銀髪美少女お嬢様(ワケあり)のホグワーツ生活実践編 作:トリスメギストス3世
最後の部屋には、中央に古びた大きな鏡が据えられていた。
鏡の前に立つクィレルは入り口に背を向けた状態で、部屋の隅ではハリーが縛られたまま石の床に転がっている。
しかしカティアが足を踏み入れるやいなや、クィレルが急に振り返った。
ターバンが大きく揺れ、冷たい瞳がカティアに向いた。次の瞬間にはまるで申し合わせていたかのように、二人の杖先が互いに向けられていた。
カティアが放った『結膜炎の呪い』とクィレルの青白い光線が空中で衝突して屈折し、互いの背後の壁に当たった。
焦げた空気が鼻を突く。
逸れた呪いで焼け焦げたロングヘアを振り払い、真紅の瞳を爛々と輝かせたまま、カティアは杖を構え直した。
「こんばんは、クィレル先生。素敵な夜ですこと」
「ふむ。君がここに来たということは、ミス・グレンジャーは失敗したか?」
深くて低い、感情の揺れを感じさせない滑らかな声だった。
カティアはわずかに目を細める。普段の気弱で甲高い話し方を知っているだけに落差は凄まじい。
まるで舞台役者のような、自信に満ちた大人の男の声だ。
クィレルの態度については以前から演技ではないかと疑っていたが、ここまで極端なのは少し想定外だ。
「ハーマイオニーに関してはご想像にお任せします。だけどクィレル先生、普段の授業もその話し方で取り組んだ方がいいのではなくて?」カティアは指摘した。
「いいや。私にはあの在り方の方が合っていた。そう、だ、だ。誰だって、か、かわいそうな、ど、どもりの、ク、クィレル先生を疑いやしないだろう?」
クィレルは両腕を軽く広げた。負けていられないカティアは鼻で笑う。
「スネイプ先生には疑われているように見えましたけれど? あまり意味は無いのではなくて?」
「いいや、意味はあった。少なくともセブルスに対してはな」クィレルは冷たく笑った。
「人間は、自分より明らかに弱い存在に対して警戒心を働かせることが難しい生き物だ。そう、君の指摘の通り、セブルスは私を疑っていた。しかし私を三流の盗人程度と考えているようでは監視力も半減だ」
微妙に忌々しい反論だった。
今この瞬間にクィレルが自由に動けているのを見る限り、それは認めるしかない理屈なのが腹立たしい。
「あの陰険教師がしっかり仕事を果たしていれば、私もこんな危険な橋を渡る必要は無かったのだけれど」
「ハハハ! それは間違いないな!」クィレルの目は全く笑っていなかった。
「その通りだミス・アシュリー。君こそがこの計画における最大の障害だった。会えるかもしれないと思っていたよ」
「先生は、私に関して一つとても重大な誤解をされているようですね」
カティアはここで言葉を区切った。
しばらく待ってみると、クィレルは少しだけ不快そうに顎をしゃくって続きを促した。
「どうぞ、アシュリー。言ってみるがいい」
「私は、先生の邪魔をするつもりはありません」
カティアはあっさりと言い放った。
「"石"を盗みたいならばご勝手にどうぞ? 私は気にしませんわ?」
クィレルは僅かに眉を顰める。カティアの言葉を信じかねているのだろう。
「先生は勘違いされています」カティアは繰り返した。「"賢者の石"はダンブルドアの管理物です。それが盗まれたところで私に不利益は発生しませんし、他人の財布を命を賭して守るほど私は性格が良くありません」
「……では、君こそがもう一人の"盗人"だという私の推測は外れていたとでも?」
クィレルは信じていないようだ。
「クリスマスより前に番犬を突破し、巨大チェスに苦戦した"謎の人物"というのは君だろう?」
「この学校にはまだ別の盗人がいるのです?」カティアは辟易とした様子で肩を竦める演技をした。「世も末ね。私個人としては、『賢者の石』にそこまでの魅力を感じないけれど……」
