オロホスを照らす夢   作:三日月ノア

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第14話 客室の夜

客室の扉が閉まってからも、すぐには離れられなかった。

鍵が噛む音だけが、妙にはっきり残っている。廊下は冷えていた。壁際の燭台は火が入っておらず、窓の隙間から入る夜気が板の継ぎ目を細く這っている。扉の下の暗がりだけ、少し深い。

向こうにいるのは、たぶん原作の主人公だ。

村から来た子供。病気の原因を探して、屋敷へ踏み込む子供。

知っている、はずだった。けれど扉一枚向こうに実際にいると思うと、頭の中の記憶は驚くほど役に立たない。画面で見ていたはずの輪郭より、現実の方がずっと細かった。肩の線。息の浅さ。靴の泥。袖口の擦れ。歩いてきた距離が、そのまま身体に残っていた。

来る、とは思っていた。

扉を叩く音も、外の気配も、名前だけ先に浮くあの感じも、ここ数日ずっと積み上がっていた。なのに実際に入れてしまうと、思っていたよりずっと生っぽい。ゲームの中で動いていた駒じゃない。息をして、黙って、こっちを見返してくる人間だ。

「見張るのですか」

横からタブンの声がした。

「監視室で足りる」

「そうですか」

返しは短い。納得したのか、していないのか、それだけじゃ分からない。

タブンは客室の扉を一度だけ見る。取っ手のあたりでも、鍵穴でもない。もう少し上、木目の癖まで見ているみたいな視線だった。何か仕掛けを残したのか、それとも中の音だけを待っているのか、見ているだけでは読めない。読めないところが嫌だった。

オロホスは少し離れた場所に立っている。

扉の正面には立たない。かといって、廊下の角まで下がるわけでもない。半歩だけ遠い。近づきたいのに、近づいていい場所が分からない時の立ち方だ。

「寒そうだった」

ふいに言う。

「外にいたんだ。当たり前だろ」

「でも、すごく寒そうだった」

さっきも見た。泥は乾きかけていた。服の裾は湿っていた。片方の靴紐だけ少しほどけて、歩くたびに先で揺れていた。ああいうのは、見ようとしなくても目に入る。

だから何だ、という話でもある。ここで同情を前へ出せば早い。早すぎる。自分が誰の側に立っているのかまで、簡単に滲む。

「部屋に入れた」

オロホスはまだ扉を見ている。

「入れたなら、もういい」

「もう、いいの」

「お前は戻れ」

少し強く言う。

オロホスはすぐには返事をしなかった。怒られた顔というより、合っていない場所で止まった顔だ。最近、あの顔が増えた。前のソマンにも向けていたのか、それとも今のこっちにだけ増えたのか、そこはまだ分からない。

「ソマン姉様は、会わないの」

「何で」

「だって、お客さん」

そこで息が少しだけ詰まる。

お客さん。

原作でも、オロホスはそういう言い方をしていた気がする。来てしまった人。追い出さないといけない人。なのに、客でもある。あの子の中では最初から、その二つがきれいに分かれていない。

迎える家なのに、追い返す。

客室があるのに、侵入者と呼ぶ。

食堂の帳面で見た言葉が、こういうところでまだ引っかかる。形と命令がずれている。この家はずっと、そのずれの上に立っている。

「今は会わない」

「どうして」

「会う必要がない」

そう返すと、オロホスは首を少し傾けた。

「前なら、すぐ怒ってた」

「前は前だ」

「それ、最近よく言う」

言い返すより先に、客室の内側で小さな音がした。

三人とも扉を見る。

寝台がきしんだのかもしれない。毛布を引いたのかもしれない。あるいは、まだ立ったままなのかもしれない。部屋には水差しも何もない。窓際は冷える。床板も古い。寒いだろうとは思う。思うが、それをそのまま出せるほど、今の立場は楽じゃない。

扉の下の隙間に、いま一瞬だけ影が寄った気がした。すぐ離れる。こっちの足音を聞いて、また壁際へ戻ったようにも見える。警戒しているのか、遠慮しているのか、どちらでもありそうだった。

「水、持っていこうか」

オロホスが言う。

「駄目だ」

「でも」

「駄目だ」

二度目で止める。

声が少し固くなる。オロホスは唇を閉じた。そこで引き下がるのは、従順だからだけじゃない。自分で線を決めきれないからでもある。押し切るほど外を知らない。だから止められると、止まる。

