銀髪美少女お嬢様(ワケあり)のホグワーツ生活実践編   作:トリスメギストス3世

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030:いつか見た幻月

 そこから数日は、ハリーにとって受難の日々だった。

 ギルデロイ・ロックハートに目をつけられてしまったハリーは、廊下を曲がるたびに彼の姿がないか確かめ、談話室から大広間へ向かうたびに足音に耳を澄ませなければならなかった。

 

 さらにハリーにはもう一人、熱烈なファンがついていた。一年生のコリン・クリービーだ。

 明るい茶髪でいつも落ち着きのない小柄な男の子なのだがこれが厄介で、四六時中ハリーの後を追い回して大きなカメラでパシャパシャと撮り続けるというとんでもない悪癖があった。そしてコリンはとにかく人の気持ちを読み取るのが苦手で、ハリーが明らかに嫌がっていても一切お構いなく距離を詰めてくるのだ。

 

 その日だけで七回目となるコリンとの遭遇の後、カティアはハリーに切り出した。

 

「私がガツンと言ってあげましょうか? ハリーが迷惑しているから近づくなって」

 

 ハリーは少しぎくりとしたが、すぐに首を横に振った。

 

「いや、大丈夫。自分でどうにかするよ。……ありがとう、カティア」

 

「そう? 気が変わったらいつでも言いなさい」

 

 このハリーの優しさが、かえってコリンを増長させているような気がしてならない。

 怖い友人が代理できっぱりと拒絶した方が後腐れがなくて楽だろうにとカティアは思ったが、結局はハリーの意思を尊重することにした。

 

 そんなこんなで、二年生のホグワーツ初週はそれほど面白いものにはならなかった。

 とにかく心配事が多すぎるのだ。ロンの折れた杖はもちろん、ハーマイオニーがロックハートにすっかりお熱なこともかなり頭の痛い問題だった。同性の親友が危険な男に夢中というのは心理的に中々辛いものがある。

 

 だからこそ、やっと週末を迎えたときカティアは心底ほっとした。

 土曜日の朝、まだ陽射しが弱々しく差し始めた頃、カティアはメイベルを連れて校庭に出ていた。

 

 メイベルはまだまだ遊び盛りの子犬だ。いまやこの子はグリフィンドールのアイドルだった。

 子犬と言うのはあまり激しい運動をさせるのは良くないのだが、カティアとて愛犬家のため自分の子犬と一緒に屋外で駆け回りたい気持ちはある。

 

 朝の校庭はしんと静まり返り、広々とした芝生にはまだ朝露が宝石のように光っていた。

 湖の方からひんやりとした風が吹き渡り、木々の梢をさわさわと揺らす。カティアはメイベルのリードを外し、足元に落ちていた木の枝を拾い上げると、思い切り遠くへ放り投げた。

 

「メイベル、取ってきて!」

 

 メイベルは耳をぴんと立てるが早いか、全速力で駆け出した。

 短い足で芝生を蹴り、時々勢い余って転がりながらも枝めがけて一直線に突進していく。きゃんきゃんと弾むような鳴き声が朝の校庭に響いた。

 

 カティアは大満足だった。

 そうしてメイベルとしばらく遊んでいると、校庭の向こうから誰かがとぼとぼと歩いてくるのが目に入った。

 

 寝ぼけ眼のハリーだ。クィディッチのユニフォームに身を包み、肩にはニンバス2000を担いでいる。

 足取りはおぼつかなく、まるで寝言を言いながら歩いているようだ。カティアは枝をくわえて戻ってきたメイベルを抱き上げ、ハリーの方へ駆け寄った。

 

「おはよう、ハリー。こんな朝早くから練習があるの?」

 

「おはよう、カティア……」ハリーは目を半分閉じたまま、ふらふらとこちらに近づいてきた。「ウッドが練習をしたいらしいんだ……僕もさっき叩き起こされて……。君はメイベルのお散歩かい?」

 

「うん。本格的に日が高くなる前に遊んでおこうと思って」カティアは腕の中でもぞもぞと動くメイベルを抱え直した。「それでハリーは、いつまで練習なの?」

 

「それが分かんないんだ」ハリーは大きなあくびを噛み殺しながら言った。「朝ごはんにありつけると良いんだけど……」

 