クィレルが正体を明かしたからといって、こちらが真実を話す義理はない。真剣にとぼけてクィレルには存分に混乱してもらおう。
自分も"石"を狙っていたという事実を心の底深くに押し込めながら、カティアはさりげなくハリーを守れる位置へと移動する。
「それで、話はどこまで進んでいたのかしら?」
クィレルがなおも疑わしげな目をしていたので、カティアは話題を変えた。
「……まあ、いい。ちょうど今しがた、セブルスに対する誤解を解いてやったところだ」
「彼に関してはあまりいい噂を聞きませんので今でも警戒しております」
「君も中々の人間不信だな」クィレルは呆れたような声を出した。
カティアは杖を軽く一振りした。
ハリーを縛りつけていた縄を断ち切る。
相対するクィレルはその動きを制止しようとしなかった。きっと余裕があるのだろう。実際、カティアとクィレルが正面から呪いをぶつけ合えば、負けるのはカティアのほうだ。
「カティア、ごめん。本当にごめん」ハリーが絶望的な声で言った。「僕たち、ハーマイオニーに言われて信じてしまったんだ。君が『賢者の石』でお母さんを取り戻そうとしているって……」
「それは仕方ないわ」カティアはさらりと言った。「私だって、亡くなったお母様にもう一度会いたいという気持ちがないとは言えないもの」
考えれば考えるほど、『ナターシャの復活』という嘘は巧妙だ。
仮に、カティアが〝石〟を求める動機として『不老不死になりたい』とか『億万長者になりたい』という嘘をクィレルがついた場合、ハリーたちは『カティアはそんな子じゃない』と一蹴してくれただろう。
しかし、『亡くなった母ともう一度会いたい』という動機は説得力がありすぎた。
特にハリーは、まだ幼い赤ん坊のうちに両親を失っている。ハーマイオニーから『カティアが魔法の力で亡き母を生き返らせようとしている』と聞かされたハリーが、その動機に強く共感してしまうのは想像に難くない。両親が健在のハーマイオニーやロンも、亡き母を求める孤児の気持ちは理解できてしまったのだろう。
人は、自分が深く感情移入できる動機に対しては疑いの目を向けられない生き物だ。
ハリーたちが揃いも揃ってクィレルの嘘を信じてしまったのも必然だ。カティアもそこを責めるつもりはなかった。
クィレルは冷たく、愉快そうに笑い声を上げた。
「ポッター、『賢者の石で死んだ生物が復活出来る』という話を聞いた時、少しでも疑問には思わなかったのかね? もちろん、不老不死と死者蘇生はまったくの別物だ。もっともテストの点数ばかりで頭でっかちなグレンジャーはこの話をあっさりと信じたが―――」
クィレルはハーマイオニーの声真似を始めた。
「―――『本当はカティアにお母さんに会わせてあげたい。だけど、ナターシャだけは復活させてあげられないの!』とな。どうだ、なかなか感動的な台詞ではないか?」
カティアはガチンと犬歯を噛み鳴らした。
あまり面白い話ではない。カティアは低く呟く。
「………今のは格を下げる発言だぞ、悪人」
「そうかね?」
クィレルはそっけなく、退屈な天気の話でも振られたかのように返した。外套の裾を翻して鏡を見ながら、背後へ向けて言い放つ。
「さあ、無駄話に費やす時間はない。アシュリー、ポッター、そこで待っていてくれ」
クィレルがこちらに背を向けたため、カティアはハリーと素早く視線を交わした。
ハリーは杖を取り出して、二人で背後から攻撃しようというニュアンスのジェスチャーをしたが、カティアは苦々しげに首を横に振った。クィレルは微塵も隙を見せていない。
しかし、待っていれば勝機はある。
余裕綽々に見えるクィレルにも、ダンブルドアが不在のうちという明確な時間制限がある。逃走や潜伏まで考えれば猶予はそれほどないはずだ。引き延ばせる話があるならしておいた方がいい。
