翌朝、客室の扉は少しだけ開いていた。
中から開けて、そのまま閉めきらなかった隙間。監視室の画面でも分かった。脇へ置いた水差しは空で、コップが伏せてある。飲んだあとに戻したのか、最初からそう置いてあったのかまでは分からない。ただ、何も考えられないほど追い詰められてはいないらしい。その程度のことに、少しだけ息が戻るのが腹立たしかった。
椅子を引く。
木が床を擦る音が、朝の監視室にはやけに大きい。画面はいつも通り青白い。東棟の廊下、食糧庫前、階段、客室の前。どれも同じ顔をしている。何も起きていないみたいな顔だ。こういう時ほど信用ならない。
朝から落ち着かないのは、もう諦めるしかない。
鍵束を取る。腰の脇で金属が触れ合う。昨日の夜より少しだけ手に馴染んでいて、それがまた嫌だった。慣れてはいけないものまで、この身体は先に覚えていく。
廊下へ出る。空気は冷えている。窓際の板が白く曇り、拭かれていない木枠に細い水滴が残っていた。客室の前には誰もいない。階段前も、食糧庫の前も静かだ。代わりに、食堂の方からかすかな声がした。
近づく。
扉は半分ほど開いていた。中を覗く前に、足が一拍だけ止まる。聞き耳を立てるのは好きじゃない。けれど、今はそれでいい気がした。中で話しているのがユウとオロホスなら、なおさら。
「これ、食べ物?」
ユウの声だった。
少し戸惑っている。警戒しているというより、確認している声だ。知らない家のものでも、腹が減っていれば口に入れる前に一応聞く。その程度には普通の子供なんだろうと思う。
「うん。たぶん」
オロホスが返す。
たぶん、がついている時点でかなり危うい。危ういのに、本人はそこまで危ういと思っていない声だった。
「たぶんって何」
「食べられる方だと思う」
「食べられない方もあるの?」
「あるよ」
そこまで聞いて、扉を押す。
食堂へ入る。
二人とも同時にこちらを見た。
長い机の端に、向かい合うでもなく斜めに座っている。ユウの前の皿には固くなったパンが半分だけ置かれていた。表面が白く乾いて、端が少し割れている。オロホスの方にも同じものがあるが、まだそのままだ。皿の脇には、いつから置かれていたのか分からない薄いスープ皿。中は空。食堂の奥の窓から朝の光は入っているはずなのに、この部屋は相変わらず薄暗く、机の上だけが半端に明るい。
二人だけで座っている光景は妙に不似合いだった。迎えるための長さしかない机だ。暮らすための距離じゃない。
「何してる」
オロホスが先に答える。
「朝」
「見れば分かる」
「じゃあ、何で聞いたの」
昨日より返しが少しだけ早い。言葉がつかえる前に出ている。ユウがいるからだろう。あの子の前だと、オロホスはいつもより半歩だけ外へ出る。その事実だけで、少し気分が悪くなる。
「勝手に客室を出るな」
今度はユウへ向ける。
ユウは少しだけ顔をしかめた。眠そうでも、怯えているわけでもない。腹が減っていて、警戒していて、でも引き返す気はない顔だ。
「ずっと閉じこもってろってこと?」
「そうは言ってない」
「じゃあ何ですか」
「動くなら言え」
「誰に」
「……こちらにだ」
言いながら、少し遅れる。ソマンならこんな言い方をするのか、自分でも分からない。命令として出すには弱いし、心配として出すには露骨すぎる。
ユウはそこで黙った。言い返したいが、全部は言い返せない時の顔をする。侵入した側だという自覚は、ちゃんとあるらしい。
オロホスがパンを小さくちぎる。
乾いた音がした。柔らかいものを裂く音じゃない。欠けるに近い。指先に少し力を入れないと崩れないらしく、オロホスは親指の腹を白くしている。
その仕草を見てから、ユウが聞いた。
「この家、いつもこんな感じなの?」
「どんな」
「広いのに、人が住んでる感じが薄い」
そうだろう、と思う。
住んでいる痕跡はある。けれど生活の連なりがない。暮らしの形より先に、迎える形だけが残っている家だ。そこを一言で言われると、妙に痛い。
「前は、もっと人がいたよ」
オロホスが言う。
「前?」
「使用人さん」
ユウが少しだけ目を見開いた。
「今はいないの」
「いない」
「どこに行ったの」
「……知らない」
言いながら、オロホスの指が止まる。パンの欠片を持ったまま、そのまま固まる。知らないのは本当だろう。けれど知らないままで済ませてきたことが、昨日より少しだけ引っかかっている。その止まり方だった。
「知らない、か」
ユウはそれ以上すぐには追わない。皿の上のパンを見て、それから食堂の奥を見る。誰もいない椅子の列、使われていない燭台、拭かれていない机。見るべきところをちゃんと見ている。
「これ、いつの?」
パンを持ち上げる。
「分からない」
「分からないもの食べるの?」
「いつもは、もっとまし」
「もっとまし、でこれ?」
そこでオロホスが少しだけ困ったような顔をした。
