オロホスを照らす夢   作:三日月ノア

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第15話 朝の食卓

翌朝、客室の扉は少しだけ開いていた。

中から開けて、そのまま閉めきらなかった隙間。監視室の画面でも分かった。脇へ置いた水差しは空で、コップが伏せてある。飲んだあとに戻したのか、最初からそう置いてあったのかまでは分からない。ただ、何も考えられないほど追い詰められてはいないらしい。その程度のことに、少しだけ息が戻るのが腹立たしかった。

椅子を引く。

木が床を擦る音が、朝の監視室にはやけに大きい。画面はいつも通り青白い。東棟の廊下、食糧庫前、階段、客室の前。どれも同じ顔をしている。何も起きていないみたいな顔だ。こういう時ほど信用ならない。

朝から落ち着かないのは、もう諦めるしかない。

鍵束を取る。腰の脇で金属が触れ合う。昨日の夜より少しだけ手に馴染んでいて、それがまた嫌だった。慣れてはいけないものまで、この身体は先に覚えていく。

廊下へ出る。空気は冷えている。窓際の板が白く曇り、拭かれていない木枠に細い水滴が残っていた。客室の前には誰もいない。階段前も、食糧庫の前も静かだ。代わりに、食堂の方からかすかな声がした。

近づく。

扉は半分ほど開いていた。中を覗く前に、足が一拍だけ止まる。聞き耳を立てるのは好きじゃない。けれど、今はそれでいい気がした。中で話しているのがユウとオロホスなら、なおさら。

「これ、食べ物?」

ユウの声だった。

少し戸惑っている。警戒しているというより、確認している声だ。知らない家のものでも、腹が減っていれば口に入れる前に一応聞く。その程度には普通の子供なんだろうと思う。

「うん。たぶん」

オロホスが返す。

たぶん、がついている時点でかなり危うい。危ういのに、本人はそこまで危ういと思っていない声だった。

「たぶんって何」

「食べられる方だと思う」

「食べられない方もあるの?」

「あるよ」

そこまで聞いて、扉を押す。

食堂へ入る。

二人とも同時にこちらを見た。

長い机の端に、向かい合うでもなく斜めに座っている。ユウの前の皿には固くなったパンが半分だけ置かれていた。表面が白く乾いて、端が少し割れている。オロホスの方にも同じものがあるが、まだそのままだ。皿の脇には、いつから置かれていたのか分からない薄いスープ皿。中は空。食堂の奥の窓から朝の光は入っているはずなのに、この部屋は相変わらず薄暗く、机の上だけが半端に明るい。

二人だけで座っている光景は妙に不似合いだった。迎えるための長さしかない机だ。暮らすための距離じゃない。

「何してる」

オロホスが先に答える。

「朝」

「見れば分かる」

「じゃあ、何で聞いたの」

昨日より返しが少しだけ早い。言葉がつかえる前に出ている。ユウがいるからだろう。あの子の前だと、オロホスはいつもより半歩だけ外へ出る。その事実だけで、少し気分が悪くなる。

「勝手に客室を出るな」

今度はユウへ向ける。

ユウは少しだけ顔をしかめた。眠そうでも、怯えているわけでもない。腹が減っていて、警戒していて、でも引き返す気はない顔だ。

「ずっと閉じこもってろってこと?」

「そうは言ってない」

「じゃあ何ですか」

「動くなら言え」

「誰に」

「……こちらにだ」

言いながら、少し遅れる。ソマンならこんな言い方をするのか、自分でも分からない。命令として出すには弱いし、心配として出すには露骨すぎる。

ユウはそこで黙った。言い返したいが、全部は言い返せない時の顔をする。侵入した側だという自覚は、ちゃんとあるらしい。

オロホスがパンを小さくちぎる。

乾いた音がした。柔らかいものを裂く音じゃない。欠けるに近い。指先に少し力を入れないと崩れないらしく、オロホスは親指の腹を白くしている。

その仕草を見てから、ユウが聞いた。

「この家、いつもこんな感じなの?」

「どんな」

「広いのに、人が住んでる感じが薄い」

そうだろう、と思う。

住んでいる痕跡はある。けれど生活の連なりがない。暮らしの形より先に、迎える形だけが残っている家だ。そこを一言で言われると、妙に痛い。

「前は、もっと人がいたよ」

オロホスが言う。

「前?」

「使用人さん」

ユウが少しだけ目を見開いた。

「今はいないの」

「いない」

「どこに行ったの」

「……知らない」

言いながら、オロホスの指が止まる。パンの欠片を持ったまま、そのまま固まる。知らないのは本当だろう。けれど知らないままで済ませてきたことが、昨日より少しだけ引っかかっている。その止まり方だった。