「この面白い鏡を調べなくてはならないからな」とクィレルは言った。「この鏡こそが"石"を見つける鍵なのだ」
カティアがずっと気になっていた、部屋の中央に安置された古くて大きな鏡だ。クィレルは鏡の縁をコツコツと指で叩いていた。
「魔法の鏡? 世界で一番綺麗な女の人でも映るのかしら?」カティアはとぼけた口調で言った。
「ミス・アシュリー。これは『みぞの鏡』と呼ばれる貴重な代物だ。マグルの童話の馬鹿げた鏡と一緒にしてはならない」
「お詳しいのね。マグルの女の子が楽しむ童話が伝わるとは思わなかった」
「昨年度までマグル学の教鞭をとっていたものでね」
クィレルはそれ以上説明しようとしなかった。むしろカティアは"みぞの鏡"を知りたいのだが。
カティアがちらりと横を見ると、なんとハリーに心当たりがあるようだった。
「………カティア、あの鏡は『望み』を映すんだ」
「……えーっと、どういうこと?」カティアは首を傾げた。
ハリーはなぜか少し目を泳がせた。
「ほら、クィディッチの優勝杯を持った僕とか……」
「ああ、なるほど。そういう感じね」
ハリーが本当のことを言ったかどうかはともかく、非常に分かりやすい説明だった。
ありのままの姿ではなく、自分が理想とする姿が映し出される魔法の鏡。それこそ美に執着する女王様も大満足の一品だろう。
とはいえ、カティアにはその鏡がどういう仕組みで"賢者の石"を守るのかがさっぱり分からなかった。
鏡面から盗人を焼き尽くす熱線が放たれるとかいう機能を持っているなら相当面白いが、話を聞く限りそういう攻撃的な魔鏡でも無さそうだ。
仕組みが分かっていないのはクィレルも同じだ。
いまは鏡に向かって低い声で罵り続けていた。傍からみるとかなり危ない人に見える。
「いったいどうなっているんだ……石は鏡の中に埋まっているのか? 割ってみるか?」
このままクィレルが見つけられないなら、見逃すことを条件に自分たちの身の安全を約束してもらおう。
そんな取引を頭の中で組み立てていると、ハリーがこっそりと声をかけてきた。
「カティア、カティア! 石だ——いま僕が鏡を見たら、石を見つけた自分の姿が映るはずだ!」
「……石を見つけた自分を見てどうするのよ」カティアは眉をひそめた。
ハリーがじれったそうにカティアの肘をつつき、いっそう小さな声で言った。
「どこに石があるかを、あの鏡が教えてくれる!!」
「………なるほど? そういうこと?」
非常に面白い仮説だ。
カティアは鏡が盗人と戦う仕掛けのことばかり考えていたが、ハリーの読みのほうがずっと筋が通っている。
「有り得るわ。けれど―――」
ちょうどその時、鏡に見入るクィレルがぶつぶつ呟いた。
「『石』が見える……ご主人様にそれを差し出しているのが見える……でも石はどこだ?」
カティアは肩を竦めた。
「でも、それならクィレルは何故見つけられないのかしら?」
ここで理論の行き止まりに突き当たり、カティアとハリーは黙り込んだ。
クィレルはぶつぶつと独り言を言い続けていた。
「この鏡はどういう仕掛けなんだ? どう使えばいいんだ? ご主人様、どうかお助けを!」
ついにクィレルが虚空に話しかけ始めた。
ロンドンの公園でたまに見かける重度の薬物中毒者みたいだった。あまりの不気味さにハリーと顔を見合わせる。
いよいよクィレルが正気を失ったかとカティアは思ったが、すぐに『ご主人様』がクィレルの幻覚などではないことを思い知らされた。
「その子を使うんだ……ポッターを使え……」
別の声だった。カティアにも確かに聞こえた。
しかもその声はクィレル自身の中から出てきているようだった。
「わかりました……ポッター、こちらへ来い」
