銀髪美少女お嬢様(ワケあり)のホグワーツ生活実践編   作:トリスメギストス3世

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034:踏んだり蹴ったり

 犬を飼ったことのある者は、誰もが口を揃えて『子犬の時期はあっという間に終わる』と語る。

 それに関して、カティアもまったく同じ意見だった。八月には両手に収まるほど小さな子犬だったメイベルも十月も半ばを迎える頃にはちょっとした中型犬ほどの大きさにまで成長し、手足も伸びて顔つきもすっかりレトリバーらしくなった。

 誰が見ても無条件に可愛い天使の時代は、瞬きする間に終わってしまったのだ。

 

 しかし身体が大人になっても心はまだまだ子犬のまま。体が大きくなるにつれて、メイベルのやることも豪快になっていった。

 カティアも飼い主として躾を頑張っているのだが、外に出たりテンションが上がると教わったことを全部忘れてしまうのがメイベルという生き物だった。さらに人間が好きすぎるメイベルは世界中の人が大親友に見えているらしく、誰かを見つけるとすぐに突進しようとするのだ。散歩中にすれ違ったマルフォイにも撫でてもらおうと突進するのにはカティアも困り果てていた。

 

 そして悪戯の規模も、体重の増加に従って日に日に洒落にならなくなっていった。とにかく噛み癖が強烈で、少し目を離した隙にハーマイオニーの本、ロンの手袋、ハリーのローブは完全に破壊された。魔法で大抵の物は修復できるとはいえやりすぎだ。

 

 それでも、メイベルはグリフィンドール生たちから愛されていた。

 人懐っこい性格のおかげでとにかく受けが良く、いつも誰かが遊び相手になってくれた。気づけば誰かがお菓子を与えており、それを咎める暇もないほどだった。

 

 そんな賑やかな日々の末に迎えたハロウィンの朝、談話室のソファで尻尾を振っている全身ショッキングピンクの動物がいた。

 フレッドがカティアに気が付いて身を竦めた。そしてピンクの動物が魔法をかけられたメイベルだと気が付いてカティアは悲鳴を上げた。

 

「ごめん、ごめんよカティア! ちょっと……あまり上手くいかなくてだな……」フレッドが慌てて言う。

 

「我らがグリフィンドールのマスコットにも、ハロウィンのちょっとした仮装をと思ってね……」

 

 隣のジョージがなんてことないかのように話し出したため、カティアは大声を上げた。

 

「じゃあ早く戻してよ!」

 

 しかし双子は顔を見合わせてだらだらと冷や汗を流し始めた。

 どうやら自分でも戻せないような方法でやってしまったらしい。カティアは双子に一通り猛抗議したあと、今度は自分でメイベルを元に戻そうと試みた。

 

 しかしこれがまったく上手くいかない。

 あれこれやるうちにメイベルはピンクから虹色へと変わり、ついには全身がぴかぴかと光り輝き始めた。

 

 結局、カティアはマクゴナガルに泣きつかなければならなかった。

 朝一番に研究室のドアが開いた途端にマクゴナガルの動きがぴたりと止まり、虹色に輝くレトリバーと疲弊しきった飼い主の顔を無言で見比べる。

 

「おはようございます、マクゴナガル先生」カティアは一応挨拶してみた。

 

 マクゴナガルは無言のまま眼鏡の縁を人差し指でわずかに押し下げた。

 とびっきり派手なクリスマスの電飾みたいになったメイベルが、マクゴナガル先生の顔を舐めようと一生懸命に身を乗り出していく。

 

「……アシュリー。これは、一体何事ですか」マクゴナガルはメイベルの頭を押し返しながら言った。

 

「フレッド・ウィーズリーがイタズラをして……」カティアは必死だった。「マクゴナガル先生なら元に戻せますよね? 大丈夫ですよね?」

 

 腕の中のメイベルが大はしゃぎで身をよじる。

 マクゴナガルは深々とため息をつき、額に指を当てたまま無言で杖を一振りした。

 次の瞬間、メイベルの被毛はあっけないほど簡単に元の綺麗な金色に戻った。

 

