オロホスを照らす夢   作:三日月ノア

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こんな得体も知れない屋敷に行くのは大人でも無理な人は多そうです


第11話 迎える家

 

 

食堂の奥にある戸棚は、見た目の割に中身が多かった。

皿。グラス。銀のフォーク。どれも埃をかぶっている。使われていないように見えるのに、奥の段だけは違った。そこだけ埃の切れ方が浅い。誰かが最近触れたみたいに、指の跡だけが残っている。

皿を一枚ずらす。薄い帳面が挟まっていた。

表紙に何も書いていない。開く。人数、時刻、準備、客室。短い語だけが並ぶ。日付は飛び飛びだ。何年分あるのかも分からない。だが、同じ単語だけが繰り返されていた。紙の端は乾いているのに、よく触られた頁だけ少し柔らかい。

招待客。食卓。客室、東。客室、西。迎え。

迎え。

その言葉だけで、喉の奥が乾く。この屋敷は、閉じた場所である前に、人を招いていた。偶然迷い込む家じゃない。迎える側だった。そう思うと、食堂の長い机も、使われていないグラスも、急に別の顔になる。

机の端に手をつく。木は冷たい。表面は拭かれていないのに、座る側の椅子だけ少し引き癖が残っている。昔は本当にここで人が食べていたんだろう。客も。使用人も。たぶん姉妹も、いまよりは。

「何してるの」

後ろから声が落ちた。

振り向く。オロホスが扉のところに立っている。

「見れば分かる」

「食器」

「帳面だ」

そう言ってしまってから、少しだけ遅れた。見せない方がよかったかもしれない。だが、もう手遅れだ。

オロホスは近づかない。食堂の敷居のところで止まる。長机の方を見ても、奥までは入ってこない。この部屋に慣れていない足の止まり方だった。

「それ、知らない」

「知らないのか」

「うん。食堂、あんまり来ないから」

その返しが妙に軽い。知らないのが不自然だとも思っていない声だ。

この姉妹たちは本当に来ないんだろう。この食堂は、暮らしている家の食卓には見えない。長い。広い。人が多い前提の形だ。

机の上には、まだ置きっぱなしの燭台がいくつもあった。蝋は半端に固まり、垂れた跡だけが残っている。最後に灯が入ったのがいつか、もう誰も気にしていない顔をしていた。

「灯り、つけてたのか」

「前は、たぶん」

「見たのか」

「……少しだけ」

それだけで切れる。覚えているというより、部屋の形に引っかかった記憶だけが残っている言い方だった。

「客って、前から来てたのか」

聞いてみると、オロホスは少しだけ考えた。

「たまに」

「どんな」

「知らない人」

雑だ。けれど、それ以上細かく知らされてこなかったんだろう。

「会ってたのか」

「会う時もある。会わない時もある」

「それで?」

「いなくなる」

そこで止まる。

「いなくなる?」

「うん」

あまりにもあっさりしていて、一瞬意味が遅れた。いなくなる。外へ帰るでもなく、帰したでもなく、それだけ。

「どこへ」

「……知らない」

その答えは、たぶん本当にそうなんだろう。知っていて誤魔化す声じゃない。拾えるところまでしか拾っていない声だ。

帳面をもう一度見る。何人分かの名前らしきものもあるが、ほとんど擦れている。読めるのは数字と準備の語ばかりだ。人数、皿、花、酒。花。

そこにも花が入っているのが嫌だった。

「これ、誰が書いたか分かるか」

「使用人さんじゃない?」

オロホスはすぐに答えた。

「お客さんが来ると、前はそういう人がいたから」

前は。

その言い方が、思っていたより重かった。前はいた。今はいない。けれど食堂も客室も、その前提だけ残っている。

戸棚の下段には、布に包まれたままのナイフとフォークが束になっていた。布は黄ばんでいる。何本かだけ結び目が解けていた。触ると布の端が脆く崩れそうで、そこでやめる。銀の先だけ、まだ鈍く光っていた。

「食堂、入らないのか」

「たまに通る」

「食べる時は」

「部屋」

即答だった。

「毎回?」

「だいたい」

人の少ない家なら、それでも暮らせる。けれど、この食堂はそういう家のために作られていない。椅子の数も、皿の並びも、客室の帳面も、全部が人を受け入れる家の形だ。

「前は、食べてたのか」

「知らない」

「見たことないのか」

「小さい時は、あるかも」

かも、で止まる。

オロホスは壁に掛かった絵を見た。食堂の端に、果物の皿とワイン瓶の絵がある。色はもう少し剥げていたが、それでもこの部屋の中では妙に整っている。

「ここ、変」

ぽつ、と言う。

「今さらだな」

「そうじゃなくて。使ってないのに、迎える形」

少しだけ驚いた。そこまで言うか。本人の言葉としてはまだ粗い。けれど、見えているものは同じだった。

「知ってるのか」

「知らない。でも、そう見える」

帳面のページをめくる。客室、東。客室、西。準備、花、温食、飲物。途中から文字が荒れている頁もあった。誰かが急いで書いたのか、手が震えていたのか、そこまでは分からない。

