魔族と人間の共存。交わらない二つの種族を交わらせるという究極の不可能。
これを私の魔法『不可能を可能とする魔法』で実現するためには、致命的な問題が二つあった。
まず、圧倒的に魔力が足りない。魔族と人間という種族全体に作用させるには、単純に対象が多すぎる。
次に、奇跡を起こす術者である私自身が、人間という生き物をこれっぽっちも理解していないことだ。人間のことを知らずして、どうやって共存を果たすのか。そのイメージが一切湧かないのだ。
「……まずは、知るところからかな」
私が小さく呟いた声は、魔王様が去っていった冷たい通路に小さく反響し、消えていった。
人間を知る。人間の情愛を、矛盾を、悪意というものの正体を理解する。
だが、それは我々魔族にとって、言葉のままに
だからこそ──私の魔法が、それを可能にする。
それが私の魔法の条件だ。
私は城を抜け出し、北の極寒の地から離れた、名も無き森へと向かった。
そこは自然に満ち、人の寄り付かない静かな場所だった。木漏れ日が落ち葉を照らし、風がそよぐと緑の匂いが運ばれてきた。ここならば、魔力を失って力が弱まったとしても、しばらくは身を隠せるだろう。
「さて、と」
私は大きな古い樫の木の根元に立ち、目を閉じた。
自分自身に魔法をかける。目的は『魔族である私が人の心を理解し、人間と共存できるようにすること』
対価は、私が長年貯め込んできた魔力。
両手を広げ、自身の内側深くに眠る膨大な魔力に火を点ける。
何百年と蓄積してきた大魔族の魔力が一斉に逆流し、沸騰する。森中の空気が震え、鳥たちが一斉に飛び立った。
「──『
術式が噛み合い、天秤が傾いた瞬間だった。
私の貯蓄していた魔力が、すべて持っていかれた。
慌てて術式の進行状況を確認すると、私が人の心を得る部分までは完了している。問題は、その後の
(まずい、このままでは肉体ごと持っていかれる……!)
私は急いで術式の構成を書き換える。
「はぁ……はぁ……なんとか、なった……」
絶え絶えになる呼吸を整えながら、たった今手に入れたものに焦点を合わせようと、自らの内側に意識を向けた瞬間だった。
それまで存在しなかった未知の概念の濁流が、過去の記憶と共に、凄まじい質量の感情を伴って流れ込んできた。
魔力を無理やり簒奪した魔族。
魔力を失い、呆然としているところを食い殺された人間の悲鳴。
「あ、ぁ……っ!?」
脳髄が焼け焦げるような感覚。
過去の自分に対する強烈な嫌悪感と、胸を握り潰されるような罪悪感。それと共に、魔力を失った肉体が指先から塵のように崩れ、魔力へと還っていく感覚。
(あ、これ、本当に死ぬ……)
生存本能が必死に足掻くが、それを上回る罪悪感が私に「そのまま死んでしまえ」と叫んでいる。
意識が薄れていく。肉体の崩壊と心の痛みが、ないまぜになっていく。そのほとんどの感覚を、私は知らない。
森の湿った土の上に倒れ伏しながら、私は浅い呼吸を繰り返した。
「──馬鹿な真似をしたものだな、ウンメーリア」
静寂を破る、理知的な声が響いた。
顔を上げると、黒い外套をまとった魔王様の腹心、シュラハトが私を見下ろしていた。
「……シュラハト。君なら、私がこうやって地面を舐めることも、わかっていたのかい?」
「これはただの偶然だ。そして、お前が今ここで、私と取引をすることもな」
シュラハトは枯れ枝を踏み折りながら、私の傍らにしゃがみ込んだ。その瞳は、感情の見えない底なしの暗闇だ。
「教えてくれないか、ウンメーリア。自らの存在を削ってまで手に入れた『人の心』とやらは、お前に何をもたらした?」
「……ひどく、厄介なものだよ。これが人の心なのかは完全にはわからないけど、今はただ、過去の自分への嫌悪感と、魔王様への申し訳なさで……苦しいんだ」