「ありがとうございます、マクゴナガル先生!」カティアは胸をなでおろした。「ずっとピンクのままだったらどうしようかと……」

 

「ちょうどいい機会ですから、伝言があります、ミス・アシュリー」

 

 メイベルをぎゅっと抱きしめたまま続きを待つ。マクゴナガルは軽く咳払いして言った。

 

「フィルチさんから報告を受けています。生徒のレトリバーが城の廊下を汚しているというものです」

 

「私たち、そんなことは――」

 

「もちろん分かっております」マクゴナガルはぴしゃりと言った。「ですがアーガス・フィルチはホグワーツの管理人です。あなたが躾に失敗していると彼が判断した場合、最悪、あなたの飼い犬を実家へ送り返すことになりかねません」

 

「ええっ! そんな!」

 

 この日、カティアは荒れっぱなしだった。

 そんな馬鹿な話があるものか。メイベルはこの月齢の犬にしてはかなり大人しい方なのだ。フィルチのやった事があまりに苛立たしかったため、談話室で一番人気のソファを陣取ったカティアは吠えた。

 

「あの猫狂いの劣等種……!!」

 

 部屋の隅でカメラの手入れをしていたコリン・クリービーが、カティアの大声に驚いて椅子から転がり落ちた。

 

「出来損ないのスクイブの分際で私のメイベルを……!」

 

「落ち着いて! カティア、ちょっと声を落として!」ハーマイオニーが懇願する。

 

 カティアはギリギリと歯ぎしりしながら苛立たしげに爪を噛む。

 情緒不安定なカティアの背中を、ハーマイオニーが心配そうにさすってくれた。

 

「大丈夫よ、カティア。メイベルはとってもいい子だもの。きっとマクゴナガル先生が守ってくれるわ」

 

 肝心のメイベルは飼い主の剣幕に怯んだのか、珍しくしおらしかった。

 足にそっと顎を乗せてきたり、じっと顔を覗き込んできたりしてくる。いつになく大人しいメイベルを見てカティアは更にフィルチへの怒りが湧きあがってきた。ちなみにフレッド、ジョージ、ハリー、ロンはとっくに避難して談話室のどこにも姿が見えない。

 

 それから数分の間、大暴れして毒を吐き切るとようやく気分が落ち着いてきた。

 飼い主を慰めることに飽きてしまったメイベルがカティアのスリッパを咥えて猛ダッシュするのを諦め半分で見送っていると、どこかホッとした顔のハーマイオニーがふと聞いてくる。

 

「ところでカティア。あー……『スクイブ』ってなに?」

 

「ああ……ハーマイオニーはマグル生まれだものね」カティアはため息をついた。

 

 入学当初に比べればずいぶん減ったが、やはり彼女は魔法界の常識に疎い。

 マグル生まれに用語をどう説明したかと考えていると、遠くでメイベルが自分のスリッパを盛大に破壊していた。

 

「……魔法族の家に生まれたのに魔法を使えない人のことを『スクイブ』って呼ぶの」

 

 つまりはマグル生まれの逆だ。これを聞いたハーマイオニーは少し驚いた様子だった。

 

「魔法使いからマグルが生まれることがあるの? でも……ロンのご家族はあんなに大家族なのに、みんな魔法使いか魔女じゃない?」

 

「まあ基本的にはそうね。スクイブってとっても珍しいのだけれど、それはともかく――」カティアは話を引き戻した。「――そんなフィルチがメイベルに何の恨みがあるのかしら。彼が生徒嫌いなのは知っているけれど、あそこまで目の敵にされる覚えはないのよ」

 

「メイベルとミセス・ノリスがいつも喧嘩しているからではないかしら」ハーマイオニーが指摘した。

 

「喧嘩なんてしていないわ。あの猫がちょっかいをかけてくるだけよ」カティアはため息をついた。「メイベルとお散歩しているといつも物陰からひょっこり現れて――あっ」

 

 『お散歩』という単語を聞きつけたメイベルがスリッパを口に咥えたまま猛然と舞い戻ってきた。

 尻尾をぶんぶんと振りながらそこら中を駆け回り、期待に満ちた目でカティアをじっと見上げてくる。

 