 ハリーはそれ以上会話をする気力もないようだ。 

 ひらひらと力なく手を振ると、ハリーは競技場の方へとよろよろ歩いていった。その後ろ姿が小さくなっていくのを、メイベルが見送るように小さく一声「わん」と鳴いた。

 

 カティアは空を見上げた。

 太陽はまだ低い位置にあったが、雲の切れ間からじりじりと熱を帯び始めている。これ以上長居すると、カティアにとっては少々辛い時間になりそうだ。

 

「メイベル、そろそろ戻りましょうか」

 

 メイベルは枝をくわえたまま得意げに尻尾を振った。苦笑しながらリードを取り出し、暴れる子犬の首輪にもう一度繋ぐ。城へと続く石段を上り、玄関ホールを抜けて廊下を進んだ。

 土曜の朝とあって廊下はまだ閑散としており、二人と一匹分の足音だけが石壁にこつこつと反響する。メイベルはリードをぴんと張りながら、興味津々といった様子であちこちの石畳に鼻先を押しつけては匂いを嗅ぎ回っていた。

 

 しかし運の悪いことに、四階の角を曲がったところで灰色の猫とばったり出くわしてしまった。

 ランプのような黄色い目をしたミセス・ノリスだ。彼女は背中の毛を逆立て、メイベルをにらみつけてシャーと威嚇した。そして止める間もなくメイベルは低い唸り声を上げ、リードがついていることも忘れて猫めがけて突進しようとした。

 

「メイベル、ダメ!」

 

 カティアは両腕でメイベルの胴体をがっしりと抱き留めた。短い足が空中を必死にかき、甲高い吠え声が廊下中に反響する。ミセス・ノリスは一瞬びくりとたじろいで後ずさったが、すぐに廊下の奥からすり足のような足音が近づいてきた。

 

「犬ッ!」

 

 現れた管理人のアーガス・フィルチが、唾をまき散らして叫んだ。

 ぎょろりとした血走った目があたりを忙しなく見回し、抱き留められて尚もじたばたともがくメイベルの姿を捉えるやいなや汚れた歯を剥き出しにした。

 

「犬だと! 城の中に犬を連れ込むなど、いったいどういう了見だ!」

 

「あの、犬は規則で許可されていて——」

 

「黙れ!」フィルチはカティアの言葉を遮り、節くれだった骨ばった指を突きつけた。「わしの可愛いミセス・ノリスを脅かしおって! ろくでもない獣だ! 抜け毛は落とすわ吠え声はうるさいわ、もう十分だ。わしがこの学校から追っ払ってやる!」

 

「アーガス、朝っぱらから何事ですか」

 

 通りかかったのはマクゴナガル先生だった。眼鏡の奥の厳しい瞳が、フィルチとカティア、そして大人しくなったメイベルを順に見比べる。

 

「マクゴナガル先生、ちょうど良いところに! この生徒が、躾のなっとらん犬を野放しに——」

 

「野放しになんてしていません! 放し飼いなのはむしろその猫の方です!」

 

 カティアはミセス・ノリスを指さして攻撃的に目を細める。

 無意識のうちに人差し指の表面を眩い紫電が走り、鋭い炸裂音を発生させた。

 

「お黙りなさい、ミス・アシュリー」マクゴナガル先生がぴしゃりと遮った。「ミセス・ノリスはこの城の管理猫であり、その自由な行動は許可されています。そしてアーガス、飼い猫が犬に吠えられた程度で誰も怪我をしていないのであれば、それ以上は問題にしないことです」

 

 フィルチの顔が赤くなったり青くなったりを忙しなく繰り返した。

 しかし心地よい散歩の帰りに突然喧嘩を売ってきたのは本当にこの薄汚い猫の方だ。カティアはガチンと牙を鳴らしてフィルチを睨みつけたが、何とか自制を間に合わせる。

 

「……はい、マクゴナガル先生。談話室に戻ってもよろしいでしょうか」

 

「そうなさい。今後はこのような揉め事を起こさないよう、飼い犬の行動には十分注意を払うこと」

 

 まだぶつぶつと文句を垂れているフィルチの脇をすり抜けて、談話室に向かって足早に歩き出す。

 とんだ災難だ。とっくに機嫌を直したメイベルはきょろきょろとあたりを見回しながら鼻をひくつかせていたが、カティアの方はまだ苛立ちが治まらなかった。

 

