オロホスを照らす夢   作:三日月ノア

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猫はどこか一点を見つめている時がありますね。目が合ったときは見透かされている気分がします。犬派の偏見です。



第10話 猫は見ている

食糧庫の画面を開いた時、最初は何が映ったのか分からなかった。

床の端で、小さい影が動いた。灰色。細い尻尾。食べ物の方へ行くでもなく、棚の脚をすり抜けて、壁際を迷いなく進んでいく。

猫だ。

椅子から半分だけ腰を浮かせたところで、その首元が光った。

鍵。

小さい。細い。輪に通されている。たぶん首輪じゃない。紐だ。何かの拍子で拾ったというより、そこへ付いているのが自然な顔をしてぶら下がっている。

思わず画面に近づく。

猫は棚の陰で一度止まり、こちらを見たような気がした。もちろんカメラ越しだ。こっちが見えているはずはない。なのに、妙にこちらの動きの方が読まれている気分になる。

鍵。

そこで、原作の断片が遅れて引っかかった。猫。鈴。交換。奥へ行くための鍵。

立ち上がる。半歩だけ。そこで止まる。

ここで捕まえるべきか。取り上げるべきか。監視役としてなら、たぶんそうする。少なくとも、鍵を持った猫を放置していい理由はない。

けれど、手が鍵束へ伸びる前に、別の方が先に浮いた。今それを取ったら、順番が変わる。

嫌な理屈だった。原作どおりを守りたいわけじゃない。だが、順番が曖昧な自分にとって、まだ残っている導線まで自分で消すのはもっとまずい。

画面を切り替える。階段前。東棟。もう一度、食糧庫。

猫は映らない。ほんの数秒で消えた。

「くそ」

口から漏れる。

椅子を引く音が思ったより大きかった。監視室の静けさがそれで割れて、余計に落ち着かなくなる。猫一匹でこうなるのが嫌だった。鍵一つで、さっきまで整っていた気でいた屋敷の順番が、急に粗く見え始める。

食糧庫へ行く。

扉を開けた時にはもう、猫は棚の上にいた。変色した野菜の箱のさらに上。こちらを見下ろしている。首元の鍵はやはり細く、鈴みたいな金具も一緒に揺れていた。

「……」

言葉がない。

猫は下りてこない。近づくと、棚の端へ移る。逃げるというほど急がない。ただ触れさせない位置だけは知っているみたいだった。

「そこに何がついてる」

聞いても仕方がない。それでも口から出た。

猫は答えない。前足で顔を洗い、それからこちらをじっと見る。鍵が小さく鳴る。

食糧庫の中は相変わらずひどい。腐った野菜。乾き切った皮。瓶の底に残った濁り。古い油。湿った木。そこへ、猫だけがやけに軽い。こんな場所にいながら、こいつだけ別の家の顔をしている。

箱の脇へ回る。猫も同じだけずれる。棚板のきしみ。こっちの足音。鈴の音。どれも小さいのに、無駄に響いた。

「下りろ」

もちろん下りない。

箱の一つへ手をかける。持ち上げれば、逃げ道を塞げるかもしれない。けれど、そこでまた止まる。今ここで必死に追いかけて、もし別のところへ消えたらどうする。鍵だけ外せる保証もない。そもそも、これが本当にあの導線の鍵そのものかも確定していない。

迷っているうちに、後ろで足音がした。

振り向くより先に、空気で分かった。オロホスだ。

「……ソマン姉様」

声が少しだけ硬い。食糧庫へ呼ばれもせず来ること自体が珍しいのかもしれない。いや、猫か。

「何しに来た」

「音したから」

「猫だ」

「見れば、分かる」

言った瞬間、オロホスの足が止まった。そこから一歩も入ってこない。

「……いる」

「いるな」

妙な会話だと思う。だがオロホスは棚の上を見て、少しだけ顔をしかめる。怖い、と言うほどはっきりした顔じゃない。嫌う、でもない。触れたくないものを見る顔だ。

「この屋敷では、飼ってないよ」

「知ってるのか」

「……前からたまにいる」

それは初耳だ。いや、原作知識に照らせば驚くことでもないのかもしれないが、今ここでオロホスの口から聞くと少し違う。たまにいる。屋敷の中へ勝手に出入りしている。そのうえ鍵まで持っている。

「追い払えないのか」

「無理」

「何で」

「近づくと、やだ」

短い。そこで終わる。嫌、の中身は言わない。

「前にも来たのか」

「うん」

「いつ」

「忘れた」

「多いな、それ」

「多いよ」

変なところだけ素直だった。

猫はそんなこちらの会話なんか気にせず、棚の上で丸くなろうとしている。首の鍵がちら、と光る。あれを取るだけなら今でもできそうだった。だが、できそうなことがやるべきこととは限らない。

