降りはじめの雪の中、森の小道を歩いてきたのは、忘れるはずもないエルフの魔法使いと、見知らぬ人間の少女だった。
「久しぶり」
「……おや。本当に君かい、フリーレン。ヒンメルの報せから、もう三十年は経つっていうのに、ちっとも変わらないね」
「お前もね」
フリーレンは以前と変わらぬ調子でそう返し、勝手知ったる様子で小屋の前まで歩いてきた。その半歩後ろで、紫紺の髪の少女が足を止める。年の頃は十代の半ばほど。旅装は年季を帯び、手にした長杖の握りには確かな鍛錬の跡が見て取れた。
「フリーレン様。この方は……」
「魔族だよ」
フリーレンがあまりにあっさり言うものだから、少女の反応は劇的だった。一瞬で杖が構えられ、切っ先がまっすぐ私へと向く。淀みのない、良い動きだ。若いのによく仕込まれている。
「フェルン、大丈夫。この魔族は昔、自分自身に契約魔法をかけてる。この森では誰にも危害を加えられない。破れば死ぬ、っていう契約。……まだ生きてるでしょ、あれ」
「あぁ、生きてるよ。ほら」
私が軽く手をかざすと、体表に契約の淡い光が浮かび、すぐに内へと沈んだ。フェルンと呼ばれた少女は術式を注意深く検分し、それでも杖を握る手の力は緩めなかった。師匠がかつてそうだったように、魔族という存在そのものを信じていない目だ。正しい教育だと思う。
「まあ、お入り。外は冷える。……そういえば、随分と若い連れだね。弟子かい?」
「うん。フェルン。あと戦士の連れがもう一人いるけど、麓の村で待たせてる。魔族に会いに行くって言ったら、ものすごく渋い顔をしてた」
「賢明だね」
私は二人を小屋へ招き入れ、竈にかけていた鍋から茶を注いだ。フェルンは椅子に座ってもなお杖を手放さず、湯呑みに口をつけようともしなかった。毒を警戒しているのだろう。フリーレンが先に飲み干して「甘くない」とだけ感想を述べると、ようやく少しだけ口をつけた。
◆
「ヒンメルが死んだのは、知ってるね」
「……あぁ。報せは、この森にも届いたよ」
フリーレンは湯呑みを両手で包んだまま、窓の外の雪をぼんやりと眺めた。
「あれからね、私、ヒンメルのことを何も知らないんだって気づいたんだ。八十年前に、たった十年一緒に旅しただけなのに、ヒンメルは私のことを理解してた。……でも私は、なんで、もっと知ろうとしなかったんだろうって」
淡々とした声だった。けれど私には、その平坦さの下にあるものが、痛いほどわかってしまった。
三十年前のあの日、この小屋を最後に訪れた老いた勇者の顔が浮かぶ。残された命を対価に、フリーレンに人の心を理解させてほしい──彼はそう言った。
エルフは人類だ。その願いは不可能じゃない。
その言葉を確かめるように、満足そうなその顔が。
そして今、目の前のエルフは、誰に強いられるでもなく人を知る旅をしている。
ヒンメル、君の見立ては正しかったよ。
その言葉が喉元まで出かかって、私は静かに飲み込んだ。あの願いは、彼の最期の心残りだ。誰にも告げずに墓まで持っていった優しさだ。私が代わりに手渡していいものじゃない。
「……君は、良い仲間を持ったね」
私が言えたのは、それだけだった。
「あの」
不意に、フェルンが口を開いた。
「ハイター様を、ご存知ですか」
「ハイター……あぁ、あの生臭そうな僧侶かい。一度だけ会ったよ。この小屋でね、私の精神を女神の魔法で覗かれた」
「……私は、ハイター様に育てられました。昔、話してくださったことがあります。旅の途中で一度だけ、人の心を持つ魔族に会ったと。何かの喩え話だと、思っていましたが」
フェルンは私をじっと見つめた。警戒の色はまだ残っている。けれどその奥に、育ての親の言葉を確かめようとするような、真っ直ぐな光があった。
「喩え話じゃなくて悪かったね」
「……いえ」
少女は目を伏せ、それきり黙って茶を飲んだ。杖は、いつの間にか膝の横に立てかけられていた。
◆
「それで、二人は今、何の旅を?」
話題を変えるつもりで尋ねると、フリーレンは少しだけ間を置いてから答えた。
「北へ。
「エンデ? また随分と物騒な方角へ行くんだね。あの辺りはまだ魔族の巣窟だろうに」
「うん。でも、そこにしかないから」
フリーレンは湯呑みの中の揺れる水面へと視線を落とした。
「
その一言が、私の中の深いところに、静かに触れた。
死者の魂が、集まる場所。
私は表面上、興味深そうに相槌を打ちながら、頭の片隅が勝手に回り始めるのを感じていた。魂。死者。眠る地。──魔族は死ねば魔力へと霧散する。魂という形あるものは、何一つ残らない。
だとすれば。
喉の奥が微かに震えた。私はそれを誤魔化すように茶を一口すすり、努めていつも通りの声を出した。
「……いい旅だね。女神様に祈るよりずっと有意義だ」
「ハイター様が聞いたら怒りますよ」
フェルンが真顔で言うものだから、私は思わず吹き出してしまった。
◆
二人が発つ間際のことだ。フリーレンは戸口で足を止め、小屋の奥へ一度だけ視線を送った。棚の隅、私が咄嗟にしまい込んだ魔導書のあたりを、ほんの少しだけ長く見つめていたように思う。
「……お前、何か企んでるでしょ」
「さあ、どうだろうね」
私がはぐらかすと、フリーレンはそれ以上何も聞かなかった。じっと私の目を見て、それから小さく息を吐いた。長命種というのは、こういう時に踏み込まない。相手の決意の重さを、時間の長さで知っているからだ。
