食糧庫の画面を開いた時、最初は何が映ったのか分からなかった。
床の端で、小さい影が動いた。灰色。細い尻尾。食べ物の方へ行くでもなく、棚の脚をすり抜けて、壁際を迷いなく進んでいく。
猫だ。
椅子から半分だけ腰を浮かせたところで、その首元が光った。
鍵。
小さい。細い。輪に通されている。たぶん首輪じゃない。紐だ。何かの拍子で拾ったというより、そこへ付いているのが自然な顔をしてぶら下がっている。
思わず画面に近づく。
猫は棚の陰で一度止まり、こちらを見たような気がした。もちろんカメラ越しだ。こっちが見えているはずはない。なのに、妙にこちらの動きの方が読まれている気分になる。
鍵。
そこで、原作の断片が遅れて引っかかった。猫。鈴。交換。奥へ行くための鍵。
立ち上がる。半歩だけ。そこで止まる。
ここで捕まえるべきか。取り上げるべきか。監視役としてなら、たぶんそうする。少なくとも、鍵を持った猫を放置していい理由はない。
けれど、手が鍵束へ伸びる前に、別の方が先に浮いた。今それを取ったら、順番が変わる。
嫌な理屈だった。原作どおりを守りたいわけじゃない。だが、順番が曖昧な自分にとって、まだ残っている導線まで自分で消すのはもっとまずい。
画面を切り替える。階段前。東棟。もう一度、食糧庫。
猫は映らない。ほんの数秒で消えた。
「くそ」
口から漏れる。
椅子を引く音が思ったより大きかった。監視室の静けさがそれで割れて、余計に落ち着かなくなる。猫一匹でこうなるのが嫌だった。鍵一つで、さっきまで整っていた気でいた屋敷の順番が、急に粗く見え始める。
食糧庫へ行く。
扉を開けた時にはもう、猫は棚の上にいた。変色した野菜の箱のさらに上。こちらを見下ろしている。首元の鍵はやはり細く、鈴みたいな金具も一緒に揺れていた。
「……」
言葉がない。
猫は下りてこない。近づくと、棚の端へ移る。逃げるというほど急がない。ただ触れさせない位置だけは知っているみたいだった。
「そこに何がついてる」
聞いても仕方がない。それでも口から出た。
猫は答えない。前足で顔を洗い、それからこちらをじっと見る。鍵が小さく鳴る。
食糧庫の中は相変わらずひどい。腐った野菜。乾き切った皮。瓶の底に残った濁り。古い油。湿った木。そこへ、猫だけがやけに軽い。こんな場所にいながら、こいつだけ別の家の顔をしている。
箱の脇へ回る。猫も同じだけずれる。棚板のきしみ。こっちの足音。鈴の音。どれも小さいのに、無駄に響いた。
「下りろ」
もちろん下りない。
箱の一つへ手をかける。持ち上げれば、逃げ道を塞げるかもしれない。けれど、そこでまた止まる。今ここで必死に追いかけて、もし別のところへ消えたらどうする。鍵だけ外せる保証もない。そもそも、これが本当にあの導線の鍵そのものかも確定していない。
迷っているうちに、後ろで足音がした。
振り向くより先に、空気で分かった。オロホスだ。
「……ソマン姉様」
声が少しだけ硬い。食糧庫へ呼ばれもせず来ること自体が珍しいのかもしれない。いや、猫か。
「何しに来た」
「音したから」
「猫だ」
「見れば、分かる」
言った瞬間、オロホスの足が止まった。そこから一歩も入ってこない。
「……いる」
「いるな」
妙な会話だと思う。だがオロホスは棚の上を見て、少しだけ顔をしかめる。怖い、と言うほどはっきりした顔じゃない。嫌う、でもない。触れたくないものを見る顔だ。
「この屋敷では、飼ってないよ」
「知ってるのか」
「……前からたまにいる」
それは初耳だ。いや、原作知識に照らせば驚くことでもないのかもしれないが、今ここでオロホスの口から聞くと少し違う。たまにいる。屋敷の中へ勝手に出入りしている。そのうえ鍵まで持っている。
「追い払えないのか」
「無理」
「何で」
「近づくと、やだ」
短い。そこで終わる。嫌、の中身は言わない。
「前にも来たのか」
「うん」
「いつ」
「忘れた」
「多いな、それ」
「多いよ」
変なところだけ素直だった。
猫はそんなこちらの会話なんか気にせず、棚の上で丸くなろうとしている。首の鍵がちら、と光る。あれを取るだけなら今でもできそうだった。だが、できそうなことがやるべきこととは限らない。
「触るなよ」
オロホスへ向けて言う。
オロホスはすぐに頷く。
「うん」
「餌もやるな」
「やってない」
「ならいい」
そこで猫が一度だけ鳴いた。細い。オロホスの肩がまた少し上がる。
「舐めるから」
ぽつ、とオロホスが言った。
「何が」
「手」
そこで少し遅れて意味が入る。近づくとやだ、の中身はそれか。
「噛むんじゃなくて」
「……そう。なんか、やだ」
分からなくもない。あの気ままな顔で急に触ってくる感じが、苦手な人間はいる。けれど、それをうまく説明できないのがオロホスらしかった。
「……追い出さないの」
