その夜、屋敷はやけに静かだった。
静か、というより、音を待っている感じだった。階段も、廊下も、食堂も、どこも同じように息をひそめている。監視室の画面を順に開いても、どの場所も薄く青いまま動かない。動かないくせに、落ち着かない。
東棟。階段前。食糧庫。中庭側。
正面玄関の内側は、ここからは映らない。
そこだけが妙に気に障った。
椅子に座り直し、また立つ。何度目か分からない。ソマンなら、こんなふうに座ったり立ったりはしない気がした。監視はもっと長く、静かにやるものだ。けれど今は無理だった。
机の上には昼に回した鍵束が置いたままだ。触るたび、金属が少しだけ鳴る。その音が嫌で、置き方ばかり変わる。画面の青白さも、今夜はやけに目についた。誰も映らない廊下ばかりなのに、全部がこちらを見ているみたいで、息の置き場がない。
何も起きていないようで、何も定まっていない夜だった。食堂で見た帳面も、猫の首の鍵も、昼に落ちた野菜箱も、関係のないもののまま机の上へ並べられない。ひとつずつは小さいのに、今夜はどれも同じ方角を向いている気がした。
扉の外で足音が止まる。今度は誰だと身構える前に、オロホスの声がした。
「ソマン姉様」
開ける。オロホスは何も持っていなかった。花も紙も本もない。手ぶらの方が珍しい。
「何だ」
「眠れない」
「知らない」
「知ってる」
返しが少しだけ早い。それだけで、落ち着いていないのが分かる。
「何でここに来た」
「監視室、明るいから」
「それだけか」
「……音があるから」
言い直した。そっちが本音なんだろう。
オロホスは部屋の中へ入ると、壁の画面を順に見た。東棟。階段前。食糧庫。自分の部屋が映るところでは少しだけ視線が止まり、食糧庫ではもっと長く止まる。外壁の穴が近いからだろう。
「いつも、これ見てるの」
「そうだ」
「疲れそう」
「疲れない」
「うそだ」
短く返されたその一言が、妙に正確だった。
疲れる。少なくとも今は。
オロホスは食糧庫の画面の前で小さく息を吐いた。
「来ると思う」
昨日より声が硬い。予感じゃない。ほとんど確信に近い顔をしていた。
「何が」
「人」
そこで、胸の奥が少しだけ冷たくなる。
「どこからそう思う」
「分からない。でも、来る前って、ちょっと違う」
来る前を知っている口ぶりだ。そうか、と思う。前にもあったんだろう。客が来る夜。使用人が動き、食堂が整い、外の音が少し近づく夜。それをオロホスなりに覚えている。
「前もこうだったのか」
聞くと、オロホスは少し考えた。
「似てる」
「何がだ」
「家の感じが」
家の感じ。そういう言い方しかできないんだろう。けれど、たぶん合っている。
「どう違う」
「物が、ちょっとだけ変なとこにある」
「何だそれ」
「箱とか。紙とか。扉とか。閉まってるのに、前と違う」
昼に落ちた野菜箱が頭をよぎる。猫。鈴。客の帳面。拾った紙。全部が小さい。小さいくせに、今夜はそればかり浮く。
「前も物が動いたのか」
「動いたっていうか……置いてあったとこが違う」
オロホスは画面から目を離さない。
「食堂の蝋燭、前は真っすぐだったのに、急にひとつだけ曲がってたり」
「それも覚えてるのか」
「覚えてるっていうか、変だから」
「他は」
「廊下の紙。昨日までなかったとこに、たまにある。あと、閉まる音がしないのに、扉が閉まってたり」
その言い方に嘘はなかった。大事件の説明じゃなく、本人の中に残っている違和の順番だけを話している声だ。
「先に言え」
「今思い出した」
責められない返しだった。こいつは思い出すのも、いつも遅れてくる。
扉の外で、もう一つ別の足音が止まった。
二人とも見る。今度は叩く前に分かった。タブンだ。
「起きているでしょう」
勝手に入ってこないだけ、まだましなのかもしれない。
「何だ」
「玄関側の確認を。風が変です」
風。それだけ言われて、背中の奥が先に反応する。
扉を開ける。タブンはいつもどおり静かだった。だが視線がオロホスへ一度だけ落ちる。監視室にいること自体を咎めはしない。後で拾うタイプの目だ。
「何かあったのか」
「まだ何も」
「まだ?」
「ええ。まだ、です」
その「まだ」が嫌だった。
「外に人の気配が?」
「断言はしません。ただ、玄関の前だけ空気が動きません」
「風がないだけだろ」
「それにしては、止まり方がきれいすぎます」
待ち伏せのような止まり方だ。そう言えばよかったのに、タブンはそこまでは言わない。
廊下へ出る。オロホスもついてくる。タブンは止めない。止めない方が、今は都合がいいのかもしれない。
玄関へ向かう途中、家の中の音が妙に少ないことに気づく。板のきしみも、風も、遠くの軋みも薄い。屋敷全体が息を浅くしているみたいだった。
長い廊下の壁には、昼間には気づかなかった薄い傷がいくつかあった。誰かが急いで角を曲がった時につけたような擦れだ。ずっと前からそこにあるのに、今夜だけ目につく。絨毯の端も少しだけめくれている。踏まれて戻らなかった形だ。誰もいない家のくせに、さっきまで人が通っていたみたいに見える。
