マハトについてしまった嘘から逃げるように、私は森の奥で隠遁生活を始めることにした。
エルフの魔法使いという設定で偽装しつつ、時折この森に迷い込んでくる人間たちの不可能な願いを聞き入れる。もっぱら死者蘇生が願いの大半だったが。
たった一人のために魔力を捧げるなんて、その魔力を持って全線で戦い続けた方が何十倍もの人を救えるというのに。
なんて私の中の魔族の部分が言っている。
そんなことを何十年、何百年と続けているうちに、いつの間にか人間たちは私のことを『奇跡の魔女』なんて呼ぶようになっていた。
でも実のところ、これにはちょっとした裏がある。
昔の私は簒奪のウンメーリアという、同族からも忌避されるような物騒な二つ名で呼ばれていた。他人の魔力を奪い取る魔法なんて、魔力を至上とする魔族社会からすれば完全に反則だからね。当時の私は、それなりに恐れられていたらしい。
とはいえ、それは昔の話。私のことを知っているのは、将軍クラスの古株魔族くらいのものだ。
ただ、人間社会の片隅で隠遁生活を送るのに簒奪の魔女なんて物騒な伝承が残っていると、何かと目立って都合が悪い。
以前、私はグラオザーム本人に直接接触し、ある頼み事をした。
「私の簒奪の名を人類と魔族から消してくれないか」と。
精神魔法を操る彼なら、そんなことは造作もないはずだ。問題は個人主義である魔族が、こんな依頼を受けてくれるのかというところだった。
私が聞き及ぶ話によると魔族の中でも、まだ話が通じる方らしい、ということだった。
その魔法の性質から来ているのかはわからないが、どちらにせよこのままだと私は遠くない将来討伐される。人にせよ魔族にせよ、私は敵が多いのだ。
そしてなんとか対峙が叶った際。
やはり、グラオザームは冷淡だった。
「私に何の利があるのですか?」
彼はにべもなく私の頼みを切り捨てた。
まずい。最悪の場合彼の操り人形にされることを覚悟した、次の瞬間。
彼は幻影のように消え去った。……これで済んで良かったと思おう。
ところが、それから数十年後。人間の間で私の簒奪の伝承は綺麗さっぱり消え失せ、魔族の間でも一部を除き簒奪の名は消えていった。
代わりに奇跡の名が付き、人類側の魔法使いとして名が広まっているようだ。
自分とは別の奇跡の噂が混ざることで、勇者一行に対する目眩ましや情報攪乱に使えると後から考え直したのか。それとも、ただの気まぐれか。
結果的に私の頼みは叶えられたわけだが、彼がいつ、どのようにして人間の認識を書き換えたのかは全くわからなかった。私の認識が歪められているのかどうかすら、わからない。
そこから、彼とは多かれ少なかれ奇妙な縁があった。
ある日のこと。
私が小屋の周りを適当に片付けていると、背後から不意に声がした。
「相変わらず、隠遁生活を満喫しているようですね。ウンメーリア様」
振り返ると、そこには見目麗しい魔族の青年──グラオザームが、微笑みを浮かべて立っていた。気配も足音も、直前まで微塵も感じさせない完璧な登場だ。
私は表面上は「おやまぁ、珍しいお客だね」と余裕を装いながらも、内心ではひやりとしていた。
今の私が彼と戦えば、どうなるか。
人の心を得た代償で私の魔力はかつてに比べて大きく減退している。昔は膨大な魔力量に任せた力押しの脳筋スタイルだったが、今はそうもいかない。魔力効率も考えて、精神的に使いやすい人間の魔法を主体に戦うようにしているくらいだ。
その魔法の練度も、奇跡のための魔力集めに集中しているせいで高くはない。
もちろん、そこいらの百歳程度の魔族なら無傷で退けられる自信はある。だが、相手は七崩賢だ。幻影と精神操作の使い手である彼が本気を出せば、少しの隙を突かれて精神を奪われる。
「こんな辺境の森まで、何の用だい? グラオザーム」
