食堂の奥にある戸棚は、見た目の割に中身が多かった。
皿。グラス。銀のフォーク。どれも埃をかぶっている。使われていないように見えるのに、奥の段だけは違った。そこだけ埃の切れ方が浅い。誰かが最近触れたみたいに、指の跡だけが残っている。
皿を一枚ずらす。薄い帳面が挟まっていた。
表紙に何も書いていない。開く。人数、時刻、準備、客室。短い語だけが並ぶ。日付は飛び飛びだ。何年分あるのかも分からない。だが、同じ単語だけが繰り返されていた。紙の端は乾いているのに、よく触られた頁だけ少し柔らかい。
招待客。食卓。客室、東。客室、西。迎え。
迎え。
その言葉だけで、喉の奥が乾く。この屋敷は、閉じた場所である前に、人を招いていた。偶然迷い込む家じゃない。迎える側だった。そう思うと、食堂の長い机も、使われていないグラスも、急に別の顔になる。
机の端に手をつく。木は冷たい。表面は拭かれていないのに、座る側の椅子だけ少し引き癖が残っている。昔は本当にここで人が食べていたんだろう。客も。使用人も。たぶん姉妹も、いまよりは。
「何してるの」
後ろから声が落ちた。
振り向く。オロホスが扉のところに立っている。
「見れば分かる」
「食器」
「帳面だ」
そう言ってしまってから、少しだけ遅れた。見せない方がよかったかもしれない。だが、もう手遅れだ。
オロホスは近づかない。食堂の敷居のところで止まる。長机の方を見ても、奥までは入ってこない。この部屋に慣れていない足の止まり方だった。
「それ、知らない」
「知らないのか」
「うん。食堂、あんまり来ないから」
その返しが妙に軽い。知らないのが不自然だとも思っていない声だ。
この姉妹たちは本当に来ないんだろう。この食堂は、暮らしている家の食卓には見えない。長い。広い。人が多い前提の形だ。
机の上には、まだ置きっぱなしの燭台がいくつもあった。蝋は半端に固まり、垂れた跡だけが残っている。最後に灯が入ったのがいつか、もう誰も気にしていない顔をしていた。
「灯り、つけてたのか」
「前は、たぶん」
「見たのか」
「……少しだけ」
それだけで切れる。覚えているというより、部屋の形に引っかかった記憶だけが残っている言い方だった。
「客って、前から来てたのか」
聞いてみると、オロホスは少しだけ考えた。
「たまに」
「どんな」
「知らない人」
雑だ。けれど、それ以上細かく知らされてこなかったんだろう。
「会ってたのか」
「会う時もある。会わない時もある」
「それで?」
「いなくなる」
そこで止まる。
「いなくなる?」
「うん」
あまりにもあっさりしていて、一瞬意味が遅れた。いなくなる。外へ帰るでもなく、帰したでもなく、それだけ。
「どこへ」
「……知らない」
その答えは、たぶん本当にそうなんだろう。知っていて誤魔化す声じゃない。拾えるところまでしか拾っていない声だ。
帳面をもう一度見る。何人分かの名前らしきものもあるが、ほとんど擦れている。読めるのは数字と準備の語ばかりだ。人数、皿、花、酒。花。
そこにも花が入っているのが嫌だった。
「これ、誰が書いたか分かるか」
「使用人さんじゃない?」
オロホスはすぐに答えた。
「お客さんが来ると、前はそういう人がいたから」
前は。
その言い方が、思っていたより重かった。前はいた。今はいない。けれど食堂も客室も、その前提だけ残っている。
戸棚の下段には、布に包まれたままのナイフとフォークが束になっていた。布は黄ばんでいる。何本かだけ結び目が解けていた。触ると布の端が脆く崩れそうで、そこでやめる。銀の先だけ、まだ鈍く光っていた。
「食堂、入らないのか」
「たまに通る」
「食べる時は」
「部屋」
即答だった。
「毎回?」
「だいたい」
人の少ない家なら、それでも暮らせる。けれど、この食堂はそういう家のために作られていない。椅子の数も、皿の並びも、客室の帳面も、全部が人を受け入れる家の形だ。
「前は、食べてたのか」
「知らない」
「見たことないのか」
「小さい時は、あるかも」
かも、で止まる。
オロホスは壁に掛かった絵を見た。食堂の端に、果物の皿とワイン瓶の絵がある。色はもう少し剥げていたが、それでもこの部屋の中では妙に整っている。
「ここ、変」
ぽつ、と言う。
「今さらだな」
「そうじゃなくて。使ってないのに、迎える形」
少しだけ驚いた。そこまで言うか。本人の言葉としてはまだ粗い。けれど、見えているものは同じだった。
「知ってるのか」
「知らない。でも、そう見える」