笑っているわけじゃない。けれど、言い返し方が浮かばない時の顔だ。言葉で押し返すことに慣れていない。たぶん誰かに何かを比べられること自体、あまりなかったんだろう。
「ユウ」
名前を呼ぶ。
「何ですか」
「口に入れる前に匂いくらい見ろ」
「匂いは見ないですよ」
「……そういう意味じゃない」
「分かってます」
そこだけ少し早い。黙って従う子供じゃない。けれど反抗だけで動くほど浅くもない。自分が何かを探しに来たことを、ちゃんと覚えている子供の返し方だった。
「食ったら、勝手に歩くな」
「またそれ」
「ここは村の家とは違う」
「見れば分かります」
そこだけ少し強い。怖がっていないわけじゃない。けれど怖いから帰るほど弱くはない。
「じゃあ分かるなら従え」
言うと、ユウは小さく息を吐いた。
「あなた、ずっとそんな感じなんですか」
「何が」
「怒ってるみたいな話し方」
答える前に、オロホスが首を小さく振った。
「今のは、怒ってない方」
「そうなの?」
「うん。たぶん」
たぶんじゃない、と言いかけてやめる。今ここでそれをやると、三人の会話が変な方へ崩れる。
ユウはパンを少しだけかじった。
すぐに顔をしかめる。
「硬い」
「古いから」
オロホスが言う。
「それ、普通に食べてるの」
「うん」
「お腹、痛くならない?」
「……分からない」
「分からないって、ならないの?」
「痛くなる時もある」
「あるのかよ」
思わずみたいにユウが言って、すぐ口をつぐむ。今のは怒鳴ったわけじゃない。ただ、驚きが先に出た声だ。
少しだけ沈黙が落ちる。
ユウはパンを皿に戻した。乾いた音がまた鳴る。食べ物を置いたというより、小さな石を戻したみたいな音だった。
「村の食べ物の方が、たぶんいいよ」
「たぶん?」
「いや、絶対」
その返しに、オロホスがほんの少しだけ目を丸くする。そういう断言の仕方に慣れていない顔だ。
「外って、そんなに違うの」
「違うよ」
ユウは即答した。
「人もいるし、音もあるし、朝はもっとちゃんと朝っぽいし」
「朝っぽい?」
「鳥の声とか、鍋の音とか。あと、パンももっと柔らかい」
最後の一言で少しだけ笑う。笑ったというより、言いながら自分で当たり前だと思っていることに気づいた感じだ。
「もっと……」
そこで一度だけ言葉を探す。
「息がしやすい」
オロホスの手が止まる。
パンを持ったまま、しばらく動かない。
まずい、と思う。そのまま通したくないと思う。だが止めに入れば、なぜ止めるのかを説明しないといけない。それも無理だ。
「長く話すな」
少し強く切る。
二人ともこちらを見る。
ユウは不服そうで、オロホスは不思議そうだ。
「どうして」
オロホスが聞く。
「どうしてでもだ」
雑だと自分で分かる。けれど今はそれ以上出せない。
「ソマン姉様」
オロホスが続ける。
「何だ」
「息がしやすいって、どういうこと」
その聞き方はずるい。
本人は本当に分からないだけなんだろう。けれど分からないまま聞くから、こっちの準備がないところへ入ってくる。
「外の話だ」
「だから、外のどういうところ」
「お前が今考えることじゃない」
「考えたらだめ?」
「……だめとは言ってない」
そこまで言って、余計に悪いと気づく。否定しきれない返しだ。前のソマンならもっと切ったはずだ、という声が頭のどこかで勝手にする。
ユウがそのやり取りを見ていた。
口を挟まない。けれど聞いている。オロホスより、むしろこっちの言葉の詰まり方を見ている顔だ。
その時、食堂の外で軽い足音が止まった。
誰かがいる。
入ってこない。けれどそこにいる。ユウもそっちを見る。オロホスも。
扉の向こうの影は見えない。床板も鳴らない。気配だけがある。家の中の人間の立ち方だ。待つでもなく、聞くでもなく、ただそこにいるだけで圧になる立ち方。
「何?」
ユウが小さく聞く。
「この家の、こういうところが嫌なんだよ」
答えたのは自分だった。
言ってから、少し遅れる。
余計だった。屋敷の側の人間の言い方じゃない。嫌、なんて、ここで先に出していい立場じゃない。
ユウは変な顔をしなかった。ただ少しだけこちらを見る。警戒でも、同意でもない。覚えた、という顔に近い。
オロホスの方だけが、はっきり反応した。
「……やっぱり、変」
小さい。けれど、聞き逃せない声だった。
それ以上は言わない。言わないまま、でも見逃さない目をしている。昨日の夜からずっとそうだ。言葉より先に、綻びの位置だけ拾っていく。
食堂の外の足音は、少しして離れていった。タブンかもしれない。別の何かかもしれない。どちらにしても、今の一言はもう戻らない。
ユウが皿の上のパンを見る。
オロホスはまだパンを持ったままだ。
その二人のあいだに、自分の言った余計な一言だけが残っている。机の上に置かれた古いパンより、その方がよほど扱いに困る。
