オロホスを照らす夢   作:三日月ノア

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基本的に世界観が重くて暗いんですよね


第12話 前夜の扉

その夜、屋敷はやけに静かだった。

静か、というより、音を待っている感じだった。階段も、廊下も、食堂も、どこも同じように息をひそめている。監視室の画面を順に開いても、どの場所も薄く青いまま動かない。動かないくせに、落ち着かない。

東棟。階段前。食糧庫。中庭側。

正面玄関の内側は、ここからは映らない。

そこだけが妙に気に障った。

椅子に座り直し、また立つ。何度目か分からない。ソマンなら、こんなふうに座ったり立ったりはしない気がした。監視はもっと長く、静かにやるものだ。けれど今は無理だった。

机の上には昼に回した鍵束が置いたままだ。触るたび、金属が少しだけ鳴る。その音が嫌で、置き方ばかり変わる。画面の青白さも、今夜はやけに目についた。誰も映らない廊下ばかりなのに、全部がこちらを見ているみたいで、息の置き場がない。

何も起きていないようで、何も定まっていない夜だった。食堂で見た帳面も、猫の首の鍵も、昼に落ちた野菜箱も、関係のないもののまま机の上へ並べられない。ひとつずつは小さいのに、今夜はどれも同じ方角を向いている気がした。

扉の外で足音が止まる。今度は誰だと身構える前に、オロホスの声がした。

「ソマン姉様」

開ける。オロホスは何も持っていなかった。花も紙も本もない。手ぶらの方が珍しい。

「何だ」

「眠れない」

「知らない」

「知ってる」

返しが少しだけ早い。それだけで、落ち着いていないのが分かる。

「何でここに来た」

「監視室、明るいから」

「それだけか」

「……音があるから」

言い直した。そっちが本音なんだろう。

オロホスは部屋の中へ入ると、壁の画面を順に見た。東棟。階段前。食糧庫。自分の部屋が映るところでは少しだけ視線が止まり、食糧庫ではもっと長く止まる。外壁の穴が近いからだろう。

「いつも、これ見てるの」

「そうだ」

「疲れそう」

「疲れない」

「うそだ」

短く返されたその一言が、妙に正確だった。

疲れる。少なくとも今は。

オロホスは食糧庫の画面の前で小さく息を吐いた。

「来ると思う」

昨日より声が硬い。予感じゃない。ほとんど確信に近い顔をしていた。

「何が」

「人」

そこで、胸の奥が少しだけ冷たくなる。

「どこからそう思う」

「分からない。でも、来る前って、ちょっと違う」

来る前を知っている口ぶりだ。そうか、と思う。前にもあったんだろう。客が来る夜。使用人が動き、食堂が整い、外の音が少し近づく夜。それをオロホスなりに覚えている。

「前もこうだったのか」

聞くと、オロホスは少し考えた。

「似てる」

「何がだ」

「家の感じが」

家の感じ。そういう言い方しかできないんだろう。けれど、たぶん合っている。

「どう違う」

「物が、ちょっとだけ変なとこにある」

「何だそれ」

「箱とか。紙とか。扉とか。閉まってるのに、前と違う」

昼に落ちた野菜箱が頭をよぎる。猫。鈴。客の帳面。拾った紙。全部が小さい。小さいくせに、今夜はそればかり浮く。

「前も物が動いたのか」

「動いたっていうか……置いてあったとこが違う」

オロホスは画面から目を離さない。

「食堂の蝋燭、前は真っすぐだったのに、急にひとつだけ曲がってたり」

「それも覚えてるのか」

「覚えてるっていうか、変だから」

「他は」

「廊下の紙。昨日までなかったとこに、たまにある。あと、閉まる音がしないのに、扉が閉まってたり」

その言い方に嘘はなかった。大事件の説明じゃなく、本人の中に残っている違和の順番だけを話している声だ。

「先に言え」

「今思い出した」

責められない返しだった。こいつは思い出すのも、いつも遅れてくる。

扉の外で、もう一つ別の足音が止まった。

二人とも見る。今度は叩く前に分かった。タブンだ。

「起きているでしょう」

勝手に入ってこないだけ、まだましなのかもしれない。

「何だ」

「玄関側の確認を。風が変です」

風。それだけ言われて、背中の奥が先に反応する。

扉を開ける。タブンはいつもどおり静かだった。だが視線がオロホスへ一度だけ落ちる。監視室にいること自体を咎めはしない。後で拾うタイプの目だ。

「何かあったのか」

「まだ何も」

「まだ?」

「ええ。まだ、です」

その「まだ」が嫌だった。

「外に人の気配が?」

「断言はしません。ただ、玄関の前だけ空気が動きません」

「風がないだけだろ」

「それにしては、止まり方がきれいすぎます」

待ち伏せのような止まり方だ。そう言えばよかったのに、タブンはそこまでは言わない。

廊下へ出る。オロホスもついてくる。タブンは止めない。止めない方が、今は都合がいいのかもしれない。

玄関へ向かう途中、家の中の音が妙に少ないことに気づく。板のきしみも、風も、遠くの軋みも薄い。屋敷全体が息を浅くしているみたいだった。

長い廊下の壁には、昼間には気づかなかった薄い傷がいくつかあった。誰かが急いで角を曲がった時につけたような擦れだ。ずっと前からそこにあるのに、今夜だけ目につく。絨毯の端も少しだけめくれている。踏まれて戻らなかった形だ。誰もいない家のくせに、さっきまで人が通っていたみたいに見える。