一箇所だけ、花の欄に丸が付いていた。他より強く。何度もなぞったみたいに。

「花、いつも置いてたのか」

「たぶん」

「何で分かる」

「前、客室にもあったから」

その言い方で、また嫌な方へ繋がりそうになる。客室。花。迎え。行方不明。切る。まだ早い。

「ソマン姉様、何探してるの」

「分からない」

「分からないのに、探してる」

「そうだ」

変な会話だ。けれど、他に言い方がなかった。

オロホスはその答えに、妙に納得した顔をする。

「私も、そういう時ある」

少しだけ言葉を失う。この子は、思っていた以上に似たことをしているのかもしれない。屋敷の中に落ちているものを拾い、意味は分からないまま抱える。違うのは、こちらには原作という曖昧な地図があることだけだ。

「最近、外うるさい」

オロホスが言う。

帳面から顔を上げる。

「何が」

「村の方。人の音」

「客が来ると思うか」

聞くと、オロホスは少し迷ったあと、小さく頷いた。

「来るなら、来ると思う」

「何だその答え」

「だって、来る時は急に来るから」

それは、ひどくこの屋敷らしい。

戸棚の奥から、古いナプキンが一枚落ちた。拾う。端に赤い染みがある。酒か、別の何かか、今は分からない。

「もし来たら、どうする」

「分からない」

「またそれか」

「でも、追い出せって言われると思う」

「思う?」

「いつもそうだったから」

いつも。その積み重ねの上に、ユウが来る。

「迎える家なのに、追い出すのか」

「……そうかも」

「曖昧だな」

「だって、お客さんなのに、入れちゃだめってこともあるし」

その一言で、帳面の文字がまた違って見えた。迎えるために整えられた家。なのに、入れるな、追い出せ、と命じる側もいる。形と命令が食い違っている。その食い違いを、そのまま抱えて家だけが残ったんだろう。

食堂の端には、蓋の閉じたスープ皿がひとつだけ置かれていた。もちろん中身は空だ。けれど位置だけが妙に整っている。誰かが最後にそこへ触れたまま、もう戻らなかったみたいで、気味が悪い。椅子もその皿の前だけ半歩引かれていた。

帳面を閉じる。ここに長くいるのはまずい。食堂は広い分、見つかりやすい。だが置いていく気にもなれない。

「それ、持っていくの」

「預かる」

「返す?」

「分からない」

「ソマン姉様、最近それ多い」

分からない。たしかに増えた。

「お前も多いだろ」

「何が」

「知らない、分からない」

「私は、知らないから」

そこで終わる。

知ろうとしていないんじゃない。知らないままにされている声だ。

食堂を出る。廊下へ戻る。背後の長い机がやけに広く感じた。人の気配がないのに、招くための形だけが残っている。

オロホスもついてくる。食堂の外へ出た途端、少しだけ足が速くなる。あの部屋の中では、身体の置き場がなかったんだろう。

「オロホス」

「何」

「来たら、最初から一人で動くな」

「どうして」

「面倒になる」

「私が?」

「全部がだ」

オロホスは少し黙ったあと、小さくうなずいた。従うでもなく、納得でもなく、とりあえず受け取った時の頷き方だ。

「客、怖い?」

「別に」

「私は、ちょっと分からない」

「何が」

「来た方がいいのか、来ない方がいいのか」

「……考えるな」

「考えないでいられない」

「なら、考えてる顔するな」

「無茶」

少しだけ、口調が早かった。そういう返しをする時、この子はほんの少しだけ年相応に見える。

廊下の角で別れる前、オロホスが後ろを振り返った。食堂の扉は半開きのままだ。中は暗い。長い机の端だけ見える。

「迎える家、なのにね」

さっきの続きを、今さらみたいに言う。

「何が」

「来ると、いなくなる」

それだけだった。

言い終わると、オロホスはそれ以上こっちを見ずに東棟へ戻った。こちらの手の中には帳面だけが残っている。薄いくせに、妙に重い。

監視室へ戻る途中、何度か帳面の端が指に当たる。古い紙は乾いているのに、どこか柔らかい。何度も開かれて、閉じられて、そのたびに誰かが迎える準備をしていたんだろう。

監視室の扉を開ける。青白い画面が並んでいる。食堂も、東棟も、階段前も、何も起きていない顔をしている。

その中に、正面玄関だけがない。

東棟へ入る扉はある。食糧庫の前も映る。階段もある。なのに、外から人が入ってくるはずの場所だけ、最初から監視の外に置かれている。

その欠け方が、今日は妙に目についた。

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