グラオザームの魔導書を読み解くのに、まるまる一つの冬を費やした。
悪趣味な理論だと思っていたけれど、いざ本気で向き合ってみると、その精緻さには舌を巻くしかなかった。精神というあやふやなものを、彼は魔力の構造体として完全に記述しきっている。人間の記憶の在り処、感情の流れ、自我の輪郭。そういう雲のようなものを、彼は術式という鎖で縛り上げ、意のままに編み替える。
千年に一人の天才というのは、ああいう魔族のことを言うのだろう。
そして、その理論を自分自身に当てはめてみて、私はようやく気がついた。
いや、気づいてしまった、というべきか。
「……なんだ。ここにあったのか」
囲炉裏の火が爆ぜる音だけが響く小屋の中で、私は独り、乾いた笑いをこぼした。
かつて私は、人の心を得るという不可能を可能にした。その対価として、数百年かけて蓄えた魔力のほとんどを失った──ずっと、そう思っていた。
でも、違ったのだ。
燃やし尽くされたのは対価の一部に過ぎない。残りの魔力は、失われたのではなく
魔族の精神構造に、人の心という異物を継ぎ足す。本来なら水と油であるはずのそれらが混ざり合わずに済んでいるのは、私の魔力の器そのものが壁となって、二つの心を隔てているからだ。魔族の本能と、人の心。その間に横たわる分厚い隔壁として、私の魔力の大半が、ずっと使われ続けていた。
道理で、いくら魔力を貯めても器が満ちた気がしないわけだ。私は数百年ものあいだ、穴の空いた器に水を注ぎ続けていたのではない。最初から、器そのものが二つに仕切られていたのだ。
計算してみれば、皮肉なくらい綺麗に符合する。
隔壁に費やされている魔力は、およそ大魔族一人分。
私の奇跡に足りない魔力と、寸分違わず同じだけ。
つまり、こういうことだ。
人の心を消せば、隔壁は要らなくなる。器は一つに戻り、魔力は統合される。その瞬間、私は不足していた魔力のすべてを手にする。
「……本当に、嫌な置き土産だよ、君は」
あの男は、ここまで視えていたのだろうか。
人の心を珍しがって私の精神を覗きたがった、あの日のグラオザーム。彼がこの魔導書を残していったのは、気まぐれか、それとも実験の続きか。今となっては確かめようもない。
◆
問題は、その先にあった。
人の心を消した後の私は、純粋な魔族に戻る。
魔力を至上とし、合理でのみ動く、旧き大魔族ウンメーリアに。
ならば問おう。魔力の器を取り戻したその魔族は、果たしてその全てを燃やすだろうか。人類と魔族が笑い合える未来のために。
答えは考えるまでもない。
絶対に、使わない。
魔族は己の魔力のために生きる生き物だ。種族の未来のためにすら個を捧げないというのに、ましてや人間のためになど、髪の毛一本分の魔力すら払いはしない。かつての私自身が、そういう生き物だったのだからよくわかる。あの日、南の地の戦士たちが我が子のために命を投げ出した姿を、理解できないと切り捨てる側に、私は戻るのだ。
だから、縛る。
人の心を消す前の、
術式の設計はこうだ。
まず、契約魔法を魂ではなく、魔力の器そのものに打ち込む。魂に刻めば、心と共に消えてしまうかもしれない。だが器は、心が消えた後もそこに在り続ける。契約の内容は単純明快。『精神魔法によって人の心が消滅し、魔力の器が統合された、その瞬間。統合された魔力の全てを対価として、
精神魔法、契約魔法、簒奪の魔法、そして不可能を可能とする魔法。
三位一体だった私の魔法に、グラオザームの理論を継ぎ足した、四位一体の術式。
心を消された後の私に、拒否する隙は与えない。契約は器に刻まれているのだから、残った魔族がどれだけ合理で抗おうと、術式は淡々と進行する。奇跡が成るまでの数瞬だけ存在する純粋な魔族は、自分の魔力が何に使われるのかを理解する暇すらなく、魔力へと還る。
我ながら、ずいぶんと因果な魔法を組んだものだと思う。
相互の承諾がなければ発動しない、私の契約魔法。その承諾を交わす相手が、未来の私自身なのだから。
◆
もっとも、これが賭けであることに変わりはない。
グラオザームの精神魔法は、あくまで他者に向けるためのものだ。それも人間の精神構造を前提としている。魔族と人の心が同居する私のような継ぎ接ぎの精神に使った場合、何が起こるかは彼の理論書にも書かれていない。
考えられる最悪は二つ。
一つは、人の心を消す際に、器ごと崩壊すること。この場合、奇跡は成らず、私はただ静かに魔力へ還って終わる。数百年の貯蓄も、彼らから受け取った願いも、全部が無駄になる。
もう一つは、もっと悪い。
心の消滅と同時に、器に刻んだ契約ごと消し飛ぶことだ。その場合、後に残るのは、大魔族一人分の魔力を取り戻した、縛るもののない簒奪のウンメーリア。人の心を知り、人間の弱点を知り尽くした魔族が、麓の村のすぐそばで目を覚ますことになる。
二つ目の最悪については、まだ何の手も打てていない。契約が消し飛んだ後にまで効く保険なんて、今の私の知識では組みようがなかった。
考えろ。何か、あるはずだ。心を失った私が、たとえ全てを裏切ったとしても、それでも私という魔族をこの世に残さない方法が。
答えの出ないまま、月日だけが過ぎていく。
◆
そしてもう一つ、もっと根本的な問題が残っていた。
仮に魔力の統合に成功したとして──いったい何を
魔王様の願い、人類と魔族の共存。あの日、私と魔王様、二人分の魔力を注いでもなお五分だった賭け。統合した魔力を全て注いだところで、勝算が劇的に上がるわけではない。それどころか、対象が種族全体である以上、いくら魔力を積んでも、天秤はいつまでも危うく揺れ続けるだけかもしれない。
もっと確実な形はないのか。
もっと、確実に
答えの出ない問いを抱えたまま、私は魔導書を閉じ、囲炉裏の火を落とした。
◆
最初の雪が降りた朝だった。
術式の骨格はほぼ組み上がっていたが、まだ二つの穴を残したまま──それでも、あとは起動の日を決めるだけ、というところまで来ていた私の耳に、ひどく懐かしい感覚が届いた。
森の結界が、静かに突破されたのだ。
警告音すら鳴らさず、あっさりと。迷いのない足取りで、真っ直ぐに私の小屋へと向かってくる気配が二つ。
一つは、若く瑞々しい、けれどよく鍛えられた人間の魔力。
そしてもう一つは──忘れるはずもない。あの絶対零度の、冷たく澄んだ魔力。
「……おや」
私は書きかけの術式を棚の奥にしまい、降りはじめの雪を見上げた。
「ずいぶんと懐かしいお客だね」