最初は、正直、こんなにお若い方で大丈夫なのかと思っていたんですが……」
それはこっちもだった。
「いえ、まあ」
「後ほど協会を通してお支払いしますので」
「いやいや、そんな大したことしてないですから」
「でも先生、最後に“あれ”へ水を……」
「あれは事故です」
実際、ほぼ事故だった。
だが佐倉は、そこに“意図”と“技”を見たらしい。人は見たいものを見る。
テーブルに運ばれてきたドリンクバーのコーヒーをすすりながら、真昼はスマホを見た。
協会の会員ページには、今日の案件が「対応完了」になっていた。
その横に、請求予定額が表示されている。
報酬 ¥500,000
「は?」
声が出た。
見間違いかと思って更新する。変わらない。五万円ではなく、五十万円である。
「いやいやいや」
真昼は周囲を見た。誰もこちらを気にしていない。平日の昼下がり、ファミレスは平和そのものだ。
五十万。
窓を開けて、水をこぼして、白湯を勧めて、五十万。
「怖……」
あまりにも仕事内容と金額が釣り合っていない。
詐欺か、裏があるか、その両方だ。
真昼はすぐに協会の問い合わせフォームを開いた。
『本日対応した案件について確認ですが、報酬額の桁が一つ多いように見えます。
何かの入力ミスでしょうか。』
送信。
三分後、返信が来た。
『ご確認ありがとうございます。
当協会規定に基づき、A級相当事案の初回対応報酬です。
問題ございません。
今後ともご活躍をお祈り申し上げます。』
「A級相当って何?」
思わず口に出た。
その瞬間、スマホがまた震えた。
新着メール。
件名はこうだった。
【優先案件】至急ご相談したいことがあります。家の天井裏で何かが笑っています。
真昼はコーヒーを置いた。
天井を見た。
ファミレスのスピーカーから、昼向けの穏やかな音楽が流れている。
世界は平和だった。
少なくとも見た目は。
「……やめときゃよかった」
誰に向けるでもなくそう呟いた、その足元で。
床に落ちたコーヒーの雫に映った照明が、ほんの一瞬だけ十字架みたいに見えた。
続かない