「嫌悪感と罪悪感、か。自らが生きるために為した当然の行為で苦しむなど、ひどく非合理的な機能だな。人間が弱く脆い理由がよくわかる」
シュラハトは呆れたように言い捨てたが、その声音には明確な興味の色が混じっていた。
「だからこそ、お前をここで死なせるわけにはいかない」
シュラハトは私の目を見据えた。
「私がお前を助けるのは、同胞だからではない。お前の『奇跡』が必要だからだ」
そう言い、彼は一つの魔法を発動させた。
「これは契約だ。私の百年分の魔力を譲渡する。それで、ひとまず肉体を安定させろ」
私と彼との間に、魔力的なパスが形成される。魔族の契約魔法。その回廊を用いて、彼から澄んだ魔力が流れ込んでくる。
魔力を燃やし尽くした私には使えない魔法が、励起される。無意識にその魔力で魔法を行使する。
『魔力を簒奪する魔法』
細い契約魔法の回廊を、上書きするように私の魔法が構築される。
膨大な魔力が流れ込み、肉体が安定する。消えかけていた指先も元通りだ。
「……助かるよ。感謝もする。でも、君の目的は何だい? 」
「私が求めるのは、遠い未来までも見通す目だ」
「……君は、すでに見通しているじゃないか」
「私が見ているのは、あくまで高度な予測と推論の延長に過ぎない。千年先、私が死んだ後の景色を見るためには、もっと確実性が高く、あらゆる分岐の先まで見通せる、魔法では
「……どこでそれを知ったの」
「推測すれば自ずと答えは出る。お前の不自然な魔力運用と、魔王様からの話。そこから導き出される結論だ」
さすがは魔王様の腹心と呼ばれるだけはある。
「……それほどの奇跡に、どれほどの魔力が必要か、わかっているのかい? 君の魔力のほとんどを燃やし尽くすことになるんだよ」
「承知の上で必要だと判断したまでだ。魔族の未来のために」
迷いのない即答だった。
私は小さく息を吐いた。覚悟が決まっている。その姿勢には、純粋に尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「わかった。なら、始めようか」
私は彼から譲渡された魔力を種火にして、自らの魔法を励起させようとした。奇跡の対価として、対象から魔力を奪い取る『魔力を簒奪する魔法』を起動する──はずだった。
「……あれ?」
術式が、途中で霧散した。
何度試みても、他者の魔力を無理やり奪う術式が組み上がらなかった。
◆
原因を探るため、私は一時的にシュラハトの居城に身を寄せ、原因究明と体の回復に専念することにした。
数ヶ月ほど調べてみて、ようやく理由が判明した。原因は、私が得てしまった「人の心」だった。
そもそも、七崩賢が使うような特殊な魔法は、人類には使用できない。それは精神性が根本から異なるからだ。ならば、人の心を得た魔族が、それまで使えていた魔法を使えなくなることもあり得るのではないか。
他者から魔力を無理やり奪うという行為に対し、私が得てしまった罪悪感と自己嫌悪が、無意識の強烈な拒絶反応を引き起こしていたのだ。
だが、そこで諦めるようなら、そもそも私はここまで魔法にのめり込んでいない。
どうすれば、私の魔法は再び機能するのか。
ヒントは、森でシュラハトが私に魔力をくれた時のことにあった。あの時、シュラハトには明確な渡す意思があり、補助線のような契約魔法が介在していた。
(……そうか。ならば、契約魔法を私の魔法の行使プロセスに組み込んでしまえばいい)
試行錯誤の末、私は一つの結論に達した。
契約魔法を用いて、相手に魔法の内容と対価をすべて話し、相手との完全な相互承諾を得る。そうすれば、罪悪感による拒絶反応がなく、魔法の行使が可能となった。