「知らない、か」

ユウはそれ以上すぐには追わない。皿の上のパンを見て、それから食堂の奥を見る。誰もいない椅子の列、使われていない燭台、拭かれていない机。見るべきところをちゃんと見ている。

「これ、いつの?」

パンを持ち上げる。

「分からない」

「分からないもの食べるの?」

「いつもは、もっとまし」

「もっとまし、でこれ?」

そこでオロホスが少しだけ困ったような顔をした。

笑っているわけじゃない。けれど、言い返し方が浮かばない時の顔だ。言葉で押し返すことに慣れていない。たぶん誰かに何かを比べられること自体、あまりなかったんだろう。

「ユウ」

名前を呼ぶ。

「何ですか」

「口に入れる前に匂いくらい見ろ」

「匂いは見ないですよ」

「……そういう意味じゃない」

「分かってます」

そこだけ少し早い。黙って従う子供じゃない。けれど反抗だけで動くほど浅くもない。自分が何かを探しに来たことを、ちゃんと覚えている子供の返し方だった。

「食ったら、勝手に歩くな」

「またそれ」

「ここは村の家とは違う」

「見れば分かります」

そこだけ少し強い。怖がっていないわけじゃない。けれど怖いから帰るほど弱くはない。

「じゃあ分かるなら従え」

言うと、ユウは小さく息を吐いた。

「あなた、ずっとそんな感じなんですか」

「何が」

「怒ってるみたいな話し方」

答える前に、オロホスが首を小さく振った。

「今のは、怒ってない方」

「そうなの?」

「うん。たぶん」

たぶんじゃない、と言いかけてやめる。今ここでそれをやると、三人の会話が変な方へ崩れる。

ユウはパンを少しだけかじった。

すぐに顔をしかめる。

「硬い」

「古いから」

オロホスが言う。

「それ、普通に食べてるの」

「うん」

「お腹、痛くならない?」

「……分からない」

「分からないって、ならないの?」

「痛くなる時もある」

「あるのかよ」

思わずみたいにユウが言って、すぐ口をつぐむ。今のは怒鳴ったわけじゃない。ただ、驚きが先に出た声だ。

少しだけ沈黙が落ちる。

ユウはパンを皿に戻した。乾いた音がまた鳴る。食べ物を置いたというより、小さな石を戻したみたいな音だった。

「村の食べ物の方が、たぶんいいよ」

「たぶん?」

「いや、絶対」

その返しに、オロホスがほんの少しだけ目を丸くする。そういう断言の仕方に慣れていない顔だ。

「外って、そんなに違うの」

「違うよ」

ユウは即答した。

「人もいるし、音もあるし、朝はもっとちゃんと朝っぽいし」

「朝っぽい?」

「鳥の声とか、鍋の音とか。あと、パンももっと柔らかい」

最後の一言で少しだけ笑う。笑ったというより、言いながら自分で当たり前だと思っていることに気づいた感じだ。

「もっと……」

そこで一度だけ言葉を探す。

「息がしやすい」

オロホスの手が止まる。

パンを持ったまま、しばらく動かない。

まずい、と思う。そのまま通したくないと思う。だが止めに入れば、なぜ止めるのかを説明しないといけない。それも無理だ。

「長く話すな」

少し強く切る。

二人ともこちらを見る。

ユウは不服そうで、オロホスは不思議そうだ。

「どうして」

オロホスが聞く。

「どうしてでもだ」

雑だと自分で分かる。けれど今はそれ以上出せない。

「ソマン姉様」

オロホスが続ける。

「何だ」

「息がしやすいって、どういうこと」

その聞き方はずるい。

本人は本当に分からないだけなんだろう。けれど分からないまま聞くから、こっちの準備がないところへ入ってくる。

「外の話だ」

「だから、外のどういうところ」

「お前が今考えることじゃない」

「考えたらだめ?」

「……だめとは言ってない」

そこまで言って、余計に悪いと気づく。否定しきれない返しだ。前のソマンならもっと切ったはずだ、という声が頭のどこかで勝手にする。

ユウがそのやり取りを見ていた。

口を挟まない。けれど聞いている。オロホスより、むしろこっちの言葉の詰まり方を見ている顔だ。

その時、食堂の外で軽い足音が止まった。

誰かがいる。

入ってこない。けれどそこにいる。ユウもそっちを見る。オロホスも。

扉の向こうの影は見えない。床板も鳴らない。気配だけがある。家の中の人間の立ち方だ。待つでもなく、聞くでもなく、ただそこにいるだけで圧になる立ち方。

「何?」

ユウが小さく聞く。

「この家の、こういうところが嫌なんだよ」