「食べ終わったら、客室に戻れ」
最後にそう切る。
ユウは不服そうな顔のまま、けれど頷いた。納得じゃない。とりあえず今は逆らわないという頷き方だ。
オロホスは頷かない。ただこちらを見たまま、少しだけ目を細める。
その視線が一番きつかった。
「ソマン姉様」
今度はユウではなく、オロホスが呼ぶ。
「何」
「嫌って、前はあまり言わなかった」
返す言葉が一瞬遅れる。
「今も別に、言ってない」
「言ったよ」
「お前、よく聞いてるな」
「うん」
そういうところだけ、素直に認める。
ユウが二人を見比べる。話には入りきれていないくせに、空気の変化だけは分かっている顔だ。昨日からそうだ。この子は知らない屋敷に来た子供のわりに、人の声色の方は妙に拾う。
「……客室に戻りますよ」
自分でも少し硬すぎると思う声で言う。
「その前に、これだけ聞いていい?」
ユウが言う。
「何だ」
「この家、朝ごはんって毎日こうなんですか」
そこで少しだけ、言葉に詰まる。
パン。古い皿。空のスープ皿。長すぎる机。二人きりの朝。毎日こうなのかと聞かれて、違うとも、同じともすぐには言えない。
「……いつも同じとは限らない」
曖昧に返す。
ユウは少し眉を寄せる。
「それ、答えになってないです」
「全部に答える必要はない」
「そうやって、何でも隠すんだ」
今度はユウの方が少しだけ強かった。
オロホスがその横顔を見る。止めない。かばわない。けれど聞いている。二人のあいだで何が通るのか、そこだけを見ている目だ。
「……今は話さないだけだ」
そう出すと、ユウは完全には納得しないまま口を閉じた。たぶん、諦めたんじゃない。いま押しても無駄だと判断しただけだ。そういう引き方をする子供は厄介だ。次に別の角度から来る。
オロホスがようやくパンを皿に置いた。
食べないらしい。
「客室、戻る」
誰に言うでもなくそう言って、椅子から立つ。椅子の脚が床を擦って、小さく鳴る。食堂の広さのわりに、その音はすぐ壁へぶつかって返ってきた。
ユウも立ち上がる。皿にはかじった跡のついたパンが半分以上残っている。持っていく気はなさそうだ。
二人が扉の方へ来る。すれ違う時、オロホスがほんの少しだけ近くを通った。肩は触れない。けれど昨日までより距離が近い。そのくせ、視線はこっちから逸らさない。
「変、だよ」
通り過ぎる時、また小さく言う。
「何が」
聞き返す。
「まだ分からない」
それだけ残して出ていく。
分からないくせに、引っかかった場所だけは掴んでいる言い方だった。
ユウはその後ろで一瞬だけ立ち止まった。
「あなた、本当は――」
言いかけて、やめる。
「……いや、何でもないです」
そう言って歩き出す。何でもなくない顔だった。昨日の夜より、こっちを見る目が少し変わっている。言葉の端と立ち位置が合っていないと気づき始めている。
二人の足音が廊下の方へ遠ざかる。
食堂に一人残る。
長い机の上には、硬いパンと触られていない皿と、誰も使わないはずの椅子が並んでいる。少し前まで三人いたのに、もう最初から誰もいなかったみたいな顔に戻っている。
その静けさが、今はやけに腹立たしかった。
扉の方を見る。さっき足音が止まった場所だ。誰もいない。だが本当にいなかったのかは分からない。この家では、いないことと、見えないことが同じになりやすい。
机の端に置かれたパンを指で押す。硬い。冷たい。こんなものを朝だと言って食べてきたのかと思うと、怒りに似たものが少しだけ浮く。けれど誰に向けるのが正しいのか、そこはまだはっきりしない。
結局、そのパンも皿もそのままにして食堂を出た。
廊下へ戻る。東棟の方へ二人の気配はもうない。客室へ向かったなら、しばらくは大丈夫だろう。大丈夫、という言い方自体がもう変なのに、それでもそう思うしかない。
監視室へ戻りながら、さっきの会話を反芻する。
嫌。
息がしやすい。
変。
どれも本来なら、この段階で軽々しく出していい言葉じゃなかった。ユウが来たせいか。オロホスがいるせいか。たぶん両方だ。相手が一人の時はまだ切れたものが、二人いるだけで妙な方へずれる。
監視室の扉を開ける。
青白い光がまた目に入る。椅子に座る。画面を切り替える。客室前。東棟の廊下。食堂前。しばらくして、客室の扉が開く。オロホスが先に入り、ユウが少し遅れて入る。振り返って何か言うが、音はない。扉が閉じる。
その映像を見ながら、机の上の鍵束へ手を置く。
ユウは昨日より、こちらの言葉を覚え始めている。
オロホスは昨日より、こちらの綻びを拾っている。
一日で進みすぎだ、とも思う。
けれど止めきれていないのは自分だ。止めるべきかどうかも、まだ決めきれていないくせに、余計なことだけは先に口から出る。
画面の中の客室は静かだった。
その静けさが、今朝の食堂よりずっと危うく見えた。