もっとも、私自身の魔法にそれを組み込むため、ほとんど一から契約魔法を構築し直す羽目になったが。
そうしてしばらくの期間、シュラハトの元で研究を続けていたが、彼との理知的な静かな時間は、意外と居心地が悪くなかった。まるで魔王様の元にいた頃に近い感覚だった。
そしてついに魔法の改良が完了した日。
私はシュラハトの持つ膨大な魔力の九割を対価として受け取り、彼に『千年先の未来を見通す目』を付与した。
今回は、私自身の取り分は無しだ。最初に森で譲渡してもらった百年分の魔力が、その前払いだったという契約にしたからだ。
「……これで、お前も私も望み通りのものを得ただろう」
「あぁ。ありがとう、シュラハト」
「礼には及ばん。お前の奇跡は、必ず魔族の行く末に役立てよう。もう会うことはないだろう、奇跡の魔女よ」
シュラハトは静かに目を閉じ、そう言い残して去っていった。
◆
それから数日後のことだ。
シュラハトの城を去る準備をしていた私は、城の裏手の庭園で、一人うずくまっていた。
人の心を得た代償は、魔法の不全だけではなかった。
感情の振れ幅が大きくなりすぎ、自分でも制御できなくなっていたのだ。過去に人間を食い殺した記憶による激しい自己嫌悪。それと同時に湧き上がる、人間を餌と認識する魔族としての絶対的な本能。
相反する二つの概念が私の中で衝突し、感情が爆発する。私は地面に突っ伏し、意味もなく涙を流し続けていた。
「──ウンメーリア。君は、どうして鳴いているんだ?」
不意に、静かで、しかし好奇心に満ちた声がかけられた。
驚いて顔を上げると、黄金色の髪をした魔族が立っていた。マハトだ。シュラハトに用があって訪れた彼が、私の気配を察知したらしい。
「マハト……どうして、君が……」
「噂は聞いていたが……君から溢れているのは、本物の感情か? 魔物としての鳴き声ではなく?」
マハトは私の顔を覗き込み、流れる涙を指先でそっと拭った。
彼は昔から、人間を理解することに執着を持っていた。彼にとって、泣いている同族の姿は、答えに近いものなのだろう。
「……そう、みたいだね」
「素晴らしい……」
マハトの瞳が、恍惚とした光を帯びた。
「君の奇跡で起こせるのであれば、それは決して不可能ではないのだな。ウンメーリア、君にできるなら、私にもいつか、悪意や罪悪感というものが理解できる日が来るのだろうか?」
彼の純粋な問いかけが、私の胸を鋭く突き刺した。
違う。魔族が自然に人を理解することなど、絶対に不可能なのだ。私は生涯の魔力を捨て、不可能を可能にする魔法という反則を使って、無理やりこの心を作り出したのだ。君がいくら人間と関わろうと、その結末には絶望的なすれ違いしかないのだ。
そう、事実を告げなければならない。
だが、感情に振り回されていた私は、眼の前のマハトが抱いた純粋な期待を打ち砕くことが、どうしてもできなかった。
真実を話すことの残酷さに、足がすくんでしまったのだ。
「……ええ。いつかきっと、君にも理解できる日が来るかもしれないね」
私は震える唇を噛み締め、決して言ってはいけない嘘を口にした。
「そうか。……ありがとう、ウンメーリア。希望が見えたよ」
マハトは満足そうに微笑み、マントを翻して去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は声を殺して泣き崩れた。
私は彼に、存在しない希望を与えてしまった。
その後、マハトが積極的に人間と関わるようになったという話を噂で聞くたびに、私の胸は痛んだ。私がついた嘘が、彼を永遠にゴールのない残酷な道へと突き落としたのだ。
その罪悪感は、今の私が森の奥で隠居生活を送る理由の一つとして、私の心に刺さり続けている。