「また来るよ。今度は、南の勇者の子供の頃の話を聞かせて」
「いいよ。うんと自慢話にしてやろうか」
「うん。それがいい」
フリーレンは僅かに口の端を持ち上げ、雪の小道へと歩き出した。フェルンは私に向かって深く一礼し、師匠の後を追う。
その去り際、少女が小さく呟いた声が、雪の静けさの中で私の耳にだけ届いた。
「……魔族なのに、人間みたいでした」
責めるでも、褒めるでもない。ただ純粋な戸惑いだけが、白い息と一緒に空へ溶けていった。
◆
一人になった小屋で、私は棚の奥から書きかけの術式を取り出し、囲炉裏の前に座り直した。
魔族の魂が、オレオールに至ること。
あり得ない。魔族の死は魂の消滅そのものだ。肉体も、自我も、すべてが解けて魔力へと還る。だから魔族には墓がない。弔いもない。死んだ者を悼むという概念すら、私たちは持っていなかった。
死者の魂が集う地に、魔族の席は最初から存在しない。できるできないじゃない。概念そのものが世界の理に定義されていないのだ。
──これだ。
私はずっと、魔王様の願いをそのままの形で叶えようとしていた。生きた人類と生きた魔族の共存。私と魔王様、二人分の魔力を注いでもなお五分だった、あの賭けを。統合した魔力を足したところで、天秤が確実に傾く保証はどこにもない。
けれど、死の先ならばどうだ。
肉体が滅び、捕食の本能から解き放たれた魔族の魂を、霧散する寸前に再構築する。そこに人や魔族の違いはない。純粋な魂を、魂の眠る地へと誘う。生きて交わることが叶わなかった二つの種族が、死の先でだけは、同じ場所で笑い合える。
可能性は完全にゼロ。ならば、私の魔法は必ず届く。
だけどこれは、ゼロというより未定義。そこの違いがどう出るかは私でもわからない。
生者の共存は、賭けだった。死者の共存は、
「……魔王様。少し、形が変わってしまいますが」
あなたが望んだのは、生きて共に在る未来だった。これは、その答えにはなっていないのかもしれない。それでも、あなたの配下たちが、死してなお独りで消えていくのではなく、その先で誰かと言葉を交わせるのなら。
それはきっと、あなたの願いの続きと呼んでいいはずだ。
◆
その夜から、私は術式の再設計に取りかかった。
対象は、これより先に死する魔族の魂。事象は、魂の再構築と、オレオールへの誘い。世界の理そのものを一行だけ書き換える、途方もない奇跡。
そして対価の試算を終えた私は、囲炉裏の前で長い長いため息をついた。
「……足りないなぁ、まだ」
人の心を消し、隔壁を崩し、器を統合する。それで得られる魔力のすべてを注いでも、天秤はまだ僅かに届かない。理の書き換えというのは、私が思っていたよりずっと貪欲だった。
もう一段、薪がいる。
考え込む私の脳裏に、遠い日の光景が蘇った。この小屋の前で、赤子を抱えた南の戦士たちが一斉に崩れ落ちた、あの日のこと。
彼らの一族に伝わっていた秘術──『命を魔力に変える魔法』。
あの時の私は、術式を解析しても魔族には使えないと結論づけた。あれは人間の精神構造を土台にした魔法で、根本的に作りが違うと。
でも、今の私はどうだ。
人の心を持つ、継ぎ接ぎの魔族。半分だけ人間の精神構造をした、出来損ないの器。ならばあの秘術も、半分だけなら噛み合うんじゃないか。
数日をかけて検証し、答えが出た。噛み合う。人の心が消える
これを組み込む理由は、二つある。
一つは単純だ。命という、最後の薪。足りない対価を埋めるために。
そしてもう一つが、本命だった。
私はずっと、二つ目の最悪に打つ手がなかった。心の消滅と共に契約が消し飛び、縛りのない簒奪のウンメーリアだけが残るという、あの結末に。
だから、この魔法は契約魔法とは
不可能を可能にする魔法が正しく起動すれば、命は対価の一部として奇跡に捧げられ、私は死ぬ。
契約が壊れて奇跡が起動しなければ、命はただ独立して魔力に変わり、私は死ぬ。
どちらに転んでも、この術の起動後に、ウンメーリアという魔族がこの世に残る未来だけは存在しない。人の心と、人間の弱さを知り尽くした大魔族を野に放つくらいなら、数百年の貯蓄ごと無に帰る方がずっといい。
我ながら、つくづくおかしな話だと思う。
自分を確実に殺すための魔法を、こんなにも安堵しながら組み込んでいる。こんな判断、かつての私なら絶対にしない。合理の対極にある、愚かで、身勝手で──とても人間らしい保険だ。
精神魔法。契約魔法。簒奪の魔法。不可能を可能とする魔法。そして、命を魔力に変える魔法。
五位一体の術式が、ここに完成した。
◆
夜半、私は雪の積もり始めた庭に出て、白い息を吐いた。
振り返れば、小屋の柱に刻まれた背比べの傷が、囲炉裏の残り火にぼんやりと照らされている。庭の隅には、雪をかぶった古い木剣。
「……君にも、もうすぐ会えるかもしれないね」
あの子は今ごろ、オレオールでヒンメルと再会して、剣の話でもしているだろうか。それとも、育ての親の無謀な計画を視ていて、あっちで頭を抱えているだろうか。
どちらでもいいさ。文句なら、直接聞いてあげよう。
あとは、日を選ぶだけだ。
降り続く雪を見上げながら、私は静かに小屋の戸を閉めた。