その止まり方が、少し痛い。

「最低限は必要でしょう。私が置いてきます」

タブンが静かに言う。

もっともらしい。もっともらしすぎる。

「いらない」

「あなたが決めることではないでしょう」

柔らかいまま刺してくる。怒っている時ほど静かだ、というオロホスの言葉が少し遅れて戻った。

「今さら優しくするのか」

口から出たのは、思ったより低い声だった。

タブンはまばたきもしない。

「優しさではありません」

「じゃあ何だ」

「必要最低限です。外で倒れられても困るでしょう」

それは正しい。正しすぎる。

人を心配している言い方ではないくせに、否定しづらいところだけきっちり押さえてくる。こういう時のタブンは、感情を隠しているんじゃない。感情より先に役目を置いてくる。

こちらが何か言うより先に、タブンは身を翻した。足音はほとんどしない。西棟へ向かったのではなく、廊下の途中の小卓だ。予備の水差しとコップが置いてあるのを最初から知っていた動きだった。

オロホスはその背を見送り、それから小さくこちらへ向く。

「タブン姉様、怒ってない?」

「怒ってる時ほど静かだ」

「ソマン姉様も?」

「何が」

「怒ってる時」

返事が少し遅れる。

「お前には、そう見えるか」

聞き返すと、オロホスは考えた。すぐには答えない。扉、こっち、また扉。視線がその順で動く。

「今は、怒ってるっていうより、困ってる」

本当のことを、こういう時だけ拾う。

だから厄介だ。

「余計なことを言うな」

そう切ると、オロホスは少しだけ不服そうな顔をした。反論はしない。けれど飲み込んだだけでもない。喉元まで来たものを、そのまま置いている顔だ。その半端さが、昨日までより前に出ている。

「困るの、何が」

今度は小さく続ける。

「お前が聞くことじゃない」

「私が入れたから?」

その一言で、少しだけ言葉が詰まる。

事実だった。扉を開けたのはオロホスだ。けれどそれだけじゃない。止めきれなかったのは自分で、追い返しきれなかったのも自分だ。原作で知っているからこそ近づけたくないのに、原作で知っているから、ここで完全に切るのも違う気がしている。その揺れが、全部いまの返事に出ている。

「……余計な真似をするなって言ってる」

「でも、寒かった」

またそこへ戻る。

理屈じゃないんだろう。この子にとっては。寒そうだった、ひとりだった、外から来た、それだけで十分に動く理由になってしまう。たぶん花を持つ時も、最初はこうなんだ。誰かの傷や、呼吸や、苦しそうな字の方から先に拾ってしまう。

それを止めたい。止めるだけでもだめな気もする。

その両方が、いちいち面倒だった。

タブンが戻ってくる。

白い陶器の水差し。縁の薄いコップ。どちらも欠けてはいないが、よく見ると持ち手に細いひびがある。使っていない家のものなのに、こういうところだけまだ壊れきっていない。

タブンは客室の脇にそれを置いた。ノックはしない。声もかけない。置く音だけを扉へ寄せるように、わざと少し大きくした。

中で足音が一度だけ近づく。

また止まる。

取っ手は動かない。開ける気はないらしい。こちらを信用していないのか、部屋に入れられた以上これ以上は求めないつもりなのか、その両方かもしれない。

「これで十分でしょう」

タブンが言う。

視線は扉ではなく、こちらへ向いている。

何を試しているのか。ユウか。オロホスか。自分か。全部かもしれない。

「監視室へ戻る」

そう言って歩き出す。

先に動いたのは、これ以上そこに立っていたくなかったからだ。扉の向こうの気配を聞き続けていると、いずれ何か言ってしまう気がした。言うべきじゃないことまで。

オロホスはすぐにはついてこない。

客室の扉を見ている。何か言い残したような顔だった。呼べば返事があると思っている顔でもなく、呼ばないまま行くのが惜しい顔だ。

「オロホス」

呼ぶと、ようやくこっちを向く。

「戻るぞ」

「……うん」

声は小さい。けれど足は動いた。

東棟へ戻る廊下は、さっきより長く感じた。窓に貼りついた夜の黒さが濃い。板の上を歩くたび、足裏に少しずつ音が返る。自分の靴音と、オロホスの軽い足音と、後ろから一定の間でついてくるタブンの足音。その三つだけで、廊下が埋まっていた。