「まさか。かつて簒奪と恐れられた旧き大魔族が、ずいぶんと丸くなったものです」
グラオザームは私の警戒を軽く受け流し、慇懃無礼なほど深く頭を下げた。
「用件などという大層なものはありませんよ。ただ、近くまで来たので、私と同じ『奇跡』の二つ名を共有する共犯者にご挨拶をと立ち寄らせていただいた次第です。……それに」
グラオザームは、まるで珍しい実験動物でも見るような目で、私をじっと覗き込んできた。
「あなたが手に入れたという『人の心』。それがどのように機能し、魔族としての絶対的な本能とどのように共存しているのか。あなたの精神を少しばかり覗かせていただきたいと思いましてね」
なるほど。この男は傲慢な知的好奇心、あるいは勤勉な探究心でここに来たのか。
「必要とあらば、あなたの精神構造を少し弄って差し上げましょうか? 人間の心の不要な足かせ部分を取り払い、かつてのように“魔力を簒奪する魔法”を自由に行使できるよう手直しして差し上げてもいい。そうすれば、あなたの目的とやらも、もっと早く達成できるのではありませんか?」
悪魔の囁きとは、こういうものを言うのだろう。
人の心をただの現象として利用し、欺く彼にとって、わざわざ自分の内側に心を取り込んで不便な思いをしている私は、ひどく滑稽に映るのだろう。
私は小さく息を吐き、肩をすくめた。
「……遠慮しておくよ」
「ほう。それはなぜですか?」
「泥臭くて、矛盾だらけで、本当に厄介な代物だけどね。君に見せるつもりはないし、弄られるつもりもない。こんな非合理なもの、君が触れたらそれこそ狂ってしまうかもしれないね」
私の言葉を聞いて、グラオザームはつまらなそうに目を細め、鼻で笑った。
「ええ、同感です。私には理解の及ばない、そして必要もない領域だ。私はただ、ありもしない奇跡で欺くだけで十分ですから」
彼は満足したように身を翻した。
「それにしても、ウンメーリア様。あなたは本当に、人間のような顔をするようになったのですね。それでは、また」
その言葉を最後に、彼はふっと霞のように姿を消した。
痕跡一つ残っていない。本当に掴めない魔族だ。強張っていた肩の力を抜き、ようやくいつもの呼吸を取り戻した。
それから幾年も経ったある日のこと。
人間の村へ日用品の買い出しに行った私は、酒場で飲んだくれている男たちの会話から、ある噂を耳にした。
奇跡のグラオザームが、勇者ヒンメルの一行によってついに討ち取られたというのだ。
買い物を済ませて森へ帰りながら、私は独りごちた。
あんな魔法を使うやつが、本当に死ぬのだろうか。
もし、彼の魔法を同じく魔法で突破したのだとしたらそいつは人間じゃない。もはや魔族に近い領域にいる化け物に違いない。
もし、彼の魔法をその身一つで打ち破ったのであればそいつは魔族以上のバケモノだ。
彼は精神魔法使いの頂点と言っても良い。人間の認識をいじることなど息を吐くようにやってのけるし、自分自身の死すらも、勇者一行を欺くための一手として偽装している可能性は十分にある。
私は森の静寂の中で、足を止めた。
おもむろに魔法を構築していく。
今回の対象は死者の蘇生。
術式を構築する。
魔力を組み上げ奇跡が形になっていく。
そして──術式が組み上がり、魔法が起動しようとした瞬間。
『不可能を可能にする魔法』その術式を自ら解き、空へと霧散させた。魔力の粒子が木々の間を抜けていく。
「ふっ、そうか……」
私は小さく呟いた。
彼がどうなったのか。その事象は不可能だったのか。それは語られない。
「さて、帰ろうか」
他者の生死や世界がどう転ぼうが、私のやるべきことは変わらない。
いつか必ず、人類と魔族が笑い合えるそんな場所を。その奇跡のために私の一生は紡がれる。