1話から今の20話まで作り直しになります。
第1話 映らない
監視画面の一枚だけが、白かった。
ほかの画面には薄暗い廊下が映っている。壁紙の剥がれた客室。埃の積もった食堂。何列もの本棚が並ぶ書斎の前。
どこにも人はいない。
それなのに、その一枚だけが、白く潰れていた。
俺は机に伏せたまま、しばらくそれを見ていた。
機械の低い唸りが聞こえる。
頬に冷たいものが触れている。木製の机ではなかった。表面の剥げた、金属の操作卓だ。伏せていた腕を動かすと、何本ものつまみが一緒に鳴った。
かち、かち、と。
手が小さい。
細い指に、爪がある。
当たり前のことなのに、何かがおかしかった。
椅子を引こうとして、足元で布が擦れた。立ち上がる。重心が定まらず、腰が机の角にぶつかった。
「っ……」
出た声で、動けなくなった。
高い。
子供ほどではない。けれど、自分の声ではなかった。
喉に手を当てる。
柔らかい髪が肩から落ちた。胸元に触れかけた指を、反射的に引っ込める。
息を吸った。
もう一度、声を出そうとした。
「ここ……」
やはり違う。
誰かの声だった。
椅子の背に掛けられていた布を取る。手鏡かと思ったが、銀色の盆だった。磨かれておらず、表面は曇っている。それでも、近づけば顔くらいは見えた。
知らない女がいた。
ひどく白い顔。
寝起きのように乱れた髪。その隙間から、見覚えのない目がこちらを見返している。
顔を動かす。
女も動いた。
口を開く。
女も開いた。
手から盆が落ちた。
金属音が監視室に響き、画面の中の廊下へ消えていった。
その音が収まらないうちに、扉の向こうで足音が止まった。
「ソマン姉様?」
その名前だけで、記憶がつながった。
扉が少し開く。
最初に見えたのは、白い花だった。
何本かを胸に抱えている。茎にはまだ泥がついていた。
次に、花の向こうから少女の顔が現れた。
白い髪。赤い目。汚れた服。
画面越しに見たものよりもずっと小さく、ひどく生々しかった。
オロホス。
一年前に遊んだゲームの中で、何度も見た少女。
村から来た少年と屋敷を歩き、最後には自分が何者なのかを知って、それでも他人の夢を選んだ。
あの子だけが、当然のように消えた。
「起きてたの?」
オロホスが首を傾ける。
俺は返事をしなかった。
できなかった。
鍵の場所は覚えていない。
どの部屋に何があったかも、順番が曖昧だ。複数の結末を続けて見たせいで、誰がどの場面で何を言ったのかも混ざっている。
それでも、この子の結末だけは覚えている。
消える。
オロホスは、最後に消える。
「ソマン姉様?」
彼女の呼びかけで、もう一つ分かった。
俺はオロホスではない。
ユウでもない。
救いたかった少女の前に、彼女を追い詰める側の身体で立っている。
次女、ソマン。
その名前を理解した瞬間、右手が動いた。
「どこへ行っていた」
低く出そうとして、女の声がわずかに掠れた。
自分で選んだ言葉ではなかった。
考えるより先に口から出た。
オロホスの肩が揺れる。
抱えていた花が一本、床へ落ちた。
「どこにも行ってないよ」
彼女は答えた。
嘘だった。
茎には湿った土がついている。屋敷の中に、こんな新しい土はない。
原作にも、壁の穴があった。
オロホスはそこから外へ出ていた。そのことを訊かれて、否定していた。
覚えている。
たぶん。
いや、あの会話はユウとのものだったかもしれない。
「その花は」
「拾ったの」
「どこで」
「落ちてた」
オロホスは花を抱え直した。
こちらを見ない。
俺は追及しなければならない。
本物のソマンなら、そうする。
この屋敷の命令を守り、外から来るものを拒み、オロホスの行動を監視する。後にユウを襲う人間が、妹の小さな規則違反を見逃すはずがない。
何も変えてはいけない。
変えれば、知っている未来が役に立たなくなる。
下手に優しくすれば、ソマンではないと疑われる。
疑われれば、動けなくなる。
オロホスを助けるどころではなくなる。
「捨てろ」
そう言おうとした。
口が開く。
ところが声より先に、腕が伸びた。
オロホスの手首を掴む。
細い。
少し力を込めただけで、指が一周してしまいそうだった。
オロホスは逃げなかった。
抵抗もしない。
ただ、花を握る力を抜いた。
取り上げられると思っている。
身体の奥から、急に強い苛立ちが湧いた。
俺のものではない。
外へ出たオロホスに対してか。
命令を破ったことに対してか。
それとも――この子が何も言わず、抵抗もしないことに対してか。