「触るなよ」

オロホスへ向けて言う。

オロホスはすぐに頷く。

「うん」

「餌もやるな」

「やってない」

「ならいい」

そこで猫が一度だけ鳴いた。細い。オロホスの肩がまた少し上がる。

「舐めるから」

ぽつ、とオロホスが言った。

「何が」

「手」

そこで少し遅れて意味が入る。近づくとやだ、の中身はそれか。

「噛むんじゃなくて」

「……そう。なんか、やだ」

分からなくもない。あの気ままな顔で急に触ってくる感じが、苦手な人間はいる。けれど、それをうまく説明できないのがオロホスらしかった。

「……追い出さないの」

不意にオロホスが聞いた。

「追い出すべきか」

「前のソマン姉様なら、たぶんそうしてた」

またその言い方だ。前のソマン。今のソマン。そっちに基準がある限り、どんなに短く切ってもズレは残る。

「今はいい」

そう言うと、オロホスがこちらを見る。

「何で」

「見失う方が面倒だ」

半分は本当だ。半分は嘘だ。

本当の方は、導線だ。嘘の方は、今ここで壊したくないというだけの話だ。どちらも口には出せない。

猫は食糧庫の棚から軽く飛び下りた。箱の間をすり抜け、壁際の穴の方へ向かう。あそこにも小さい隙間があるらしい。気づいていなかった。いや、身体のどこかは前から知っていたのかもしれないが、意識の方が追いついていなかった。

鍵が揺れる。

見送る。

オロホスは何も言わなかった。ただ、猫が完全に見えなくなってから、小さく息を吐いた。

「……見逃した」

「そうだな」

「何かあるの」

「あるかもしれない」

そこでオロホスは少し黙る。

「やっぱり、最近、変」

慣れてきた言葉だった。慣れてきたのが嫌だった。

棚の前へしゃがむ。猫が飛び降りた場所を探る。毛が一本。古い鈴の欠片。どちらも役には立たなそうだった。壁際の板は黒く擦れている。穴の縁にも新しい傷がある。前から通っていたんだろう。

指先を入れる。狭い。人間の手首どころか、肘も無理だ。腹が立つ。

「ソマン姉様」

「何だ」

「客って、猫も入るの」

そこで、思わず少しだけ笑いそうになった。客じゃないだろ、と言いかけてやめる。この屋敷では、人の方がよほど変な入り方をする。

「入らない」

「じゃあ、何」

「勝手に入ってくるものだ」

オロホスはその答えに妙に納得した顔をした。たぶん、猫の話だけじゃない。

「ソマン姉様も?」

今度はこっちが黙る番だった。

「何が」

「勝手に入ってきたもの」

言い方が軽い。軽いくせに、嫌なところへ刺さる。

「違う」

短く返す。

オロホスはそれ以上聞かなかった。聞かないまま、棚の上の空いた場所を見ている。さっきまで猫がいた高さを。

「猫、また来るかな」

「来るかもしれない」

「じゃあ、見てるの」

「たぶんな」

「ずっと?」

「飽きるまで」

オロホスが少しだけ目を丸くした。

「それ、監視」

「そうだ」

「猫にもするんだ」

「鍵を持ってるならする」

そこはおかしかったらしい。ほんの少しだけ、口元が緩む。笑うほどじゃない。けれど、さっきまでの硬さは薄れていた。

「ソマン姉様」

「何だ」

「その鍵、村の子が使うの」

背中が固くなる。

「どうしてそう思う」

「だって、今の顔」

それだけで十分だった。

この子は名前だけじゃない。顔も拾う。紙も、匂いも、箱の落ち方も、拾う。拾ってしまうから危ない。危ないのに、止め方が分からない。

「気にするな」

「それも、よく言う」

「便利だからな」

「ずるい」

即答だった。

少しだけ驚く。オロホスがこういう言葉を前に出す時は珍しい。言い返し方が他に無かった時の一言だった。

「そうかもな」

返すと、今度はオロホスが少し驚いた顔をした。

食糧庫を出る前に、もう一度だけ穴の方を見る。暗い。風もない。猫もいない。なのに、あそこだけ屋敷の中と繋がり方が違う。人が作った抜け道じゃない。勝手に使われている道の顔だ。

監視室へ戻る。オロホスもついてくる。追い返そうとして、やめた。今追い返しても、たぶん廊下のどこかでまた立ち止まるだけだ。

画面を開く。食糧庫。階段前。東棟。もう一度食糧庫。猫は映らない。鍵も見えない。さっきの出来事が、全部こっちの見間違いだったみたいに静かだ。

「映らない」

オロホスが小さく言う。

「何が」

「さっきの」

そうだった。こいつはこういうところで、急に核心みたいなことを言う。映らない。猫だけじゃない。オロホス自身も、ソマンも、タブンも映らない。監視役の部屋にいるのに、画面に乗るものは半分しかない。

「見えないものが多いな」

口にすると、オロホスは少しだけ考える顔をした。

「でも、いる」

短い。

それで終わる。

その通りだった。見えなくても、いる。だから厄介だ。

オロホスはしばらく画面を見ていたが、やがて東棟の方へ目を向けた。

「戻る」

「勝手に動くなよ」

「猫みたい」

そこで今度こそ、少し笑いそうになる。

「違う」

「うん」

返事は軽かった。けれど部屋を出る前、扉のところで一度だけ振り向く。

「ソマン姉様」

「何だ」

「村の子が来たら、猫の鍵、使うかもね」

そう言って出ていく。

残された監視室が、急に狭く感じた。

机に肘をついたまま、しばらく東棟と食糧庫を交互に開き続ける。取るべきだったかもしれない。見逃してよかったのかもしれない。どっちにしても、今の自分はもう、正解が分からないまま原作の導線を手の中で転がしている。

画面の隅で何かが動くたび、今度は猫じゃないかと指が先に止まる。

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