正面の扉に近づく。外は見えない。けれど、向こうに何かある感じだけがした。人影か、灯りか、それともただの気配か、まだ分からない。扉板の向こうだけ、夜の温度が近い。
タブンが扉に触れずに立つ。
「開けますか」
聞かれて、少しだけ言葉が遅れる。
原作ならどうだったか。思い出せない。思い出せないくせに、来る、という感じだけははっきりしている。これが一番厄介だ。
「まだだ」
そう言うと、タブンは少しだけ目を細めた。
「珍しいですね」
「何が」
「あなたが、待つのは」
返しが遅れる前に、オロホスが横から小さく言う。
「開けないの」
その声が、思っていたより近い。怯えているわけでも、待っているわけでもなく、ただ確かめたい声だった。
「今はまだだ」
もう一度そう言う。
「ソマン姉様、前なら開けてた?」
「知らない」
「またそれ」
「黙れ」
切ると、オロホスは少しだけ口を閉じた。けれど引かなかった。扉を見たまま、こっちの返事の薄さも一緒に拾っている顔だった。
その時だった。外で、何か小さい音がした。
鈴みたいな。金属が触れたような。一度だけ。
食糧庫の猫が頭を過る。鍵。鈴。来る前の夜。全部がそこで妙なふうに繋がりかけて、かえって思考が鈍る。
オロホスが扉を見たまま動かない。タブンも同じだった。今この家で、三人とも違う理由で同じ扉を見ている。その感じだけが、ひどく気持ち悪かった。
もう一度、音。今度は少し強い。
叩かれたのか。触れただけなのか。判断する前に、オロホスの肩が小さく上がる。
「……来た」
小さい声だった。
誰もすぐには動かなかった。けれど、その一言で十分だった。前夜は終わった。ここから先はもう、来る前の話じゃない。
扉の向こうに立っているのが、本当にユウかどうかはまだ分からない。なのに、名前だけは喉の奥に引っかかっていた。
また音がする。今度はもっと近い。扉の木に、爪か指先が触れたみたいな音だ。叩く、というより、あるかどうか確かめている手つきに聞こえる。
オロホスの唇が少し開く。
「……来る時、こういう感じ」
小さく、そう言う。
予感というより、思い出している声だった。前にも客が来た夜があったんだろう。この家が静かになる夜。外の音が少しだけ近づく夜。オロホスが知っているのは、そこまでだ。
タブンは扉の前で動かない。
「風、ではなさそうですね」
それだけ言う。相手が誰かまでは決めていない声だ。決める前に、扉がどう動くかを見ている。
こっちだけが、妙に喉の奥で名前を持っていた。
ユウ。
理由は曖昧だ。曖昧なのに、その名前だけは先に浮く。こういうところが一番厄介だと思う。原作知識が当たりになる時も外れになる時も、最初はいつもこの感じで始まる。
「ソマン姉様」
オロホスが呼ぶ。
「何だ」
「お客さん、来たら……追い出す?」
前にも聞かれた問いだった。けれど今夜のそれは、昼間より少しだけ重い。もう仮定じゃないからだ。
「侵入者なら、そうだ」
言いながら、自分でもひどく薄い答えだと思う。オロホスは頷かない。ただ扉を見る。こっちの答えを信じた顔でも、疑った顔でもなかった。受け取ったまま、どこかに置いている顔だった。
「タブン姉様も?」
「当然です」
答えたのはタブンだった。柔らかい。けれど隙がない。
「私達は、そういう家の者ですから」
そういう家。迎える形をして、追い返す命令を持つ家だ。食堂の帳面がそこでまた頭に戻る。迎え。客室。花。消える。
音がまたする。今度は木に体を預けたみたいに、少し長い。
オロホスが一歩だけ前へ出る。反射で腕を掴みかけて、やめる。まだ触るほどじゃない。まだ。
「……寒いのかな」
ぽつ、とオロホスが言った。
「分からない」
「分からないけど、外、寒いから」
そういう方へ先に考えるのが、この子だ。誰か来る。何者か分からない。危険かもしれない。それより先に、寒いのかな、が出る。
「今は考えるな」
「でも」
「考えるな」
二度目でやっと黙る。
黙ったあと、オロホスはほんの少しだけこちらを見た。怒られた顔じゃない。止められた、のでもない。そこで考えるなと言われたことを、別の意味で受け取った顔だった。見ないようにした。
タブンが静かに言う。
「開けるなら、私が先に出ます」
「勝手に決めるな」
「では、あなたが?」
「私が鍵を回す」
「そうですか」
短いやり取りなのに、妙に骨が当たる。タブンは少しだけ口元を緩めた。譲ったんじゃない。どう動くか見ている顔だ。
扉の向こうの気配はまだそこにいる。去るでもなく、叩き続けるでもない。ただ待っている。それが余計に嫌だった。風ならもう消えている。獣ならもっと落ち着きがない。人だ。たぶん。
鍵束が掌の中で冷たい。開ける側にいる。それだけが、いやに重かった。
三人とも、扉を見たまま動かない。少しだけずつ立つ場所が違う。タブンは開けた後に動ける位置。オロホスは正面には立たず、少し外して。こちらは鍵へ手が届く位置。そういう小さい違いまで、今夜はやけに見えた。
その沈黙の中で、また一度だけ、細い金属音が鳴る。
前夜は終わった。