第13話 来訪
置いていたはずの夜が、そのまま朝まで残っていた。
屋敷の空気が薄い。誰も大きな音を立てない。監視室の画面を順に開いても、どこも静かすぎる。静かすぎて、全部が少し遅れているみたいだった。
正面玄関の内側は映らない。
そこだけが、ずっと気に障っている。
壁際に立ったまま、何度目かも分からない確認をする。東棟。食糧庫。階段前。中庭側。正面だけがない。
扉の向こうで、木が鳴った。
今度ははっきり、誰かが触れた音だった。考えるより先に、鍵束を掴む。
廊下へ出る。角を曲がると、オロホスがもう玄関近くの壁際に立っていた。昨日と同じで、眠れていない顔をしている。でも、こっちを見てすぐには名前を言わない。
「……来た、かも」
かも。
そこに、オロホスの認識の限界がそのまま出ていた。来るのは知っている。でも、それが誰かまではまだない。
タブンは扉の正面に立っていなかった。半歩ずらして、開けたあと中まで見える位置にいる。
「開けますか」
声は柔らかい。けれど、今の問いに本当の選択肢はない。
「開ける」
そう答えた時、こっちだけがはっきり思っていた。
ユウだ。
根拠はまた曖昧だった。でも、ここでその名前が浮くのはもう止められない。
鍵を差す。回す。扉が重い。湿気を吸っているのか、ただ古いのか。取っ手を押し下げた瞬間、冷えた外気が流れこんできた。
少年が立っていた。
思っていたより小さい。いや、年相応なのかもしれない。ただ、知っていた「あの少年」より、現実の方が細かった。肩に村の埃をつけたまま、少しだけ息を切らしている。迷いながらここまで来た顔だ。
ユウ。
喉の奥が少しだけ詰まる。名前を呼ぶより先に、向こうがこちらを見た。
「……あの」
最初の声は、思っていたより普通だった。もっと決意だけで立っているのかと思っていた。違う。怖いのも、迷っているのも、ちゃんとある。そのうえで帰らないと決めて来ている顔だ。
「何の用だ」
口が先に動く。
冷たく言う。ソマンならたぶんそうする。少なくとも、最初は。
ユウは一瞬だけ言葉に詰まり、それでも引かなかった。
「村で、変な病気が流行ってて」
そこで息を吸う。
「この屋敷のことを、聞いて」
まっすぐだ。まっすぐなのに、うまく整理できていない。言いたいことが多すぎて、そのまま出している。
「だから来たのか」
「はい」
「帰れ」
短く切る。
オロホスが、横で少しだけ肩を揺らした。ユウはこっちを見る。怯えたというより、思ったより露骨に拒まれて面食らった顔だ。
「でも」
「帰れ」
もう一度言う。言いながら、内側では別のものが引っかかっている。ここで本気で追い返せるなら、こんなに面倒じゃない。けれど追い返せば終わるわけでもない。原作知識がそこだけ邪魔をする。
ユウはそこで完全には引かなかった。
「少しだけでも、話を」
「駄目だ」
言い切る。
その時、オロホスが横から小さく言った。
「……中で話せば」
一瞬、空気が止まる。
ユウがそっちを見る。タブンも見る。こちらも、見るしかなかった。
オロホスは言ってから、自分でも少し驚いた顔をした。けれど引っ込めない。
「外、寒いし」
言い足したその理由は、たぶん半分しか本当じゃない。
タブンが先に口を開いた。
「オロホス」
たったそれだけなのに、止める声だった。
だがオロホスは完全には引かなかった。扉の方を見たまま、少しだけ言葉を探す。
「……少しなら」
そこで、こっちが動かないとまずいと分かった。ユウを入れるか、ここで完全に切るか。どちらかを選ばないと、空気だけが長引く。
「客室へ」
口から出たのは、その言葉だった。