不意にオロホスが聞いた。
「追い出すべきか」
「前のソマン姉様なら、たぶんそうしてた」
またその言い方だ。前のソマン。今のソマン。そっちに基準がある限り、どんなに短く切ってもズレは残る。
「今はいい」
そう言うと、オロホスがこちらを見る。
「何で」
「見失う方が面倒だ」
半分は本当だ。半分は嘘だ。
本当の方は、導線だ。嘘の方は、今ここで壊したくないというだけの話だ。どちらも口には出せない。
猫は食糧庫の棚から軽く飛び下りた。箱の間をすり抜け、壁際の穴の方へ向かう。あそこにも小さい隙間があるらしい。気づいていなかった。いや、身体のどこかは前から知っていたのかもしれないが、意識の方が追いついていなかった。
鍵が揺れる。
見送る。
オロホスは何も言わなかった。ただ、猫が完全に見えなくなってから、小さく息を吐いた。
「……見逃した」
「そうだな」
「何かあるの」
「あるかもしれない」
そこでオロホスは少し黙る。
「やっぱり、最近、変」
慣れてきた言葉だった。慣れてきたのが嫌だった。
棚の前へしゃがむ。猫が飛び降りた場所を探る。毛が一本。古い鈴の欠片。どちらも役には立たなそうだった。壁際の板は黒く擦れている。穴の縁にも新しい傷がある。前から通っていたんだろう。
指先を入れる。狭い。人間の手首どころか、肘も無理だ。腹が立つ。
「ソマン姉様」
「何だ」
「客って、猫も入るの」
そこで、思わず少しだけ笑いそうになった。客じゃないだろ、と言いかけてやめる。この屋敷では、人の方がよほど変な入り方をする。
「入らない」
「じゃあ、何」
「勝手に入ってくるものだ」
オロホスはその答えに妙に納得した顔をした。たぶん、猫の話だけじゃない。
「ソマン姉様も?」
今度はこっちが黙る番だった。
「何が」
「勝手に入ってきたもの」
言い方が軽い。軽いくせに、嫌なところへ刺さる。
「違う」
短く返す。
オロホスはそれ以上聞かなかった。聞かないまま、棚の上の空いた場所を見ている。さっきまで猫がいた高さを。
「猫、また来るかな」
「来るかもしれない」
「じゃあ、見てるの」
「たぶんな」
「ずっと?」
「飽きるまで」
オロホスが少しだけ目を丸くした。
「それ、監視」
「そうだ」
「猫にもするんだ」
「鍵を持ってるならする」
そこはおかしかったらしい。ほんの少しだけ、口元が緩む。笑うほどじゃない。けれど、さっきまでの硬さは薄れていた。
「ソマン姉様」
「何だ」
「その鍵、村の子が使うの」
背中が固くなる。
「どうしてそう思う」
「だって、今の顔」
それだけで十分だった。
この子は名前だけじゃない。顔も拾う。紙も、匂いも、箱の落ち方も、拾う。拾ってしまうから危ない。危ないのに、止め方が分からない。
「気にするな」
「それも、よく言う」
「便利だからな」
「ずるい」
即答だった。
少しだけ驚く。オロホスがこういう言葉を前に出す時は珍しい。言い返し方が他に無かった時の一言だった。
「そうかもな」
返すと、今度はオロホスが少し驚いた顔をした。
食糧庫を出る前に、もう一度だけ穴の方を見る。暗い。風もない。猫もいない。なのに、あそこだけ屋敷の中と繋がり方が違う。人が作った抜け道じゃない。勝手に使われている道の顔だ。
監視室へ戻る。オロホスもついてくる。追い返そうとして、やめた。今追い返しても、たぶん廊下のどこかでまた立ち止まるだけだ。
画面を開く。食糧庫。階段前。東棟。もう一度食糧庫。猫は映らない。鍵も見えない。さっきの出来事が、全部こっちの見間違いだったみたいに静かだ。
「映らない」
オロホスが小さく言う。
「何が」
「さっきの」
そうだった。こいつはこういうところで、急に核心みたいなことを言う。映らない。猫だけじゃない。オロホス自身も、ソマンも、タブンも映らない。監視役の部屋にいるのに、画面に乗るものは半分しかない。
「見えないものが多いな」
口にすると、オロホスは少しだけ考える顔をした。
「でも、いる」
短い。
それで終わる。
その通りだった。見えなくても、いる。だから厄介だ。
オロホスはしばらく画面を見ていたが、やがて東棟の方へ目を向けた。
「戻る」
「勝手に動くなよ」
「猫みたい」
そこで今度こそ、少し笑いそうになる。
「違う」
「うん」
返事は軽かった。けれど部屋を出る前、扉のところで一度だけ振り向く。
「ソマン姉様」
「何だ」
「村の子が来たら、猫の鍵、使うかもね」
そう言って出ていく。
残された監視室が、急に狭く感じた。
机に肘をついたまま、しばらく東棟と食糧庫を交互に開き続ける。取るべきだったかもしれない。見逃してよかったのかもしれない。どっちにしても、今の自分はもう、正解が分からないまま原作の導線を手の中で転がしている。
画面の隅で何かが動くたび、今度は猫じゃないかと指が先に止まる。