角を曲がる前に、オロホスがぽつりと聞く。

「また来ると思う?」

足が少しだけ遅れる。

「来るだろうな」

「どうして」

「帰れって言われて帰る顔じゃなかった」

それは本音に近かった。

言ってから少し遅れる。原作知識とか、そういうもの抜きで出た言葉だった。あの子はまた来る。たぶん、村へ戻っても眠れない。理由が分からないまま帰る顔じゃなかった。

オロホスはその返答を聞いて、少しだけ俯く。けれど嫌そうではない。考えている時の沈み方に近い。

「じゃあ、また会う」

「近づきすぎるな」

「どうして」

「面倒になる」

「誰が」

「全部だ」

雑だと自分で分かる。

ユウも。オロホスも。自分も。原作も。少しずつ近づきすぎると、全部の順番が狂う。そのくせ、近づかなければ何も変わらない気もしている。だから余計に、雑な言い方しか出てこない。

オロホスはしばらくこちらを見ていた。

それから、ほんの少しだけ目を細める。

「……それ、ソマン姉様の言い方じゃない気がする」

背中が冷たくなる。

「何が」

聞き返した声が、わずかに早い。

オロホスはすぐには答えない。考えてから喋る時の癖だ。壁の方を見て、それからこっちへ戻す。

「前のソマン姉様なら、面倒って言う時、もっと先に切ってた」

「意味が分からない」

「分からなくていいのかも」

曖昧だ。曖昧なのに、変なところだけ当たる。

「最近のソマン姉様、止める時に、止めるだけじゃない」

今度こそ言い返せなかった。

オロホスはそれ以上は追わない。言い切ったあとで、自分でも確かめるみたいに黙ってしまう時の歩き方で、先に東棟の方へ進んでいく。タブンは何も挟まない。後ろからついてくるだけだ。その沈黙がいちばん嫌だった。

監視室へ戻る。

扉を閉める。青白い画面の光が、すぐ目に入る。さっきまでいた廊下まで、今は平たい四角の中に収まっていた。

椅子に座る。客室前の画面を開く。扉は閉じたまま。脇に水差しだけが置かれている。もう一つ、東棟の画面を開く。オロホスの部屋の扉は閉じている。廊下にタブンの姿はない。

両方を並べる。

見張る。そう決めた以上、ここから先は見失わない方がいい。

けれど見張れば見張るほど、前のソマンとの差も浮き上がる。足を止める場所。言いよどむ場所。切りきれない場所。そういう小さい順番の違いが、画面越しでも分かる程度には、もう積もり始めていた。

机の上の鍵束へ手を置く。金属は冷たい。触れたまま、動かさない。

客室の前の水差しはそのままある。東棟の扉も閉じたままだ。どちらの画面も静かだ。静かなのに、待っているだけには見えない。閉じたまま、それぞれが勝手に次へ寄っていく感じがある。

しばらくして、客室前の画面がわずかに揺れた。

扉が、指一本ぶんだけ開く。

暗がりの中から手だけが出る。細いが、オロホスほど白くはない。指先が一度止まって、水差しではなく先にコップへ触れる。軽く鳴った音に驚いたのか、その手がすぐ引く。数拍置いて、今度は水差しごと抱えるように持ち上げた。

顔は見えない。見せないようにしている。

扉はまたすぐ閉じた。

ほんのそれだけなのに、画面から目が離れなかった。警戒している。けれど、拒みきってもいない。置かれた水を飲むくらいには、まだ身体の方を優先できる。そのことに少しだけ安堵している自分がいて、すぐ嫌になる。

前のソマンなら、こんな場面をじっと見ていただろうか。

分からない。分からないのに、そういう比較ばかり増える。

東棟の画面へ切り替える。オロホスの部屋の扉は閉じている。だが数えるほども経たないうち、今度はそちらの取っ手が微かに動いた。開ききらない。内側から一度だけ押して、やめたみたいな動きだ。

客室の方を見に行きたいんだろうと思った。

けれど行かない。

行けない、というより、今はまだ行く線を自分で引いていない。オロホスはそういうところで止まる。止まれる。そこが、危うさでもあり、まだ助かる余地でもある。

画面を二つ並べたまま、背もたれに浅く寄りかかる。監視室は暖かくないのに、ここだけ外より空気が薄い。灯りのせいで夜が分からなくなる。時間も、人の顔色も、全部少し平たく見える。

だから余計に、自分の遅れが分かった。

ユウが来た。オロホスが入れた。タブンは見ている。そして自分だけが、原作を知っているつもりで、一番細いところをまだ掴めていない。

知識では、こういう順番まではどうにもならない。

どうにもならないなら、見るしかない。少なくとも今夜は。見失わない。客室も。オロホスも。その間で、先にどこがずれるのかも。

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