ユウが少し目を見開く。タブンは何も言わない。ただ視線だけが、こちらに長く残る。オロホスは、そこで少しだけ息を吐いた。
決めてしまった、と思う。
ユウが敷居をまたぐ。その瞬間、外の風と一緒に、村の匂いまで屋敷に入ってきた気がした。土と、朝の冷えと、人が住んでいる場所の湿りだ。屋敷の匂いとは違う。木と布と閉じた空気の中に、それが一気に混ざる。
廊下を歩き出す。順番は、タブン、ユウ、少し後ろにオロホス、最後にこちら。そう並んだのは偶然じゃない。タブンは前で道を押さえる。こちらは後ろから逃がさない位置。オロホスだけが、そのどちらにもきれいに収まっていない。
廊下の天井は高くない。燭台が並んでいるが、朝は火が入っていない。窓から薄い光が入って、壁の色だけが横に伸びていた。ユウは歩きながら扉の一つに目を止めた。止めたまま通り過ぎる。触れない。指先を出しかけて、引っ込めた。こういう家に初めて入った顔じゃない。どこが出口で、どこが行き止まりかを、歩きながら確かめている。外を長く生きている子の目だ。
「この家、誰か住んでるんですか」
歩きながら、ユウが聞いた。
「見れば分かるだろ」
先に切る。だがユウは黙らない。
「見ても、分からないです。人が住んでる感じも、住んでない感じもするから」
その言い方で少しだけ足が止まりかける。外から来た人間には、やっぱりそう見えるのか。住んでいる痕跡はある。けれど生活の連なりがない。そこを一言で言われると嫌だった。
「お前に関係ない」
「あります。病気の原因、ここかもしれないし」
「決めつけるな」
「決めつけてないです」
返しが早い。ユウはタブンみたいに柔らかく詰めない。そのまま口に出す。だから話しづらい。
オロホスが途中で小さく言った。
「足元、そこ、板ずれる」
ユウが反射で止まる。廊下の端の板が少し浮いていた。踏めば抜けるほどじゃないが、嫌な音が出そうだ。
「……ありがとう」
ユウが振り向きかける。オロホスはすぐに目を逸らした。助けたつもりで助けている顔じゃない。ただ気づいたから言っただけの顔だ。
そのやり取りを横で見ているのが妙に落ち着かない。早い、と思う。まだ早い。けれど、ここで止めると不自然になる。
「客室は東だ」
先に言う。
「そこで話す。勝手に歩くな。扉も、窓も、開けるな」
「そんなに危ないんですか」
「そう思うなら帰れ」
また同じ返しになる。自分でも雑だと分かる。けれど、今はその雑さの方がソマンらしい。
客室の前で止まる。扉の取っ手は冷たい。昔から何人も通した扉なのに、今は人を入れる家の顔をしていない。
ユウは扉の前で少しだけ黙った。中へ入る前に、廊下を一度だけ見回す。逃げ道を見るような目じゃない。この家を一瞬で覚えようとしている目だ。子供だと思っていたより、ずっと外を生きている。
「何だ」
「……いや」
それだけ言って、客室へ入る。
中は薄暗い。寝台。小さな机。棚。昨夜のうちに誰かが最低限だけ整えた跡がある。埃を払ったというより、見えるところだけ動かしたみたいな整え方だ。
ユウは中へ入ってすぐ、少しだけ立ち止まった。
「……暗い」
口に出たのは、それだった。窓はある。だが外が白く曇っていて、光がほとんど入ってこない。ユウは寝台の方を見て、次に棚を見て、それから窓際まで一歩だけ寄ってまた戻った。落ち着ける場所を探しているようだったが、どこで止まればいいか決めきれていない。
「帰るなら今だ」
そう返すと、ユウは少しだけ唇を引いた。
「帰りません」
「言い切るな」
「だって、ここまで来たし」
子供っぽい。けれど、その子供っぽさが引っかかる。勢いだけじゃない。ここで引く方が怖いと決めて来た顔だ。