 それから二十分後、カティアはメイベルを連れて玄関ホールに出ていた。

 これだけ体が大きくなると、散歩に割く時間もそれなりのものになってくる。メイベルは走り足りないと談話室のソファのクッションを咥えて破壊してしまうのでサボるわけにもいかない。

 

 しかし外に出て空を見上げ、カティアは思わず足を止めた。

 今にも泣き出しそうな曇天が頭上いっぱいに広がっていて、一気に元気がなくなってしまう。

 

「……ねえ、メイベル。今日はやめにしない?」

 

 メイベルはリードをぴんと張ったまま、この世の終わりが訪れたかのような瞳でじっと見上げてきた。

 ゴールデンレトリバーは散歩が大好きだ。プロペラのように振られていた尻尾の動きがぴたりと止まり、切ない声で喉を鳴らす。そして飼い主の決定に抗議するかのようにカティアの靴の上にどすんと座り込み、そのまま動かなくなった。

 

 カティアはため息をついて、校庭に踏み出す。

 十月の校庭は秋の空気をたっぷりと含んでいた。吐く息が白く霞み、禁じられた森の木々は赤や黄に色づいている。風が吹くたびに枯れ葉が芝生に舞い落ちてきて、メイベルはそれを追いかけるのに夢中だった。

 

 そして案の定、芝生を半周ほど歩いたところでぽつりと冷たいものが頬に当たった。

 それから十秒も経たないうちに、空が割れたかと思うほどの勢いで雨が降り出す。

 

「言わんこっちゃない!」

 

 リードを短く持ち直してカティアは石段めがけて駆け出した。

 メイベルも耳を伏せて全力で並走する。雨粒はあっという間に大粒になり、芝生が泥に変わるほどの豪雨が容赦なく叩きつけてきた。しかしメイベルは大はしゃぎで、泥水をはね上げながら嬉しそうに走っている。

 

 玄関ホールに飛び込んだときには、二人はとっくにずぶ濡れだった。

 カティアが髪から雨粒を払いながらメイベルを見下ろすと、メイベルは全身をぶるぶると勢いよく振るって冷たい泥水を飼い主に浴びせてくる。

 

「やめてよメイベル……」

 

 そのとき、廊下の奥からせかせかとした足音が近づいてきた。

 

「犬ッ!」

 

 うんざりしながらカティアが視線をやる。

 アーガス・フィルチが血走った目を剥きながら廊下の奥から突進してきた。その視線がカティアからメイベルへ、そして二人の足元へと移動した瞬間、頬がぴくぴくと痙攣し始める。

 

「汚い、汚い、汚いッ! わしが今朝磨いたばかりの床を! この忌々しい獣めが!」

 

 玄関ホールの石畳には、泥混じりの雨水がぽたぽたと滴り落ちて水溜りができあがっていた。

 今日は絶対に厄日だ。フィルチは水溜りを指差したまま怒鳴り続けている。

 

「事務所に来い! そのがさつな獣ごとな!」

 

 フィルチが不格好に走り出したので、カティアはメイベルのリードを握ったまま渋々と後に続く。

 廊下を進むにつれてメイベルとカティアの濡れた足跡が刻まれた。

 

「入れ。まったく、とんでもない悪党が……」

 

 カティア・アシュリーを前にしてここまで通常営業の人も珍しい。普通は少しぐらい怖がるものだ。

 そんなフィルチの事務所は城の一階の奥まった場所にあった。出来ればホグワーツ在学中に一度も訪れたくなかった場所だ。

 

 ドアを開けた瞬間、魚のフライの匂いがほんのりと鼻をついてくる。石油ランプが吊り下げられた薄暗い室内には書類の詰まったキャビネットが所狭しと並び、壁には磨き上げられた鎖や手錠がずらりとかけられていた。

 カティアは観光で訪れたロンドン塔の展示室を何となく思い出した。フィルチが生徒の足首を縛って天井から逆さ吊りにしたがっていることは、ホグワーツでは周知の事実だ。

 

 フィルチは机の引き出しから羊皮紙の巻紙を取り出した。

 インク瓶に長い羽根ペンを突っ込んで、ぎろりとカティアを睨みながら書き始めた。

 