正面の扉に近づく。外は見えない。けれど、向こうに何かある感じだけがした。人影か、灯りか、それともただの気配か、まだ分からない。扉板の向こうだけ、夜の温度が近い。

タブンが扉に触れずに立つ。

「開けますか」

聞かれて、少しだけ言葉が遅れる。

原作ならどうだったか。思い出せない。思い出せないくせに、来る、という感じだけははっきりしている。これが一番厄介だ。

「まだだ」

そう言うと、タブンは少しだけ目を細めた。

「珍しいですね」

「何が」

「あなたが、待つのは」

返しが遅れる前に、オロホスが横から小さく言う。

「開けないの」

その声が、思っていたより近い。怯えているわけでも、待っているわけでもなく、ただ確かめたい声だった。

「今はまだだ」

もう一度そう言う。

「ソマン姉様、前なら開けてた?」

「知らない」

「またそれ」

「黙れ」

切ると、オロホスは少しだけ口を閉じた。けれど引かなかった。扉を見たまま、こっちの返事の薄さも一緒に拾っている顔だった。

その時だった。外で、何か小さい音がした。

鈴みたいな。金属が触れたような。一度だけ。

食糧庫の猫が頭を過る。鍵。鈴。来る前の夜。全部がそこで妙なふうに繋がりかけて、かえって思考が鈍る。

オロホスが扉を見たまま動かない。タブンも同じだった。今この家で、三人とも違う理由で同じ扉を見ている。その感じだけが、ひどく気持ち悪かった。

もう一度、音。今度は少し強い。

叩かれたのか。触れただけなのか。判断する前に、オロホスの肩が小さく上がる。

「……来た」

小さい声だった。

誰もすぐには動かなかった。けれど、その一言で十分だった。前夜は終わった。ここから先はもう、来る前の話じゃない。

扉の向こうに立っているのが、本当にユウかどうかはまだ分からない。なのに、名前だけは喉の奥に引っかかっていた。

また音がする。今度はもっと近い。扉の木に、爪か指先が触れたみたいな音だ。叩く、というより、あるかどうか確かめている手つきに聞こえる。

オロホスの唇が少し開く。

「……来る時、こういう感じ」

小さく、そう言う。

予感というより、思い出している声だった。前にも客が来た夜があったんだろう。この家が静かになる夜。外の音が少しだけ近づく夜。オロホスが知っているのは、そこまでだ。

タブンは扉の前で動かない。

「風、ではなさそうですね」

それだけ言う。相手が誰かまでは決めていない声だ。決める前に、扉がどう動くかを見ている。

こっちだけが、妙に喉の奥で名前を持っていた。

ユウ。

理由は曖昧だ。曖昧なのに、その名前だけは先に浮く。こういうところが一番厄介だと思う。原作知識が当たりになる時も外れになる時も、最初はいつもこの感じで始まる。

「ソマン姉様」

オロホスが呼ぶ。

「何だ」

「お客さん、来たら……追い出す?」

前にも聞かれた問いだった。けれど今夜のそれは、昼間より少しだけ重い。もう仮定じゃないからだ。

「侵入者なら、そうだ」

言いながら、自分でもひどく薄い答えだと思う。オロホスは頷かない。ただ扉を見る。こっちの答えを信じた顔でも、疑った顔でもなかった。受け取ったまま、どこかに置いている顔だった。

「タブン姉様も?」

「当然です」

答えたのはタブンだった。柔らかい。けれど隙がない。

「私達は、そういう家の者ですから」

そういう家。迎える形をして、追い返す命令を持つ家だ。食堂の帳面がそこでまた頭に戻る。迎え。客室。花。消える。

音がまたする。今度は木に体を預けたみたいに、少し長い。

オロホスが一歩だけ前へ出る。反射で腕を掴みかけて、やめる。まだ触るほどじゃない。まだ。

「……寒いのかな」

ぽつ、とオロホスが言った。

「分からない」

「分からないけど、外、寒いから」

そういう方へ先に考えるのが、この子だ。誰か来る。何者か分からない。危険かもしれない。それより先に、寒いのかな、が出る。

「今は考えるな」

「でも」

「考えるな」

二度目でやっと黙る。

黙ったあと、オロホスはほんの少しだけこちらを見た。怒られた顔じゃない。止められた、のでもない。そこで考えるなと言われたことを、別の意味で受け取った顔だった。見ないようにした。

タブンが静かに言う。

「開けるなら、私が先に出ます」

「勝手に決めるな」

「では、あなたが?」

「私が鍵を回す」

「そうですか」

短いやり取りなのに、妙に骨が当たる。タブンは少しだけ口元を緩めた。譲ったんじゃない。どう動くか見ている顔だ。

扉の向こうの気配はまだそこにいる。去るでもなく、叩き続けるでもない。ただ待っている。それが余計に嫌だった。風ならもう消えている。獣ならもっと落ち着きがない。人だ。たぶん。

鍵束が掌の中で冷たい。開ける側にいる。それだけが、いやに重かった。

三人とも、扉を見たまま動かない。少しだけずつ立つ場所が違う。タブンは開けた後に動ける位置。オロホスは正面には立たず、少し外して。こちらは鍵へ手が届く位置。そういう小さい違いまで、今夜はやけに見えた。

その沈黙の中で、また一度だけ、細い金属音が鳴る。

前夜は終わった。

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