カティアは杖を構えた。
「何をさせるつもり?」
「いいから来るんだ。鏡を見て、何が見えるかを言え」
微妙に返事になっていなかった。
カティアは杖でクィレルを遠ざけながら、慎重にハリーに寄り添う。
二人で鏡の前に立ち、カティアはちらりと鏡に目をやった。
少し成長したカティアが、くたびれたエプロンをつけて今より更に年老いたジョセフの車椅子を押していた。隣には杖をつくマーサが付き添っている。鏡越しでも、耳の遠くなった養父母のためにカティアが大声で話しかけているのが分かった。
皺だらけの顔のジョセフは百歳を超えているように見える。心臓の病を何らかの方法で乗り越えたに違いない。
「どうだ?」クィレルが待ちきれずにハリーへ問いかけた。
カティアは慌てて意識を引き戻した。養父母の老後は確かに理想だが、目の前にいる友人や自分自身の命より優先するものではない。
カティアがもう一度ちらりと鏡に目を向けると、今度はクィレルを打ち倒してハリーとハイタッチする自分の姿が映っていた。どうやら、その場その場で一番強い望みを写し出す仕組みのようだ。
「何が見える?」クィレルがもう一度ハリーに問いかけた。
「僕がダンブルドアと握手しているのが見える」
絶対に作り話だと一瞬でわかった。ハリーの様子がおかしい。
「僕……僕のおかげでグリフィンドールが寮杯を獲得したんだ」
「そこをどけ」クィレルが吐き捨てた。
カティアがハリーに話しかけようとした、その時だった。
クィレルの唇はまったく動いていないのに、再度高く冷たい声が響いた。
「こやつは嘘をついておる……嘘をついているぞ……」
「ポッター、戻れ! 本当のことを言え。いったい何が見えた?」
クィレルが叫んだが、またしてもあの高い声が割り込んだ。
「俺様が直に話す……」
「ご主人様、まだ御力が十分では――」
「このためならば……力を使う価値がある……」
何かまずいことになっている。
クィレルがターバンを解きはじめるのをカティアとハリーは身を固くしたまま見つめた。ターバンを取り去ったクィレルの頭は、拍子抜けするほど小さかった。
そのままゆっくりと、クィレルは体を後ろ向きに回した。
頭の後ろに、もう一つの顔があった。
それを目にした瞬間、カティアはここへ来たことを心の底から後悔した。
蒼白な顔。血走った眼。鼻があるべき場所は削ぎ落とされたように平らだ。
「ハリー・ポッター……そして、エカテリーナ・アシュリー」
カティアの全身から血の気が引いた。隣に立つハリーも真っ青だ。
いくらなんでも話が違う。カティアはクィレルを”ヴォルデモートの元側近だったかもしれない凄腕の魔法使い”として警戒していた。しかし、その大物が直々に現れるのは聞いていない。そもそも死んだのではなかったのか。
「久しいな、”カチューシャ”……ナターシャの遺児よ……」
カティアは首筋に死の気配を感じた。
こうなっては打つ手がない。"これ"は全盛期の母より数段強い怪物なのだ。
「……お母様のボスね」カティアは硬直したままのハリーにも聞こえるよう、できるだけ平静を装う。
後頭部の顔が笑った。剥き出しの好奇心でカティアをじろじろと眺め回す。
「然り。ナターシャは優秀な部下だった……かつては赤子のお前を、この俺様が直々に抱いてやったものよ」
「……ずいぶんと家族的な雰囲気でしたのね?」
信じがたいことに、ヴォルデモートはくつくつと喉を鳴らした。
どうやらカティアは気の利いたことを言ったらしい。少なくとも今すぐ殺されるという気配は薄い。
「お前の母親には人望と器量があった……実力については言うまでもない。本物の人喰い吸血鬼でありながら身内にはとことん甘く、言葉ひとつで人の心をほぐす術を心得ていた。俺様の配下の多くは"人喰いナターシャ"に懐いていたものよ……」後頭部の顔は、遠い過去を懐かしむように続けた。