分からない。
分からないまま、指だけがさらに締まる。
「痛い」
小さな声だった。
手を離した。
オロホスが手首を押さえる。
赤い跡が残っていた。
「……悪い」
言ってから、まずいと思った。
ソマンは謝るのか。
少なくとも、俺が覚えているソマンは謝らなかった。ユウを子供と呼び、オロホスを押さえつけ、命令に従わせようとしていた。
オロホスが顔を上げる。
「今、何て言ったの?」
「何も言っていない」
「言ったよ」
「聞き違いだ」
「でも――」
「その花を拾え」
声を強めた。
オロホスが黙る。
床に落ちた花へ手を伸ばす。だが、抱えている花が邪魔をして、うまく屈めない。
俺は先に拾ってしまった。
白い花。
名前は分からない。
ゲームの中では、花に意味があった。希望、絶望、病気、欺き、復讐。どれがどれだったか、ほとんど覚えていない。
この花が誰かを救うものなのか。
殺すものなのか。
それさえ分からなかった。
「誰に持っていく」
「……眠れない人」
「誰だ」
「知らない人」
「知らない人間に花を渡すのか」
「苦しそうだから」
オロホスはそれだけ答えた。
俺が遊んだゲームでは、花を受け取った者たちは眠るように死んでいた。
オロホスが何を知っていたのかは、最後まで分からなかった。
殺しているつもりだったのか。
助けているつもりだったのか。
あるいは、その違いさえ教えられていなかったのか。
白い花を握ったまま、俺は動けなかった。
今ここで全部取り上げれば、一人は死なずに済むかもしれない。
けれど、その一人が誰なのかも知らない。
何を変えることになるのかも分からない。
先のことを知っている。
そう思った直後から、知らないことばかりが増えていく。
オロホスが手を差し出した。
「返して」
「これは」
「返して」
今度は、少しだけ強かった。
初めて、彼女がこちらを見た。
ゲームの中で見た立ち絵ではなかった。
何かを選び取ろうとしている人間の目だった。
俺は花を返した。
オロホスが受け取る。
花びらを確かめるように触れ、それから胸の前へ戻した。
「怒らないの?」
「怒っている」
「取り上げないの?」
「今はな」
「どうして?」
答えられなかった。
助けたいから、ではない。
まだ、この花を取り上げていいか分からないだけだ。
それを説明すれば、もっとおかしくなる。
「早く行け」
「うん」
オロホスが扉を開ける。
廊下へ出る直前、足を止めた。
「ソマン姉様」
「何だ」
「今日は、見なかったことにしてくれるの?」
監視画面を見る。
白かった一枚に、うっすら廊下の壁が戻り始めていた。
けれど、扉の前に立っているはずのオロホスは映っていない。
俺自身も。
画面の中では扉だけが勝手に開き、誰もいない廊下へ白い花びらが一枚落ちた。
「早く行け」
それが返事になった。
オロホスは少しだけ笑った。
「ありがとう」
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
監視画面の白さが完全に消えた。
誰もいない廊下。
何も起きていない食堂。
閉ざされた書斎。
画面だけを信じるなら、この屋敷には最初から誰もいなかった。
机の端で、赤いランプが点滅した。
呼出音が鳴る。
一度。
二度。
触れるつもりはなかった。
だが身体が操作を知っていた。指が迷わず、机の隅にある黒い釦を押す。
雑音の後、女の声が流れた。
『ソマン』
落ち着いた声だった。
顔を見なくても分かる。
タブン。
『先ほど、北側の監視映像が途切れました』
視線が白かった画面へ吸い寄せられる。
『何かありましたか?』
答えなければならない。
ソマンとして。
姉妹の一人として。
この屋敷の監視者として。
胸の奥で、知らない感情がざわついていた。
オロホスを追え、と。
命令を破った妹を連れ戻せ、と。
花を取り上げろ、と。
それがソマンの感情なのか、この身体に染みついた役割なのかは分からない。
俺は釦を押したまま、口を開いた。
「異常はない」
自分でも驚くほど、自然な声が出た。
短い沈黙。
『そうですか』
通信が切れる。
赤いランプが消えた。
俺はしばらく、指を釦から離せなかった。
ユウがこの屋敷へ来るまで、あと十四日。
なぜ十四日だと分かるのかは、分からない。
鍵の場所も知らない。
装置の止め方も覚えていない。
どの結末の記憶が正しいのかさえ怪しい。
それでも一つだけ、もう変わった。
その夜。
俺はこの世界で、最初の嘘をついた。