 早足で石段を上り、太い円柱が立ち並ぶ廊下を曲がったところで見覚えのある赤毛が目に入った。

 ジニー・ウィーズリーだ。肩からかけた鞄を抱え込むようにして、一人できょろきょろとあたりを見回しながら歩いている。

 

 カティアに気づいたジニーは一瞬びくりと肩を跳ねさせたが、すぐにほっとしたように表情を緩めた。

 

「あ……カティア、おはよう」

 

「おはよう、ジニー」カティアはにっこりと笑いかけた。「ホグワーツの生活はどう? そろそろ慣れた?」

 

 一年生にとっては初めての休日だ。

 休むにしても学校探索をするにしても絶好の日時だろう。

 

「うん、まあ……」ジニーは鞄の紐をぎゅっと握りしめた。「大広間がどこにあるか、まだよく分からないけれど……」

 

「道はじきに覚えるわ。それで、今日は散歩でもしているの?」

 

 ジニーの視線がちらりと廊下の先や曲がり角の向こうへと向けられた。

 

「ねえ」ジニーがメイベルの頭を撫でながら、努めて何でもないことのように切り出した。「今日はハリーと一緒じゃないの?」

 

「ハリーなら今頃クィディッチの練習よ」カティアは肩をすくめた。「朝早くにユニフォーム姿でふらふら歩いているところに会ったわ。ものすごく眠そうだったけど」

 

「クィディッチの練習……」

 

 ジニーがぱっと顔を上げた。頬がじんわりと赤く染まっていく。

 

「ピッチに行けば会えるんじゃないかしら。ウッドが何時まで練習するつもりかは知らないけれどね」

 

 カティアは特に意味を込めるでもなく、さらりと付け加えた。

 ジニーはすっかりハリーを見に行く気になったらしい。興奮を抑えきれないのか、軽くぴょこぴょことその場で跳ねながら言う。

 

「カティアも一緒に行かない?」

 

「お誘いはありがたいけれど、寝室に戻って少し眠るわ。私って日光が辛いのよね……」

 

 ジニーは少し残念そうな顔をしたが、それでもスキップしながら歩き出した。その後ろ姿を見送りながら、カティアは大きなあくびをする。

 

「あれじゃあ双子がからかいたくなるわけね。なんともまあ愛らしい……」

 

 かなり早熟な子だが、あの調子だとジニーの目的は叶わないだろう。

 そもそもハリーは『生き残った男の子』としてチヤホヤされるのを嫌がることに全く気が付かない時点で、ジニーに勝ち目はない。

 相手は兄の親友なのだから普通に接していればすぐ仲良くなれるはずなのに、意識しすぎて空回りするのはどうにも子供っぽくて見ていて面白かった。兄弟そろって変なところで不器用だ。

 

 なんにしても、コリンもあれぐらい控えめなら可愛げがあるのになと、カティアは思った。

 

 カティアは欠伸を噛み殺し、談話室への道を歩いていった。

 

―――――

 

 ロンの杖が逆噴射したと知ったのは、昼食の席のことだった。

 

 なんでも、マルフォイがハーマイオニーに向かって「穢れた血」と言ったらしい。

 それで激怒したロンが杖を抜いてマルフォイに呪文を放ったのはいいのだが、呪文はロン自身に向かって飛んでいったのだという。

 

「やっぱり折れた杖を使っちゃダメよ。危なっかしくて見ていられないわ」

 

 ローストビーフにソースをたっぷりかけながらカティアは呆れて言った。

 杖の逆噴射はかなり危険な魔法事故の一つだ。ロンの顔色はまだ真っ青だったし、口の端からナメクジが一匹這い出ていた。

 

「ねえ、それいつまで続くの?」

 

 カティアは自分の皿をそっとロンから遠ざけながら聞いた。ハリーがため息をつく。

 

「ハグリッドは、全部吐いてしまうしかないって言ってたけど……」

 

 ロンがまた口元を押さえてくぐもった声でうめいた。ここまで逆噴射してほしくない呪いも珍しい。

 そして話の流れで別の話も出てきた。ドラコの父親がスリザリンチーム全体に最新型の競技用箒を買い与えたらしく、おかげでドラコもスリザリンのシーカーに収まったというのだ。

 ハリーもロンもこの件には怒り心頭だったが、カティアは少し違う意見だった。

 

「まあいいんじゃない? お金は溜め込んでいるだけでは意味がないもの」

 