「………まあ、そういう人でしたね、あの人は」カティアは素早く思案を巡らせた。
人間を主食とする非常に危険な捕食者。
それでいながら、三分もかければ老若男女を問わずに誰とでも友達になれてしまう人だった。
いざという時に備えて、常日頃からできるだけ多くの人と仲良くやっていく。
人類という大きな括りを食料と認識しながらも、あちこちで”お気に入り”を作って可能な限り好印象を与えておく。それでいて見返りは求めない。だからこそ、最後の最後で一瞬だけチャンスが訪れる。そういう生き方の吸血鬼だと言える。
ナターシャ・アシュリーは非常に強力な魔法生物ではあったが、それだけでは彼女の強みは語れないだろう。
実を言うと、吸血鬼というのは本来それほど強力な種族ではない。強烈な魔法特性は持っていても弱点が多すぎるのだ。『人喰い』も純吸血鬼の宿命として、日光などの深刻な脆弱性を複数抱えていた。
そんな彼女が魔法省に追われながらも非常に長い期間捕まらず、有史以来最悪の魔法生物として莫大な量の人的被害を叩き出したのは、一重に常日頃からの人脈作りの賜物に他ならない。
それが自然発生の奇跡だったのか人為的な計算だったのかは、カティアにも判別がつかない。
「さて、今宵はもう一人の若き客人も来ているな……」後頭部の顔がいきなり矛先を変えた。
カティアはそっと立ち位置をずらし、ハリーを庇える場所に移ろうとする。
しかしハリー自身がカティアを押しのけて前に出た。後頭部の顔は、それが気に入ったようだった。
「ハリー・ポッター………」蛇のようにささやいた。
「我が敵よ、よく見ろ――俺様は今や影と霞にすぎぬ……誰かの体を借りて初めて形を持つことができる。だが、常に誰かが、喜んで俺様を心に招き入れてくれる……この数週間はユニコーンの血が俺様を強くしてくれた……」
カティアは、禁じられた森でユニコーンが殺され続けていた理由をようやく理解した。
「命の水さえあれば、俺様は自らの体を創り出せる……さて――ポケットの中の『石』をいただこうか、ポッター」
どういう事か分からないが、ヴォルデモートは死んでいなかった。
つまり『賢者の石』で”蘇生”するというクィレルの方便は、あながち完全な嘘だったというわけでもないわけだ。
カティアが慌てて振り返ると、ハリーはクィレルを見据えたままじりじりと後退していた。
「愚かな真似はよせ」低い声が唸った。
カティアは舌打ちして杖を構え、静かに間合いを測る。ハリーを見捨てるわけにもいかない。
「命を粗末にするな、カチューシャ……」声は笑った。「俺様の側につくがよい。お前が苦労してきたことは知っている。俺様が力を取り戻した暁には、『反吸血鬼法』などという下らぬ法律は初日に灰にしてやろうではないか」
カティアはわずかに目を細めた。
さほど珍しい手口ではない。闇の帝王はかつて、闇の生物の解放を語って人狼や巨人、吸血鬼といった勢力を傘下に収めたことがある。もっとも、ヴォルデモートがその約束をどこまで真剣に守るつもりだったかは大いに疑問だ。
言葉に出さないカティアの不信を嗅ぎとったのだろう。ヴォルデモートはさらに危険な猫撫で声でこう続けた。
「カチューシャ、お前がロンドン北部の育ての親を大切にしていることは知っているぞ……」
カティアは歯を食いしばった。
これは脅迫だ。これを知られているのはあまり愉快な話ではない。
「俺様が復活すれば、世界中のマグルは奴隷となるだろう。……しかし、カチューシャが俺様の側につくというなら、その養父母については話が別だ。彼らの穏やかな余生を俺様の力で守ってやろう。ジョセフ・ホワイトホールの病についても、この俺様が直々に癒すと約束しよう……」
……心を読まれているのか?