タブンが扉を閉める。音は小さい。だが、その小ささが逆に重かった。閉まった瞬間、外との距離が一気に遠くなる。ユウもそれを感じたのか、ほんの少しだけ振り返った。
「こちらへ」
タブンが先に言う。
客人を通す声だ。なのに歓迎の温度がない。道だけ示して、あとはその先でどうなるか知っている声だった。
ユウは机の椅子へ促されると、少し迷ってから座った。座ったが、背をつけない。こちらを見ながら、部屋の形を同時に確かめている。椅子に座る人間の目じゃない。いつでも立てる人間の目だ。
「水を持ってきますか」
タブンが言う。
「ああ」
短く返すと、タブンは一礼だけして廊下の方へ下がった。視線の残し方が嫌だった。任せるふりをして、拾うところは全部拾っていく目だ。
残ったのは、ユウとオロホスと、こちら。それが想像よりずっと早く来た形で、少しだけ息が詰まる。
ユウは机の端に両手を置いて、こちらを見た。訊きたいことが列になっているのが分かる顔だった。病気のこと。屋敷のこと。さっき廊下で何かを言ったあの子のこと。並んでいるのにまだ順番が付いていない。
「ここで話せるんですか」
「あとだ」
「どのくらい」
「聞くな」
ユウは少しだけ唇を噛んだ。飲み込めるだけ、思っていたよりましだ。
オロホスは客室の中へ完全には入らない。敷居のところに立ったまま、部屋を見ている。ユウを見ているのか、部屋を見ているのか、その両方か、分からない。部屋に人が入っている、という事実を、今やっと実感している顔だった。
ユウが先にオロホスを見る。
「……さっきは、ありがとう」
オロホスはすぐには答えない。寝台の端を見て、それから小さく首を振る。
「別に」
「でも、外、寒いって言ってくれたし」
「寒かったから」
「それでも」
そこで切る。これ以上続けると、少し早い。
「話はあとだ」
「……はい」
ユウはまだ何か言いたそうだったが、飲み込んだ。
「オロホス」
呼ぶと、少しだけ肩が動く。
「何」
「戻れ」
「……うん」
返事はした。けれど、すぐには動かない。ユウの方を一度だけ見て、それからやっと廊下へ出る。
自分も外へ出る。扉を閉める前、ユウがこっちを見た。訊きたいことが多すぎる顔だった。病気のこと。屋敷のこと。オロホスのこと。たぶん全部。
扉を閉める。
音は小さい。だが、それで一線引いた感じだけはあった。
廊下には、オロホスがまだ少し先で立っている。タブンは水を取りに行ったのか見えない。けれど、いない気がしない。この家では、見えない方が近いことがある。
「ソマン姉様」
オロホスが小さく呼ぶ。
「何だ」
「来たね」
そうだな、と返すだけで精一杯だった。
来た。ユウが。村の子が。そしてもう、入れてしまった。
扉一枚向こうで、村の匂いがまだ薄く残っている。屋敷の中へ来るべきじゃないものが入った、という感じと、ようやくここまで来た、という感じが、うまく分かれなかった。
廊下の窓は白く曇っていて、朝なのに外が見えにくい。けれど、それでももう昨夜とは違う。来る前の静けさは終わった。ここから先は、追い返すだけでは済まない。
客室の扉の向こうから、微かな衣擦れがした。ユウがまだ立っているんだろう。座るかどうかも決めきれないまま。
オロホスはその音の方を見ていた。自分の部屋じゃない。客の部屋。そこへ人が入っている。その事実を、たぶん今やっと実感している。
「戻れって言った」
もう一度言うと、今度は小さく頷いた。
「……うん」
オロホスが去ったあとも、しばらくその場から動けなかった。
扉一枚向こうにいるのは、たぶん原作の主人公だ。知っているはずの少年。知っているはずなのに、現実の方が細くて、息があって、外の匂いを連れてくる。その小ささが、ひどく厄介だった。