 たかがニンバス七本分の出費で、スリザリン寮内での息子の立場を補強できるのだ。

 ルシウスにとってこれほど割に合う話はない。慈善活動や経済的支援は、自らの発言権や名誉に変換してこそだ。そういう教育をされてきたカティアとしては、ニンバス2001の件については良くも悪くも特別な感想は湧かなかった。

 

 しかし ハリーとロンにとってはそうではないらしい。

 

「カティア、気づいていないようなら言うけど」ハリーがじれったそうに言った。「マルフォイはシーカーの座を不正に金で買ったんだ!」

 

「不正ねえ……?」カティアは軽く眉を上げた。

 

 ルシウスは何も息子をシーカーにしてくれと裏金を渡したわけではない。

 あくまで『出身寮のクィディッチチームを応援するために、最新の箒を七本寄付した』だけだ。

 世の中は何事も建前なので、これにはとても大きな違いがある。しかしその辺の都合をハリーとロンに話しても仕方がないので、カティアは肩を竦めるに留めた。

 

 だいたい、昨年のマクゴナガルによるハリーのシーカー任命も大概なグレーゾーンだ。

 あちらは規則違反で箒に乗ったことがきっかけなので、ある意味マルフォイよりも悪質だと思う。

 

「ポッター、ウィーズリー、そこにいましたか」

 

 マクゴナガル先生が厳しい表情のまま、つかつかとこちらへ歩いてきた。

 

「二人とも、処罰は今夜になります」

 

 空飛ぶ車で登校したことについての罰則だ。

 一週間近く経ってようやく下された沙汰に、ハリーとロンが同時に背筋を伸ばす。

 

「あの……僕たち、何をするんでしょうか?」ロンがなんとかゲップを押し殺しながら聞いた。

 

「ウィーズリー、あなたはフィルチさんと一緒にトロフィー・ルームで銀磨きです。魔法は使ってはいけません。自分の手で磨くのです」

 

 ロンは絶句した。フィルチと二人きりで、魔法なしで夜のトロフィー・ルームに閉じ込められる。

 

「ポッター。あなたはロックハート先生のファンレターへの返事を手伝いなさい」

 

「えーっ」ハリーが声を上げた。「そんな……僕もトロフィー・ルームの方ではいけませんか?」

 

「もちろんいけません」マクゴナガル先生は眉を吊り上げた。 「ロックハート先生はあなたをとくにご指名です。二人とも、八時きっかりに」

 

 マクゴナガル先生が立ち去ると、ハリーとロンは揃って深いため息をついた。

 

「フィルチと二人きりか……」ロンが青い顔で呟く。

 

「ロックハートのファンレターの返事……」ハリーも負けず劣らず暗い顔だ。

 

 しかし正直なところ、この罰則は相当甘い方だろうとカティアはこっそり思った。

 何しろ違法な改造車でスコットランドまで飛んできたのだ。退学処分にならなかっただけでも御の字というものである。

 

 昼食が終わると、それぞれ思い思いの方向へ散っていった。

 ハリーとロンはグリフィンドール塔へ、そしてハーマイオニーは勉強のために談話室に戻って行った。

 

 カティアは図書館へ向かう。魔法史のレポートのために本が必要なのだ。

 来週までに仕上げなければならないそのレポートの『十八世紀における巨人との大戦争とその顛末』で、あまり舐めてかかったら大変なことになりそうだ。

 

 図書館の棚をひと通り見回したカティアは、最終的に『欧州巨人問題覚書:大戦争前後の政治的変遷』を引っ張り出した。分厚くて埃っぽく、図書館に収められてからこれまで誰にも手を触れられていないのではと思わせる。

 談話室に戻ったカティアは暖炉そばの椅子に腰を落ち着け、本を開いて羊皮紙に羽ペンを走らせ始めた。

 

 案の定、巨人族の本は退屈を極めた。

 それでも何とか一時間ほどでレポートをやっつけて、羽ペンを放り投げる。

 

 ちょうどそのとき、足元で丸くなっていたメイベルがむくりと起き上がった。

 

「散歩に行きたい?」

 

 メイベルはぶるぶると全身を震わせ、尻尾を激しく振った。

 あまりモタモタしていると門限に引っかかってしまうので、すぐにリードを取り出してメイベルの首輪に繋げる。

 