あまりに詳細すぎる。特にジョセフの病などは身辺調査で掴めるような話ではない。カティアは"閉心術"は使っているつもりだが、力量差で押し切られている可能性が高い。
「ポッターも俺様の側につくがよい……さもなくば両親と同じ目に遭うぞ……二人とも命乞いをしながら死んでいった……」
「嘘だ!」ハリーが叫んだ。
後頭部の邪悪な顔がゆっくりとほくそ笑んだ。
「胸を打たれることよ……」押し殺したような声が漏れた。「そうだ、小僧、おまえの両親は確かに勇敢だった……俺様はまず父親を殺した。勇敢に戦ったがな……しかしおまえの母親は死ぬ必要はなかった……母親はおまえを守ろうとしたのだ……その死を無駄にしたくなければ、さあ『石』をよこせ。そうでなければ………」顔がじろりとカティアを見た。
「初仕事だ、”カチューシャ”。小僧を殺して石を手に入れろ」
「ハリー! 下がってて!」カティアはクィレルから目を離さぬまま叫んだ。
確かに、ヴォルデモートの提案は破格だ。
ここでハリーを殺せばカティアは社会的地位とホワイトホール夫妻との未来を手に入れる。すべての希望が叶うと言い換えてもいい。もはや断る理由を探す方が難しいほどの千載一遇の好機だ。
――ただし、それはその希望が本当に実在するならばの話だ。
すべての取引は信頼関係の上に成り立つ。
あまりにも都合のよすぎる話を聞かされたことで逆に頭が冷えてきた。こういうときに最初にすべきことは決断ではなく精査だ。条件が魅力的であればあるほど契約の中身よりも相手の信用度を吟味するというのは、契約事の基本でもある。
そんな美味しい話が、向こうから転がり込んでくるはずがない。
「………初仕事がハリーの殺害?」カティアは確認するようにゆっくりと言った。「私がハリーの友人と知ったうえで言っているの?」
「さっさとしろ、"カチューシャ"」クィレルの後頭部に宿る顔が、低く、明瞭に囁いた。「俺様は貴様に命を下している。従わぬというならば、今この場でその小僧に死の呪いをかけ、石を奪い、そのままロンドンへ向かうまでのこと。――クィレル、あのマグルの屋敷は、確かハイゲイトの高級住宅街であったな?」
「はい、仰る通りでございます、ご主人様……」クィレルが消え入りそうな声で答えた。
「灰にするには惜しい屋敷だ」声はねっとりとした満足感を滲ませながら続けた。「さあ、カチューシャ。杖を振れ。もし貴様がそれを拒むというなら――貴様がこの世で大切にしているものを、上から順に一つ残らず消し去ってやろう。しかし俺の側に立つならば、貴様は全てを手に入れるだろうよ。さあ、今すぐポッターを殺せ!」
このように、交渉相手が異常に有利な条件を並べ立てて決断を急かしてくるときは赤信号だ。
ただし取引が脅迫に変質する速度が速すぎる。この辺りはやはり悪玉だ。初めから対等な関係など有り得ない。
やはり一度冷静に考える必要がある。この場合は恐怖に負けて指示に従うのも相当な悪手だ。そもそもヴォルデモートが提示した条件が破格だからという理由で殺人なんかに手を染めれば悲惨な転落人生が始まってしまう。
急かすということは、調べられては困る不都合な真実が隠れていることに他ならない。
何しろクィレルとヴォルデモートからしても賢者の石が手に入る瀬戸際なのだ。カティアの初仕事にハリーの殺害を割り当てたのは、単なる悪党の悪趣味だけが原因というわけではないだろう。
「……そうね」カティアは静かに言った。「やっぱりおかしい。どうしてあなたたちが、直にハリーを殺さないの?」
「ハリーを直接手にかけたくない……つまり、私にハリーを殺させたい明確な理由が存在するとか?」
カティアは勝負に出た。
手応えがあった。クィレルの体がぴくりと震え、後頭部の顔が凄まじい形相に歪む。カティアの胸に小さな勝利の炎が灯る。運命はまだ自分たちを見捨てていない。
「そうでしょう? ハリーは〝生き残った男の子〟ですもの。十年前のあの夜、防御不能の『アバダ ケダブラ』は跳ね返り、撃ち手を滅ぼした――」
それを聞いたハリーが前へ出た。
カティアとヴォルデモートの間に割り込み、両腕を広げる。カティアは迷わずその影に隠れた。
