ある日、私は麓の村へ最後の買い出しに降りた。
買うものなんて、本当はもう何もなかったのだけれど。
「あ、魔女様! 今日のリンゴは蜜がたっぷり入ってるよ。持ってくかい?」
「うん。じゃあ、五つもらおうかな」
果物屋のふくよかな女性が、いつものように籠へ一つおまけを入れてくれた。数百年のあいだに店は何度も代替わりして、けれどおまけの数だけは変わらなかった。
「また来ておくれね、魔女様」
「……ありがとう。元気でね」
私は少しだけ迷ってから、いつもより丁寧にお辞儀をした。女性はきょとんとして、それから照れくさそうに笑った。
帰り道に齧ったリンゴは、蜜のところがちゃんと甘かった。
◆
その日は、よく晴れた冬の朝だった。
特別な日を選んだわけじゃない。星の巡りも月の満ち欠けも、私の魔法には関係がない。ただ、夜のうちに雪がやんで、枝に積もった白が朝日にきらきらと光っていて、なんだか洗濯日和みたいだったから。最後の日がこういう日なのは、悪くないと思っただけだ。
小屋の中を軽く掃除して、囲炉裏の灰を片付けた。竈の鍋は磨いて、棚の茶葉は封を開けたまま置いておく。いつか誰かが訪ねてきた時、勝手にお茶くらい淹れられるように。
……フリーレン。君との約束は、守れそうにないよ。
南の勇者の自慢話、うんとしてやるつもりだったんだけどね。ごめんよ。代わりと言ってはなんだけど、いつか本人から直接聞いておくれ。あの子はきっと照れて、誤魔化すように剣を振り始めるかもしれないけれど。
庭に出る。雪をかぶった古い木剣が、朝日を受けて立っている。
君にももうすぐ会えるかもしれない、なんて。それは私の願望に過ぎなかった。私にも半分は人の心があったから、もしかしたら
でも奇跡を起こすには人の心を手放さないとたどり着けない。
私の奇跡は、これより先に死する魔族の魂を、魂の眠る地へと誘うもの。そして私の命と魂は、その奇跡を成すための対価だ。支払いというのは、いつだって品物より先に済ませるものだろう? 理が書き換わった世界に、もう私はいない。書き換わるより一足先に、魔力へ還っている。
だから私は、自分の起こす奇跡にだけは
思えば、いつもそうだった。魔王様の願いにも、シュラハトの最期にも、あの子の旅立ちにも、ヒンメルの葬列にも、私は一度だって間に合ったことがない。だから今度は、私が間に合わない側に立つ。ただ、それだけの話さ。
空を見上げる。息が白い。
「魔王様。あなたの願いの続きを、ここに置いていきます」
返事はない。当たり前だ。あの御方は、魂も残さずに逝ってしまったのだから。
でも、これからは違う。これから死んでいく者たちは、もう独りでは消えない。
術式を確認する。
精神魔法。契約魔法。簒奪の魔法。不可能を可能とする魔法。そして、契約とは独立した経路に眠る、命を魔力に変える魔法。
五つの術式は互いに噛み合い、静かに時を待っている。もう、どこにも穴はない。
私は庭の中央に立ち、目を閉じた。
「──さあ、始めようか」
◆
最初に動いたのは、精神魔法だった。
グラオザームの理論が私の内側に鎖のように張り巡らされ、人の心の輪郭を正確になぞっていく。そして、剥がし始める。
記憶は、新しいものから順に剥がれていった。
雪の小道を歩いてくる、二つの人影。絶対零度の澄んだ魔力と、真っ直ぐな目をした少女。甘くない、とだけ言われたお茶の味。
……あれは、誰のことだったかな。
皺だらけの手が、湯呑みを包んでいる。残された命を対価に、と穏やかに笑う老いた勇者。エルフは人類だ、と気色ばんだ私に、彼は満足そうに笑って……何に、満足したんだったか。
柱の傷が、下から上へ、一本ずつ増えていく。ウンメーリア、見てこのお花。振り向いた先の、日だまりみたいな笑顔。今までありがとう。ウンメーリアの作るごはん、美味しかったよ。
やめて。
それは、剥がさないで。
誰か、その子の名前を。私はその子を、確かに──
熱くて、重くて、悲しい魔力の奔流。次々と崩れ落ちていく戦士たち。眠る赤子の方を向いたまま、安らかに事切れた男の顔。