「名前……エカテリーナ・アシュリー……罪状……」

 

「雨に降られたこと?」カティアが嫌そうに言った。

 

「その泥を誰が掃除すると思ってる!」フィルチが羽根ペンを振り上げながら凄んだ。「お前にとってはちょっとした泥かもしれんが、こっちは一時間も余分に床をこすらなけりゃならないんだぞ!」

 

「“ちょっとした”魔法を使えば、一分もかからずに綺麗になると思いますが?」

 

 決まった。言ってやった。カティアは自分の言葉の効果を存分に楽しむ。

 不意を突かれたフィルチの顔が赤くなり、青くなり、また赤くなった。フィルチは自分がスクイブだということを知られたがらない。

 

「まさか、魔法を使えないというわけではないでしょう……?」

 

 もっとも、無礼の代償はそれなりに高くついた。

 今夜はせっかくのハロウィンだというのに、罰則としてカティアは鎖や手錠を磨く仕事を言い渡されてしまったのだ。

 

 そこから寮に帰って泥だらけのメイベルを洗浄し、自分もシャワーを浴びている内に休日の午後は無情にも過ぎ去った。大広間からかぼちゃの甘い匂いと楽しげな声が漏れてくる中、フィルチの事務室に罰則を受けに行くのは相当辛かった。

 余計なことを言わなければよかったと今さら後悔したが、言ってしまったものは仕方がない。カティアは暗い廊下を足早に進みながら、せめて早く終わらせてしまおうと自分に言い聞かせる。

 

「来たか、さあ早く取り掛かれ」フィルチは意地悪く言った。

 

 銀製の磨き液と古びたぼろ布を渡され、重い鎖を磨く。この作業はとにかく単調だった。

 魔法で一瞬で済む作業をあえてこうして手でやらせるのがフィルチの流儀らしい。その肝心の管理人は机の向こうでせっせと書類仕事をしている。

 

 ハロウィンパーティーのことなど考えまいとしながら、カティアは無心になって磨き続けた。

 あまりに不毛な時間過ぎて段々とフィルチへの殺意が高まってきたが、幸か不幸かカティアが思考を実行に移す前にフィルチが大儀そうな咳払いをした。

 

「……今夜のところはそれくらいにしておいてやろう」

 

 返事も返さずに事務室を出ると、廊下はひっそりと静まり返っていた。

 カティアは半分魂が抜けたような気分で歩み出す。パーティーの喧騒はどこかへ消え、石畳に松明の灯りだけが揺れている。今さら大広間に行っても何も残っていないだろう。

 

 カティアはしょんぼりと冷えた廊下を一人で歩く。

 来年のハロウィンは余計なことを言わないようにしようとばかり考えていると、カティアは更なる不幸へ足を踏み入れていることに気が付いた。

 

「…………あのねえ」カティアはがっくりと肩を落とした。

 

 床が濡れている。松明の光に照らされた石畳は浸水しているのだが、そこに入ってしまった。

 ローファーも靴下もぐしょ濡れだ。ここはマートルのトイレの近くなのでまた彼女が何かしたのだろう。つまり。この水は汚水ということになる。

 

 あまりの不運にちょっと泣きそうになってきた。

 じんわりと視界が滲み出す中ふと顔を上げると、今度は向こうの壁に何かが光っていることに気がついた。

 

 なんと、廊下の壁にとても大きな文字が書かれている。

 松明の炎がちらちらと揺れる中ではどうにも判別しにくいが、黒ずんだ赤い色で記されたその文字列はまるで血で書かれているようだった。

 

     秘密の部屋は開かれたり

     継承者の敵よ、気をつけよ

 

 そしてカティアは首を傾げた。

 

「………なにこれ?」

 

 せめて『何の』継承者なのかぐらいは明記してほしい。生徒の落書きにしても意味不明だ。

 それでも少し興味を引かれる。少しだけ壁の落書きに近寄ると、視界の端にとても奇妙なものが飛び込んできた。

 

 カティアは、自分が見たものを理解するのに少し時間がかかった。

 

「……………ミセス・ノリス?」カティアは信じられない思いで呟く。

 