「――同じことが再び起きるかどうか、誰にも分からない。だけどあなた方はその可能性を無視できなかった」カティアは言葉を続けた。「クィディッチのスリザリン戦でハリーの箒を呪ったのもそのため? わざわざニンバスを呪って墜落死を狙うなんて回りくどいと思っていたの。なるほど、直接手を下して呪いが跳ね返ってくるのが怖かった………違う?」
クィレルは答えなかったが、その沈黙が真実を雄弁に語っていた。
ハリーの肩越しに杖を向けてクィレルに狙いを定めながら、カティアは続ける。
「だからこそ、あなた方は私の手で『アバダ ケダブラ』を撃たせたかった。呪いが跳ね返れば死ぬのは私。跳ね返らなければハリーが死んで、石も部下も手に入る。どちらに転んでもあなた方に損はない――」
「もう十分だ」
ヴォルデモートの声は、氷のように冷たかった。
しかしもう怖くなかった。恐怖の根源は理解不能だ。彼らは神秘のヴェールを使い切った。
「ハリー……いい? 一つ教えて、『石』はどうやって取り出したの?」
背後から背伸びして、ハリーの耳元でカティアは囁いた。
案があった。完全な賭けだが、うまくいけばハリーもカティアも生きて帰ることができる。
「………”みぞの鏡”の中の僕が石をポケットにいれたら、現実の僕のポケットの中に石が落ちてきたんだ」
非常に示唆的な情報だった。
ハリーの証言からして石が鏡の中に隠されていたことまでは確定だ。ダンブルドアは何らかの方法で『賢者の石』を鏡の世界に封じ込めて、盗人の手から守ろうとしたのだろう。
確かに、これは非常に賢い考え方だ。石の実物が現実世界に存在しないので、取り出す際には必ずダンブルドアのルールに従うことになる。
では、鏡の中にしか存在しない石を手に入れるにはどうすればいいか。
順当に考えれば、鏡の中の自分に石を取ってもらうのが自然な発想だ。ただし一般的な鏡は現実を反映するものなので、現実世界に石が存在しない以上はそれを映す鏡像も石を持つことはできない、
この場合、鏡の中の石に触れるために現実の石が必要と言うジレンマが発生する。
だが、魔法のかかった"みぞの鏡"の場合は話が異なる。
この鏡は観測者の願望を映し出す。言い換えれば、観測者の認識次第で鏡像の状態を決定できるということだ。それこそ『石を手に入れた自分』を望めば、鏡の中の自分が石を手にするだろう。
そして結局は鏡だ。鏡像と実像は二つで一つ。
ダンブルドアが意図的に設定したのかそれとも魔法の性質として自然に生じる現象なのかは定かでないが、何らかの理由で鏡像が現実を決定するという逆転現象が起きるのだろう。
これによって、鏡の世界にしか存在しない石を現実に取り出すことが可能となるわけだ。
だからこそこういう仮説が出てくる。
「ハリー、鏡の中に石を戻せないかしら?」カティアが提案した。
ハリーが石を鏡の中に置く自分の姿を望めば、もう一度石を鏡の世界に封じ込められるのではないか。
そう考えての発言だったのだが、後頭部をこちらに向けていたクィレルが急に振り返った。その顔に隠しきれない焦燥が浮かんでいる。
やはり、そうだ。クィレルは自力では石を取り出せない。
カティア自身も石は取り出せないのだが、理由はまだわからない。カティアの『望み』が現実の自分と一致しない大人の姿ということで、何らかの同調がうまくいっていないのかもしれない。
「プロテゴ!」カティアは叫んだ。
赤みを帯びた半透明の盾が、クィレルの呪いを受け止めた。
それほど強力な呪いではない。ハリーに跳ね返されることを恐れているのだ。カティアはハリーを盾にしながらもさらにその前に魔法の盾を構え、二人で離れないよう鏡の前に踏みとどまった。
「カティア、戻せた!」ハリーが歓喜の声を上げた。「『石』は鏡の中だ!」
「やった!」カティアは叫んだ。
相当な賭けだったがうまくいった。
これで敵は石を手に入れられない。ヴォルデモートが怒鳴り声をあげた。
「捕まえろ!」
次の瞬間、強烈な呪いを使えないクィレルが業を煮やして真っ直ぐ飛びかかってきた。
しかし成体のグリズリーを素手で殴り殺せるカティア相手に肉弾戦など愚の骨頂だ。カティアはハリーの背後から手を伸ばし、クィレルの左手首をあっという間に捻り折った。