 しかし廊下に出た途端、メイベルの様子がおかしくなった。

 とにかく落ち着きがない。石壁に向かって低く唸り、甲高く吠えたかと思えば後ずさって震えるのだ。

 カティアはまじまじとメイベルが大騒ぎする先を見たが、そこは特に何もない、ただの石壁だ。

 

「メイベル、静かにして。またフィルチに怒られちゃうから」

 

 カティアはメイベルを抱き上げて宥めようとしたが、彼女は腕の中でもじたばたと暴れ続けた。

 何が原因なのかがさっぱり分からない。変な物でも食べさせたかと少し心配になってきたが、いずれにしてもこのままではフィルチに難癖をつけられるのも時間の問題だ。

 

 吠えるメイベルをなだめすかしながら階段を下っていると、玄関ホールでちいさな人影に気がついた。

 ジニーだ。またハリーを探しているのだろうか。ロンの妹は赤毛を揺らしながら廊下を進み、正門から外に出ようとしていた。

 

「ジニー? 今日は良く会うわね」

 

 声をかけると、ジニーはひどくゆっくりとした動作で振り返った。

 顔色が悪い。朝に会ったときよりも頬の血の気が引いていて、目の焦点もどこかぼんやりとしている。カティアはメイベルを抱えたままそっと身をかがめて視線を合わせた。

 

「大丈夫? 少し顔色が悪いわ」

 

「え……あ、うん」ジニーはぱちぱちと瞬きをした。「大丈夫、ちょっとぼーっとしてただけ。カティアは散歩?」

 

「ええ、メイベルを外に連れ出そうと思ったのだけれど……」

 

 カティアは腕の中のメイベルに視線を落とした。

 少し前からメイベルはカティアの胸元に顔を押しつけて、小刻みに震えている。さっきまであれほど吠え続けていたのに、今となってはこの調子だった。

 

「散歩に行くんだ」ジニーがぼんやりとした目でメイベルを見た。

 

「……ええ、だけど少し様子がおかしくて。何か変な物でも食べたかしら……」

 

 カティアはもう一度ジニーの顔をまじまじと見た。

 こちらも心配だ。新学期が始まってまだ一週間も経っていないが、ジニーの身に何か問題が起きたのだろうか。

 

「ジニー、今夜は早めに寝なさい」

 

「え?」

 

「一年生がこの時期に体調を崩すのは珍しいことでも何でもないわ。あまり無理しないでね」

 

 にっこりと笑いかけると、ジニーはぱちりと瞬きをして小さく笑った。

 

「うん……そうするね。ありがとう、カティア」

 

 びっくりするほど中身のない会話だった。ジニーはよほど参っているらしい。カティアは少し首を捻りながらも、それ以上は深追いせずに手を振った。廊下の奥へと歩いていくジニーの後ろ姿を見送りながら、一度だけ小さく首を傾げる。

 

「……パーシーに相談した方がいいのかしら」

 

 しかし、そこまでする必要はないとカティアはすぐに思い直した。

 何しろジニーにとって、今週はホグワーツでの初めての週だ。六人兄弟の末っ子として、この城の話はさんざん聞かされてきただろうが、実際に飛び込んでみれば勝手が違うことだらけに違いない。入学してみれば兄たちはそれぞれ自分の交友関係で忙しく、憧れのハリーには緊張してまともに話しかけることもできない。

 慣れない授業に、迷路のような廊下、見知らぬ顔ばかりの友人関係。あの吼えメールの一件だってある。ジニーが親元を恋しく思うのは、ごく当然のことだ。

 

 しばらくはカティアが様子を気にかけてやれば十分だろう。

 全寮制学校のホームシックというのは大抵、クリスマス前には落ち着くものだ。

 

 ふと腕の中を見ると、メイベルはいつの間にか眠ってしまっていた。

 眠る犬を引き連れて散歩をしても仕方がない。カティアは軽く夜空を見上げて踵を返した。今夜はカティアも眠ってしまおう。

 夜の廊下はしんと静まり返り、カティアの足音だけが石壁に反響した。腕の中のメイベルはすっかり寝息を立てていて、たまに夢でも見ているのか、小さな前足をぴくりと動かした。

 

 太った婦人の肖像画に合言葉を告げて穴をくぐると、談話室にはまだそれなりの人影があった。

 暖炉の火がぱちぱちと爆ぜ、あちこちから話し声が漂っているがハリーとロンの姿はない。今頃それぞれフィルチとロックハートに捕まっているはずだ。ハーマイオニーは談話室の端の机で羊皮紙の山に向かって黙々と羽ペンを走らせており、カティアが入ってきたことにも気づいていないようだった。