 それは松明の腕木に尻尾を絡ませてぶら下がっていた。

 趣味の悪いハンガーのようだった。カティアが大嫌いな管理人の痩せた猫は陶器の工芸品のように硬直している。目は大きく見開いたままで、更に息をしていない。死んでいる。

 

 カティアが固まっていると、遠い雷鳴のようなざわめきが聞こえてきた。

 

 どうやらパーティーが終わったらしい。

 廊下の両側から、階段を上ってくる何百という足音と満腹で楽しげなさざめきが近づいてくる。そして生徒たちが廊下にわっと現れた瞬間、前の方にいた生徒がぶら下がった猫とカティアを見つけた。

 おしゃべりも、さざめきも、全てが突然消える。人垣の中にハリー、ロン、ハーマイオニーの姿が見えた。三人ともカティアを見て硬直した。

 

 その中で、周りを押しのけてある人物がいた。ドラコ・マルフォイだ。

 

「継承者の敵よ、気をつけよ! 次はおまえたちの番だぞ、『穢れた血』め!」

 

 マルフォイは冷たい目をギラリと光らせ、ぶら下がったままぴくりともしない猫を見てニヤッと笑った。

 全体的に意味不明すぎる。しかしマルフォイは何かを知っているらしい。なんにしてもその大声に引き寄せられるように、先ほど別れたばかりのアーガス・フィルチが肩で人混みを押し分けてやってきた。

 

「なんだ、なんだ? 何事だ―――」

 

 フィルチはミセス・ノリスを見た瞬間、両手で顔を覆って後ずさりした。

 ここにきてようやく、カティアは自分が非常にまずい立場に立たされていることに気がつき始めた。なんでもっと早くこの場を離れなかったのだろう。

 

「わたしの猫だ! わたしの猫だ! ミセス・ノリスに何が……?」フィルチは金切り声で叫んだ。

 

 そしてフィルチの飛び出した目がカティアに向けられた。

 

「おまえだな!」

 

「違いますが」

 

「おまえだ! おまえがわたしの猫を殺したんだ!」フィルチは聞いちゃいなかった。「あの子を殺したのはおまえだ! 俺がおまえを殺してやる!」

 

 フィルチは本当に殴りかかってきた。

 慌てて首を傾けて拳を躱すと、濡れた床で勝手に足を滑らせたフィルチが激しく転倒する。しかし管理人はめげずに立ち上がり、もう一度拳を振りかぶってきた。

 いくらカティアでも、大人の男性にこんなことをされたら普通に怖い。反撃するべきかどうか迷っていると鋭い声が響いた。

 

「アーガス!」ダンブルドアが他に数人の先生を従えて現場に到着する。

 

 大人の管理人が二年生の女子生徒を本気で殴り殺そうとする様子がかなりマズかったらしい。

 マクゴナガルが息を呑み、ダンブルドアは素早く杖を振ってカティアとフィルチの間に強烈な斥力を走らせた。弾き飛ばされたフィルチは浸水した床に顔面から突っ込んだが、同様に吹き飛んだカティアは空中で体勢を立て直す。

 

「殺してやる!」水面から顔をあげながらフィルチが叫ぶ。

 

「喧嘩を売られているなら買いますが……?」カティアはようやく怒りが追い付いてきた。

 

 水しぶきをまき散らしながら着地し、自分の杖を抜く。

 対するフィルチは猫を殺されたことで完全に正気を失っていた。カティアはフィルチの動きを注視して、杖先でビタリと照準した。

 

 そこで横からスネイプの怒声が飛ぶ。

 

「動くな、アシュリー!」

 

 完全に不意をつかれたカティアだが、ギリギリ反応が間に合った。

 スネイプの杖から赤い光線が放たれるが、無言の『盾の呪文』で無理やり弾き飛ばす。更には後方に5メートル近くジャンプしてフィルチの突撃を躱した。

 

「セブルス! アーガス!」ダンブルドアの声が廊下に轟いた。

 

 場の空気が凍りつく。カティアもスネイプもフィルチも不本意ながら動きを止める。

 三人で互いに苦々しげに視線を交わした。そこでカティアはようやく、背後で何百人という生徒が野次馬していることを自覚した。皆がしんと息を呑んで見つめている。

 