クィレルは飛び退いた。苦痛に体を折り曲げ、震える指先を呆然と見つめていた――。
「捕まえろ! 捕まえろ!」
ヴォルデモートが再び甲高く叫んだが、クィレルはすっかり怯んでいるようだった。
カティアが折った左手もひどいありさまだったが、右手の先も何故か真っ赤に焼け爛れ、皮がべろりと剥げている。
「ご主人様、ポッターに触れたところが……手が……私の手が!」
「それなら殺せ、愚か者め、始末してしまえ!」ヴォルデモートが鋭く叫んだ。
しかしカティアはこの隙を見逃すほど甘くはなかった。
「ドルミーレ!」
睡眠呪文がクィレルの胸に命中した。クィレルはくたりと膝から折れ、石畳に崩れ落ちた。
カティアは追撃で失神呪文を叩き込む。カティアとハリーはちらりと目を見合わせてクィレルの後頭部へ視線を向けると――あの顔は、跡形もなく消えていた。
部屋に沈黙が降りた。ハリーとカティアは恐る恐る顔を見合わせる。
「……逃げられたかしら………?」カティアは呟いた。
「多分………?」ハリーも分かっていないようだ。額の傷を揉んでいる。
出来れば仕留めておきたかったが、どうしようもない。
しかしヴォルデモートの気配はどこにもない。敗色を悟って逃げ去ったのだろうか。
「……ハーマイオニーがダンブルドアを呼びに戻ってくれたはずだ」ハリーは思い出したかのように言った。
「あ」カティアは小さく声を上げた。「……私、ここに来る途中でハーマイオニーを眠らせちゃった」
なんとも言えない沈黙が降りた。
クィレルの傍らにしゃがみ込み、様子を見る。石畳に横たわる彼の右手は、まるで焼けただれたようなおぞましい爛れ方をしていた。カティアがかけた魔法ではない。
「それでハリーはいつクィレルに呪いをかけたの?」
「え、カティアじゃなかったの? 僕は少し触れただけだったけど………」
ハリーとカティアは若干焦り始めていた。なにしろクィレルが崩れ始めていた。
右手の指先から――皮膚どころか、肉も骨も、組織ごとぽろぽろと崩落するように消えていく。崩壊は手首から肘へ、肘から二の腕へと這い上がっていった。
「ちょ、ちょっと待って、これ。えっ?」
流石に死なれたら困る。カティアは右手を複雑に動かした。
宙に光の線が走り、鋭利な両手剣が形をなす。あまり賢い対処法とは言えないが―――。
「えいっ!」
カティアはその刃をクィレルの右肩に振り下ろした。
返り血が飛ぶのを適当に払い、ついでに崩壊しかけた右腕を遠くへ蹴り飛ばす。ハリーは絶句していた。
何にしてもクィレルの崩壊は止まった。
もっとも、今度は肩口から鮮血がとめどなく溢れ出してきたため杖を一振りし、赤い液体を生成する。
仮にも半分吸血鬼のため、血液関連の魔法は得意だ。
クィレルの腕の断面に精製した血液を繋ぎ、滞りなく循環するよう調整する。いくらヴォルデモートをその身に宿した極悪非道な闇の魔法使いでも、実際に死なれたら物凄く面倒くさいことになる。
「………カティア、助けに来てくれてありがとう」ハリーが急に言った。
「いいのよ。友達だもの」
正直、カティアは心の中では三人を守って当然と思っている節があった。
同学年であるがもはや弟や妹みたいなものだ。流石に踏んだ場数が違い過ぎる。むしろカティア側の秘密主義で、ハリーたちに余計に危険な目に遭わせてしまったことは大きな反省点だった。
「何にしても………」カティアはクィレルを見下ろした。「ちょっと急いだ方がいいわ。なんかこの人呪われているような気が……ユニコーンの血かな………」
言われてみれば、ヴォルデモートが『ユニコーンの血が俺様を強くしてくれた』とか口走っていたような気がする。
寄生されていた影響だろうか。生命力も不自然に弱く、闇の魔術に対する防衛術の先生は今にも死んでしまいそうだった。カティアは治療系の魔法は軒並み苦手なため、クィレルを早い事プロフェッショナルに引き渡してしまいたい。
「帰ろうか」ハリーがポツリと言った。
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