 

 一足先に帰ったはずのジニーの姿もどこにも見当たらない。もう寝室に戻ったのだろう。

 

「お、カティア!」

 

 暖炉そばのソファにぐったりと寄りかかっていたフレッドとジョージが揃って手を上げた。二人の周りには食べかけのカエルチョコの包み紙が散らかっている。

 

「メイベルと夜の散歩か?」

 

「今日は帰ってきちゃったわ。メイちゃんも疲れているみたいで」

 

 女子寮へ続く螺旋階段へ足を向ける。

 一段上がるごとに談話室の喧騒が遠ざかり、階段を上りきった先の二年生の寝室はひっそりと静まり返っていた。並んだベッドのそれぞれに深紅のカーテンが垂れ、高い窓から月明かりが細く差し込んでいる。

 どうやらラベンダーとパーバティはまだ戻っていないようだ。

 

 カティアは自分のベッドのそばに置いてあるケージの扉をそっと開け、腕の中の温かい毛玉をできるだけゆっくりと下ろした。メイベルは一瞬もぞもぞと身じろぎしたが、くるりと丸まってすぐにまた寝息を立て始める。

 

 カティアは靴だけを脱いで、そのまま自分のベッドに倒れ込んだ。

 

 夢の中で、カティアは天文台の塔の頂点に立っていた。

 夜風が冷たく頬を撫でる。眼下には校庭が広がり、月明かりに照らされた芝生は銀色に光って幻想的だ。その向こうには禁じられた森が黒い塊のように沈み込み、湖の水面が鏡のように夜空の月を映し出していた。

 足元には灰色の城が聳え立ち、無数の塔と尖塔の輪郭が静かに夜空へ浮かび上がっている。

 

 カティアの背中にはドラゴンに似た一対の翼があった。漆黒の翼膜と頑強な骨組みで構成された翼端の先端で、鋭い爪が攻撃的に輝いている。

 何が来るのかは分からない。ただ、何か大切なものが来るのだということだけははっきりと分かっていた。禁じられた森のざわめきに静かに耳を澄ませながら、じっとその時を待つ。

 

 しばらくして、下の方から足音が聞こえてきた。石の階段を駆け上がる軽い足音だ。

 その瞬間、カティアは塔の先端から身を投げた。翼で夜風を捉え、塔の側面を弧を描くように滑空する。開いた窓から最上階の部屋へと飛び込んだ。

 

 そこには古い天体観測の道具が置かれていた。真鍮の望遠鏡、星座の描かれた巨大な天球儀、埃をかぶった星図——どれもが月明かりにぼんやりと白く浮かび上がっている。

 

 そして石段の方から、一人の少女が姿を現した。

 銀髪に深紅の瞳。ローブ姿のカティア・アシュリーが、頬を赤く染めながら部屋に飛び込んできた。

 

「お母様!」

 

 少女はパタパタと小さな足音を立てて駆け寄り、勢いよく抱きついてきた。

 そして"母"はしゃがんでカティアをしっかりと”抱き返して”くれた。カティアは夢中になって母の胸元に頬を擦り寄せた。

 

「お母様、お母様! 良かった、良かった、生きてたのね! 私、ずっとずっとお母様を待っていたのよ――」

 

 次の瞬間、眩しい日光が顔に当たった。

 虚空に伸ばした両腕の先には何もなく、母の幻影は一瞬にして消え去っていた。目を覚ましたカティアはしばらくそのまま腕を伸ばし続けた。

 

「…………そっか」

 

 日差しの中で、カティアは静かに悟った。頬を涙が一筋伝う。

 瞬きをしても視界は滲んだままだ。いい夢だったのに、とまだ半分眠ったままの頭で思う。

 

 しかし意識がはっきりしてくるにつれ、カティアは何かがおかしいことに気がついた。

 まず、ここは女子寮ではない。背中に当たっているのは柔らかいベッドではなく、冷たく硬い石の感触だ。体を起こすと、見覚えのある光景が目に飛び込んできた。

 

 古い天体観測の道具。真鍮の望遠鏡。埃をかぶった星図。

 

 それは夢の中の光景そのものだった。

 天文台の塔の最上階。靴も履いていないカティアは呆然と周りを見回した。

 

 

 




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