帳面のページをめくる。客室、東。客室、西。準備、花、温食、飲物。途中から文字が荒れている頁もあった。誰かが急いで書いたのか、手が震えていたのか、そこまでは分からない。
一箇所だけ、花の欄に丸が付いていた。他より強く。何度もなぞったみたいに。
「花、いつも置いてたのか」
「たぶん」
「何で分かる」
「前、客室にもあったから」
その言い方で、また嫌な方へ繋がりそうになる。客室。花。迎え。行方不明。切る。まだ早い。
「ソマン姉様、何探してるの」
「分からない」
「分からないのに、探してる」
「そうだ」
変な会話だ。けれど、他に言い方がなかった。
オロホスはその答えに、妙に納得した顔をする。
「私も、そういう時ある」
少しだけ言葉を失う。この子は、思っていた以上に似たことをしているのかもしれない。屋敷の中に落ちているものを拾い、意味は分からないまま抱える。違うのは、こちらには原作という曖昧な地図があることだけだ。
「最近、外うるさい」
オロホスが言う。
帳面から顔を上げる。
「何が」
「村の方。人の音」
「客が来ると思うか」
聞くと、オロホスは少し迷ったあと、小さく頷いた。
「来るなら、来ると思う」
「何だその答え」
「だって、来る時は急に来るから」
それは、ひどくこの屋敷らしい。
戸棚の奥から、古いナプキンが一枚落ちた。拾う。端に赤い染みがある。酒か、別の何かか、今は分からない。
「もし来たら、どうする」
「分からない」
「またそれか」
「でも、追い出せって言われると思う」
「思う?」
「いつもそうだったから」
いつも。その積み重ねの上に、ユウが来る。
「迎える家なのに、追い出すのか」
「……そうかも」
「曖昧だな」
「だって、お客さんなのに、入れちゃだめってこともあるし」
その一言で、帳面の文字がまた違って見えた。迎えるために整えられた家。なのに、入れるな、追い出せ、と命じる側もいる。形と命令が食い違っている。その食い違いを、そのまま抱えて家だけが残ったんだろう。
食堂の端には、蓋の閉じたスープ皿がひとつだけ置かれていた。もちろん中身は空だ。けれど位置だけが妙に整っている。誰かが最後にそこへ触れたまま、もう戻らなかったみたいで、気味が悪い。椅子もその皿の前だけ半歩引かれていた。
帳面を閉じる。ここに長くいるのはまずい。食堂は広い分、見つかりやすい。だが置いていく気にもなれない。
「それ、持っていくの」
「預かる」
「返す?」
「分からない」
「ソマン姉様、最近それ多い」
分からない。たしかに増えた。
「お前も多いだろ」
「何が」
「知らない、分からない」
「私は、知らないから」
そこで終わる。
知ろうとしていないんじゃない。知らないままにされている声だ。
食堂を出る。廊下へ戻る。背後の長い机がやけに広く感じた。人の気配がないのに、招くための形だけが残っている。
オロホスもついてくる。食堂の外へ出た途端、少しだけ足が速くなる。あの部屋の中では、身体の置き場がなかったんだろう。
「オロホス」
「何」
「来たら、最初から一人で動くな」
「どうして」
「面倒になる」
「私が?」
「全部がだ」
オロホスは少し黙ったあと、小さくうなずいた。従うでもなく、納得でもなく、とりあえず受け取った時の頷き方だ。
「客、怖い?」
「別に」
「私は、ちょっと分からない」
「何が」
「来た方がいいのか、来ない方がいいのか」
「……考えるな」
「考えないでいられない」
「なら、考えてる顔するな」
「無茶」
少しだけ、口調が早かった。そういう返しをする時、この子はほんの少しだけ年相応に見える。
廊下の角で別れる前、オロホスが後ろを振り返った。食堂の扉は半開きのままだ。中は暗い。長い机の端だけ見える。
「迎える家、なのにね」
さっきの続きを、今さらみたいに言う。
「何が」
「来ると、いなくなる」
それだけだった。
言い終わると、オロホスはそれ以上こっちを見ずに東棟へ戻った。こちらの手の中には帳面だけが残っている。薄いくせに、妙に重い。
監視室へ戻る途中、何度か帳面の端が指に当たる。古い紙は乾いているのに、どこか柔らかい。何度も開かれて、閉じられて、そのたびに誰かが迎える準備をしていたんだろう。
監視室の扉を開ける。青白い画面が並んでいる。食堂も、東棟も、階段前も、何も起きていない顔をしている。
その中に、正面玄関だけがない。
東棟へ入る扉はある。食糧庫の前も映る。階段もある。なのに、外から人が入ってくるはずの場所だけ、最初から監視の外に置かれている。
その欠け方が、今日は妙に目についた。