第1話 映らない
目が覚めたとき、最初に見えたのは天井じゃなかった。
青白い画面だった。壁一面。暗い廊下、閉まった扉、誰もいない階段。小さな四角がいくつも並んで、部屋の中まで冷たくしている。
椅子の背から身を起こす。そこで髪が肩に触れた。
息が止まる。喉の奥で咳払いが引っかかった。声を出そうとして、そこでまた止まる。
細い。
耳の近くで鳴ったその声が、自分のものじゃなかった。机に手をつく。袖口が視界に入る。手首が細い。指が長い。爪まで小さい。見慣れない。
正面の画面が少し揺れた。
そこに映っていたのは机と椅子だけだった。
立っているはずの場所が空いている。
一歩ずれる。何もない。
もう一歩。やっぱり映らない。
その瞬間、頭の奥で嫌な音がした気がした。何かが噛み合う音だ。監視室。屋敷。研究施設。姉妹。毒ガス。オロホス。
『オロホスの夢』。
見た。知っている。複数の終わり方まで見たはずだ。なのに、今は何のイベントがどの順番だったか。記憶は曖昧だった。どの情報がどのルートのものか、肝心なところだけ濁っている。鍵。花。書斎。牢。研究所。浮かぶのに、繋がらない。
それでも一つだけはっきりしていた。
俺はオロホスじゃない。
机の端に紙が挟まっていた。引き抜く。乱れた字。最後だけ読める。
――侵入者は排除。
――見失うな。
指先が紙の端を折った。
その時、扉が二回、コンコンと軽く叩かれた。
「ソマン」
体が先に固まる。
誰かを考えるより先に、喉が動いた。
「異常なしだ」
短い。冷たい。自分の声じゃないみたいだった。
向こうで一拍だけ間がある。
「そう」
それだけで足音が離れていった。
椅子に座り直そうとして、やめる。座ってる場合じゃない。机の脇に鍵束が掛かっていた。手が勝手にそれを取る。重さだけで、よく使う鍵が分かる。
気持ち悪い。
知らない。何も。
なのに身体の方だけ知っている。
壁際の棚を見た。雑に突っ込まれた書類。モニターの下の黒い染み。誰かがここで長く座っていた跡だけが残っている。たぶんソマンの席だ。そう思った瞬間、背筋がぞわついた。
ソマン。
口の中で名前だけ転がす。オロホスじゃない。ユウでもない。よりによってこっちか、と思う。
正面の画面の一つに、東棟の廊下が映っていた。その先に、散らかった本と紙と世界地図のある部屋がある。外に出るな、と書かれた紙が残っている部屋。オロホスの部屋。
その名前が浮いた瞬間、胸の奥が妙に引っかかった。
苛立ちじゃない。排除でもない。もっと面倒なものだ。放っておくな、とでも言われたみたいな、そんな感じだけが残る。
俺の感情じゃない。たぶん。これはソマンだ。
それでも、もう座ってはいられなかった。扉へ向かい、鍵を選ぶ。指は迷わない。鏡はないけれど、窓ガラスにぼやけた輪郭だけが映る。肩の線も、首も、立ち方も、もう前の自分じゃない。初対面だと気圧されそうになる、そんな雰囲気がある。
冷えた空気が流れこんでくる。湿った木の匂い。古い布の匂い。掃除されない家の匂い。その中に、どこか花の気配も混ざっている。
その時、ふいに数字が浮かんだ。
十四日。
根拠はない。なのに、その数字だけは嫌なくらいはっきりしていた。誰かが来る。恐らくユウだ。だが、その前に、この家での息の仕方くらい覚えないといけない。
廊下へ出る。板が小さくきしむ。どこを踏めば音が軽くなるのか、足の裏が勝手に選ぶ。階段の手前で一度だけ止まり、東棟の方を見る。見なくても分かるような気がして、それがまた嫌だった。
オロホスは、あっちにいる。
まだ会っていない。なのに、そこにいる感じだけはある。原作の中で見ていた少女じゃない。今のところは、まだ。ただ、放っておくとまずいという感じだけが先にある。
監視室の扉を後ろ手に閉めた。慣れた動作だ。音が思ったより小さい。音を殺す癖まで、この身体に残っている。
十四日。
その間に、ソマンらしい振る舞いを覚える。屋敷の鍵を覚える。姉であるタブンの目を誤魔化す。オロホスが何をしているのかも知る。
やることは多い。知っていることは少ない。
それでも、もう始まっていた。
階段の手前で、右の壁に触れた。ざらついている。爪が引っかかる。ここも前からこうだったのか、さっきから全部が分からない。分からないのに、角をどちらに曲がれば人と鉢合わせしにくいかだけは身体が知っている。
監視室へ戻る道を一度だけ振り返った。青白い光が扉の隙間から漏れている。あそこに座っていれば、安全ではある。少なくとも、動かなければ正体はばれにくい。けれど、それで済む感じがしなかった。
見ているだけで済むなら、原作の最後にあんな引っかかり方はしていない。あの子だけが当たり前みたいに消えるのが嫌だった。その感触だけは、細部が曖昧な今も残っている。
だからたぶん、ここから先で一番まずいのは、間違えることより、座ったまま見送ることだ。それじゃあソマンでしかない。
足を出すたび、床板のきしみが違う。軽い場所と重い場所がある。それを踏み分けられることが、いちいち腹立たしい。まるで最初からここで暮らしていたみたいだ。
それでも戻れない。監視室の椅子に体温が残っていようと、今はあそこが一番遠かった。