魔族が、私の涙を指先で拭っている。私にもいつか、悪意や罪悪感というものが理解できる日が来るのだろうか。震える唇で答えた、決して言ってはいけなかった嘘。
……マハト。君についた嘘を、今から本当にするよ。だからもう少しだけ、待っていて。
枯れ枝を踏む音。感情の見えない底なしの瞳。これは契約だ、と差し出された百年分の魔力。お前の奇跡は、必ず魔族の行く末に役立てよう。
そして、最後の一枚。
灰色の空。凍てついた石造りの城のバルコニー。威厳のあるマントを羽織った、大きな背中がこちらを向く。
だから、ウンメーリア。お前の魔法が完成したら、私の願いを叶えてくれ。
……はい、魔王様。
長らく、お待たせいたしました。
最古の記憶が剥がれ落ちて。
人の心が、消えた。
◆
私は目を開ける。
視界は明瞭。器は統合され、魔力は満ちている。数百年ぶりに取り戻した、簒奪のウンメーリアの完全な魔力。即座に解析を開始する。
状況。私の器には契約魔法が刻まれている。術者は私自身。内容は、統合された全魔力を対価とする、不可能を可能とする魔法の自動起動。術式はすでに進行を始めている。
結論。承服できない。この魔力は私のものだ。人類と魔族が死後に言葉を交わすなどという事象に、燃やす価値は一片たりとも存在しない。
契約への干渉を試みる。不可能。器そのものに刻まれた契約は、器を捨てない限り破棄できない。器を捨てれば私は死ぬ。ならば器から魔力だけを退避させる。不可能。すでに全量が対価として指定済みだ。術式の構造欠陥を検索する。存在しない。当然だ。設計者は私だ。私の解析速度も、思考の癖も、すべてが計算に入れられている。
さらに、もう一つ。
契約とは独立した経路に、人間の秘術が装填されている。命を魔力に変える魔法。起動条件は、すでに満たされている。つまり、万に一つ契約を破棄できたとしても、私は死ぬ。
逃げ道は、最初から一本も用意されていない。
これを組んだのは私だ。人の心などという欠陥を抱え、魔力の大半を封じられた出来損ないの状態で、それでも持てる知性のすべてを注いで、ただ私を殺すためだけに組み上げられた術式。
理解できない。
合理がない。利がない。我欲がない。何一つない。それなのに、この術式のあらゆる継ぎ目からは、設計者の意志だけがはっきりと読み取れる。迷いなく、澱みなく、ほとんど安堵しながらこれを組んだ、私であって私ではない何者かの意志が。
「……なぜだ」
その問いに答える者は、もうどこにもいなかった。
◆
術式が、世界に問う。魔族の魂が、魂の眠る地に至ること。その可能性は。
世界は、答えない。ゼロという答えすら、返ってこない。天秤に載せるべき皿が、そもそも向こう側に存在しないのだ。
術式が、一瞬、迷った。
いいだろう。皿がないのなら、皿ごと造るまでだ。
統合された数百年分の魔力が、音もなく昇華する。老魔法使いの生涯。南の一族の命。シュラハトの百年。市場で、酒場で、森の小屋で受け取ってきた、数え切れない願いの欠片。そのすべてが、世界の理のたった一行を書き換えるために注ぎ込まれていく。
足りない。器が空になって、なお僅かに、天秤は届かない。
最後の術式が、静かに発火した。
命が、魔力に変わる。
肉体が指先から解けていく。かつて幾度と味わった、あの崩壊の感覚。ただし今度は、押し留めるものも、駆けつけるものも、何もない。
天秤が、傾いた。
理が書き換わる、その一瞬。
薄れて解けていく何かの中で──遠い遠いどこかで、混ざり霧散し尽くしたはずの魔力の残滓が、微かに形をもった
それきり、何もわからなくなった。
◆
風が、森を抜けた。
永いあいだ森を包んでいた古い結界が、支え手を失って、音もなくほどけて消えた。
小屋には、誰もいない。
囲炉裏の灰は片付けられ、棚には封の開いた茶葉が残っている。柱には、無数の背比べの傷。庭の隅には、雪をかぶった古い木剣が一本。
降り積もった雪の上、庭の中央へと向かう小さな足跡だけが、途中でふつりと途切れていた。
森は、ただ静かだった。