「……それで?」しかしカティアは我慢の限界だった。

 

 あまりにも散々だ。

 何も悪いことをしていないのに、大人の管理人がいきなり狂乱して拳を振りかぶってきた。これは明らかな暴挙であり、カティアには反撃する権利だってあったはずだ。

 

 杖をローブの中に収めてフィルチを冷たく睨みつける。

 誰も声を出さない沈黙の中、自分でも驚くほど底冷えするような声が廊下に響いた。

 

「無実の生徒を殴ろうとした落とし前を、あなたはどうつけてくれるのですか?」

 

「おまえだ!」フィルチが絶叫した。「おまえがわしの猫を殺したんだ! しらばっくれても無駄だぞ、エカテリーナ・アシュリー!」

 

「もう十分じゃ」ダンブルドアの声が怒っていた。

 

 苛々と腕を組むカティアを視線で抑え、ダンブルドアはミセス・ノリスの元へ向かった。

 猫を松明の腕木からそっと外す。カティアはスネイプを視界に入れないように気をつけながら、フィルチを睨みつけたままつま先を石畳に打ちつけた。

 

「アーガス、一緒に来なさい」ダンブルドアが呼びかけた。「ミス・アシュリー、君もおいで」

 

 そこへどこからともなく、ロックハートがいそいそと進み出た。

 

「校長先生、私の部屋が一番近いですよ――すぐ上です――どうぞご自由にお使いください!」

 

「ありがとう、ギルデロイ」

 

 人垣が無言のままさっと左右に割れて一行を通した。ロックハートは得意げにダンブルドアの後ろをせかせかとついていき、真っ青なマクゴナガルと不機嫌なスネイプがそれに続く。

 カティアは歩き出す前にちらりと後ろを振り返り、人垣の中で青ざめているハリーたちに向かって片目をつぶって見せた。

 

 灯りの消えたロックハートの部屋に入ると、壁面があたふたと動いた。

 部屋中に飾られたロックハートの写真の中の何人かが、髪にカーラーを巻いたまま慌てて物陰に隠れている。本物のロックハートは机の蝋燭を灯して後ろに下がった。

 

「さてさて……」ダンブルドアはミセス・ノリスを机の上に横たえた。

 

 明るい場所で見るといよいよ剥製のようだった。

 ダンブルドアは長い指で猫にそっと触れながら、半月形の眼鏡越しに隈なく観察している。部屋の中は静かで、蝋燭の炎だけがゆらゆらと揺れていた。

 

「……特に用事がないなら、談話室に返していただけませんか」

 

 カティアはとても気が立っていた。

 しあし部屋の隅でスネイプが低く危険な声を出す。

 

「君は現行犯だぞ、エカテリーナ・アシュリー。出ていくことは認められん」

 

「現行犯の意味についてすれ違いがあるようですが。私が猫に呪いを掛けた場面を見たとでも?」

 

「全校生徒の前で管理人と教師に杖を向けただろう。随分と余裕な態度だが、どうやら退学処分もあり得る立場だと理解していないらしい」

 

「いいえ、十分すぎるほど理解しています」カティアは即座に冷たく返した。

 

 僅かに眉を上げるスネイプに、非常な攻撃的なジェスチャーを見せつけた後に吐き捨てる。

 

「こんな野蛮で危険な三流以下の学校はこちらから願い下げです。あなた達には愛想が尽きました」

 

「何だと……?」スネイプは薄い唇を曲げた。

 

 マクゴナガルがギョッとした顔でカティアを見る。

 ロックハートは慌てたようにダンブルドアの様子を伺い、ダンブルドアも猫から軽く視線を上げた。

 

「この学校を信用することができません。もうたくさんです」

 

 カティアは杖を取り出すと、思い切り机の上に叩きつけた。

 折るなら折ればいい。杖がなくともカティアには大して関係がない。

 

「今すぐ荷物をまとめ、ここを出ていかせて貰います」

 

「待ちなさいアシュリー!」

 

 しかしマクゴナガルは酷く焦った様子だ。

 

「少し落ち着きなさい。一時の感情に任せてそういう判断をしてはなりません!」

 

「先生によって退学処分もあり得ると言ったり引き留めたり……」カティアは低く言った。「どちらなのですか?」

 

「私はあなたのことを考えて言っているのです」マクゴナガルの声は本気だった。「いいですか、あなたは『人喰い』の娘です。ここを出たら『反吸血鬼法』によって拘束されてもおかしくありません。あなたが安全な生活を確保できているのは、ダンブルドア校長が保障してくださっているからなのですよ!」

 

 カティアは歯ぎしりした。

 マクゴナガルの言うことは概ね正論だ。魔法省は未だにカティアを殺したがっているし、マクゴナガルが本気で自分の身を案じていることも分かってはいた。

 

「……別の方法で安全な生活を組み上げる方法を探しますので、どうかお気になさらず」

 

 しかし実のところ、カティアはダンブルドアから離れる事をまったく考えていなかったわけでもない。

 昨年にクィレルの正体を知ったときから、ダンブルドアの庇護は必ずしも『それしかない』というものでは無くなったのだ。

 

 入学時と違い、今は『例のあの人』が完全には死んでいないと判明しているのが大きい。

 つまり、『例のあの人』を復活させて闇の陣営の中で立ち位置を確保するという生き方だって、それなりに現実的な選択肢として存在しているのだ。

 

 もちろん、カティアだって『あの人』は恐ろしい。

 闇への接近は基本的に片道切符だ。進めば元の道には戻れない。カティアはその過程で相当な代償を払うことになるだろうし、ハリーたちと決別して完全な敵同士になってしまうのは想像するだけで胸が苦しい。

 

 しかし、善悪も好悪も無視して冷徹に計算すれば、『あの人』に付き従う道だって立派な生存の道ではあるのだ。

 高齢のアルバス・ダンブルドアはいつか寿命で死ぬため、後ろ盾がなければ生活もままならない身分のカティアはいつかは鞍替えしなければならない。そうでもしないと破滅してしまうのだ。

 今はこの理不尽な事件をきっかけに、予定を前倒しして『例のあの人』の陣営に合流する生き方へ切り替えることを検討するべき場面だ。

 

 カティアは無言で踵を返して部屋から出ようとしたが、今度はフィルチが立ち塞がった。

 

「待てアシュリー!」

「今度はなんです?」

 

 フィルチは机の上の猫を指さした。

 

「ここを出て行く前に、おまえが殺したわしの猫を返せ!」

 

「……本当にあなたを愛猫の元に送り届けてあげましょうか?」

 

 カティアは、いよいよ自分の衝動を抑えるモチベーションを失いつつあった。

 

「アーガス、猫は死んでおらんよ」

 

 ダンブルドアがようやく体を起こし、穏やかに言った。

 カティアは仰天してミセス・ノリスを見た。四本の足を天に向けて机の上に横たわる猫は、とてもじゃないが生きているように見えない。

 

「死んでない?」フィルチが声を詰まらせ、恐る恐る指の間からミセス・ノリスを覗き込んだ。

 

「それじゃ、どうしてこんなに……こんなに固まって、冷たくなって……?」

 

「石になっただけじゃ」ダンブルドアが答えた。「ただし、どうしてそうなったのか、わしには答えられん」

 

「あいつに聞いてくれ!」フィルチはまだらに赤くなった顔でカティアの方を向いた。

 

 心はすでにホグワーツの外へと旅立ちつつあったが、カティアは一応こちらに意識を引き戻す。

 軽く首を振ってダンブルドアの言葉を待ってみた。困ったことに『石にする』というのは客観的に見て自分が得意とする変身術のやり口のため、フィルチや猫への恨みも十分にあるという事情まで含めれば、犯人扱いされるのもやむなしな部分はあった。

 

「これはミス・アシュリーの魔法ではない」

 

 しかし、ダンブルドアはきっぱりと言った。

 

「吸血鬼の扱う魔法は特有の痕跡を残すものじゃ。しかしこの猫にはそれがない。即ち、カティアは犯人ではないとハッキリ分かる」

 

 これが本心からの発言なのかは、かなり疑わしいとカティアは思った。

 フィルチを宥めるための嘘ではないだろうか。どうにも判断に困るところだ。

 

「あいつがやったんだ、あいつだ!」弛んだ顔を真っ赤にして、フィルチは吐き出すように続けた。「壁の文字も読んだでしょう! わしはアシュリーに罰則を課したし、ミセス・ノリスはあいつの犬とずっと仲が悪かった。それにあいつは……あいつはわしがスクイブだということを知っている……!」

 

「一年も通じて魔法を使わずマグル式の掃除をしている姿を見れば、嫌でも推測できると思いますが……」

 

「校長、一言よろしいですかな」スネイプの声がした。

 

「私はもう帰らせてもらっていいですかね」カティアは即座に口を挟んだ。

 

 スネイプが恐ろしい顔で睨みつけてくる。

 しかし事態がここまで拗れてしまうと、もはや先生の権威を気にする理由がない。カティアの頭の中はこの学校を出て行くことでいっぱいだった。

 

「……『手紙』の件があります」

 

 カティアを無視し、スネイプが低く抑えた声で続けた。

 

「アシュリーから目を離すのは少々危険かと。しばらくの間、この学校のどこかに――」

 

「いい加減になさい、セブルス! まさか生徒を閉じ込めるつもりですか!」

 

 今度はマクゴナガルが勢いよく立ち上がった。

 長身の彼女が怒りを露わにしただけで部屋の空気が一変する。激しい叱責が部屋中に轟いた。

 

「滅多なことを言うものではありません! 生徒の前で見苦しいにも程があります!」

 

「いったい何を――」

 

「あなたがミス・アシュリーへ呪文を放ったから、彼女も強硬な態度を取るしかなくなったのです。恥を知りなさい!」

 

 さすがのスネイプもこの一喝には鼻白んだようだ。わずかに首を傾けるだけで反論はしない。

 しかし、フィルチはなおも諦めていなかった。目を剥いて金切り声を張り上げる。

 

「わたしの猫が石にされたんだ! 罰を受けさせなけりゃ収まらん!」

 

「疑わしきは罰せずじゃよ、アーガス」

 

 ダンブルドアがきっぱりと言った。

 

「それに猫については元に戻すことができる。スプラウト先生がマンドレイクを育てておるからのう」

 

 そう言って、ダンブルドアはゆっくりとカティアへ向き直った。

 蝋燭の灯を映した青い瞳は不思議なほど穏やかだ。カティアは自分の“閉心術”が機能しているのか自信がなかった。

 

「カティア。残念ながら、君がこの学校を去ることは認められん」

 

「どういう根拠で――」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――」

 

「アルバス!」マクゴナガルの怒声が、今度はダンブルドアに向けられた。

 

 彼女はまるで裏切られたかのような目でダンブルドアを見上げ、怒りに震える声で激しく糾弾する。

 

「そんな……私の生徒に脅すようなことを! あなたは……あなたは、それでも教育者ですか!」

 

 カティアは息を呑み、マクゴナガルを凝視した。

 完全に予想外の展開だ。マクゴナガルがダンブルドアに怒鳴っている。

 

 あまりの衝撃にカティアは自分の怒りを忘れてしまった。

 そして驚いていたのはカティアだけではない。ロックハートはさきほどからずっと部屋の隅で立ち尽くしていたし、スネイプでさえ薄い唇をポカンと開いて怒れるマクゴナガルを呆然と見つめている。

 

「無論、わしは決してそのような真似をしたくない」ダンブルドアは少しも声を荒らげることなく答えた。

 

 とても気まずい沈黙があった。ダンブルドアが酷く疲れたようなため息をついて続ける。

 

「さあ、もう夜も遅い。ミス・アシュリーは寮の寝室に戻りなさい」

 

「…………はい。分かりました。」

 

 カティアは敗北を認めて、机の上の自分の杖をポケットにしまう。

 退学すると啖呵を切っておいてすこし気恥ずかしいが、マクゴナガルにあそこまで言わせてホグワーツを去るのも不義理だと思ったのだ。それに、ダンブルドアには大きな借りがあるのも事実ではある。

 

 カティアは部屋を出て、出来るだけ早足でその場を離れた。

 

 




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