答えたのは自分だった。

言ってから、少し遅れる。

余計だった。屋敷の側の人間の言い方じゃない。嫌、なんて、ここで先に出していい立場じゃない。

ユウは変な顔をしなかった。ただ少しだけこちらを見る。警戒でも、同意でもない。覚えた、という顔に近い。

オロホスの方だけが、はっきり反応した。

「……やっぱり、変」

小さい。けれど、聞き逃せない声だった。

それ以上は言わない。言わないまま、でも見逃さない目をしている。昨日の夜からずっとそうだ。言葉より先に、綻びの位置だけ拾っていく。

食堂の外の足音は、少しして離れていった。タブンかもしれない。別の何かかもしれない。どちらにしても、今の一言はもう戻らない。

ユウが皿の上のパンを見る。

オロホスはまだパンを持ったままだ。

その二人のあいだに、自分の言った余計な一言だけが残っている。机の上に置かれた古いパンより、その方がよほど扱いに困る。

「食べ終わったら、客室に戻れ」

最後にそう切る。

ユウは不服そうな顔のまま、けれど頷いた。納得じゃない。とりあえず今は逆らわないという頷き方だ。

オロホスは頷かない。ただこちらを見たまま、少しだけ目を細める。

その視線が一番きつかった。

「ソマン姉様」

今度はユウではなく、オロホスが呼ぶ。

「何」

「嫌って、前はあまり言わなかった」

返す言葉が一瞬遅れる。

「今も別に、言ってない」

「言ったよ」

「お前、よく聞いてるな」

「うん」

そういうところだけ、素直に認める。

ユウが二人を見比べる。話には入りきれていないくせに、空気の変化だけは分かっている顔だ。昨日からそうだ。この子は知らない屋敷に来た子供のわりに、人の声色の方は妙に拾う。

「……客室に戻りますよ」

自分でも少し硬すぎると思う声で言う。

「その前に、これだけ聞いていい?」

ユウが言う。

「何だ」

「この家、朝ごはんって毎日こうなんですか」

そこで少しだけ、言葉に詰まる。

パン。古い皿。空のスープ皿。長すぎる机。二人きりの朝。毎日こうなのかと聞かれて、違うとも、同じともすぐには言えない。

「……いつも同じとは限らない」

曖昧に返す。

ユウは少し眉を寄せる。

「それ、答えになってないです」

「全部に答える必要はない」

「そうやって、何でも隠すんだ」

今度はユウの方が少しだけ強かった。

オロホスがその横顔を見る。止めない。かばわない。けれど聞いている。二人のあいだで何が通るのか、そこだけを見ている目だ。

「……今は話さないだけだ」

そう出すと、ユウは完全には納得しないまま口を閉じた。たぶん、諦めたんじゃない。いま押しても無駄だと判断しただけだ。そういう引き方をする子供は厄介だ。次に別の角度から来る。

オロホスがようやくパンを皿に置いた。

食べないらしい。

「客室、戻る」

誰に言うでもなくそう言って、椅子から立つ。椅子の脚が床を擦って、小さく鳴る。食堂の広さのわりに、その音はすぐ壁へぶつかって返ってきた。

ユウも立ち上がる。皿にはかじった跡のついたパンが半分以上残っている。持っていく気はなさそうだ。

二人が扉の方へ来る。すれ違う時、オロホスがほんの少しだけ近くを通った。肩は触れない。けれど昨日までより距離が近い。そのくせ、視線はこっちから逸らさない。

「変、だよ」

通り過ぎる時、また小さく言う。

「何が」

聞き返す。

「まだ分からない」

それだけ残して出ていく。

分からないくせに、引っかかった場所だけは掴んでいる言い方だった。

ユウはその後ろで一瞬だけ立ち止まった。

「あなた、本当は――」

言いかけて、やめる。

「……いや、何でもないです」

そう言って歩き出す。何でもなくない顔だった。昨日の夜より、こっちを見る目が少し変わっている。言葉の端と立ち位置が合っていないと気づき始めている。

二人の足音が廊下の方へ遠ざかる。

食堂に一人残る。

長い机の上には、硬いパンと触られていない皿と、誰も使わないはずの椅子が並んでいる。少し前まで三人いたのに、もう最初から誰もいなかったみたいな顔に戻っている。

その静けさが、今はやけに腹立たしかった。

扉の方を見る。さっき足音が止まった場所だ。誰もいない。だが本当にいなかったのかは分からない。この家では、いないことと、見えないことが同じになりやすい。

机の端に置かれたパンを指で押す。硬い。冷たい。こんなものを朝だと言って食べてきたのかと思うと、怒りに似たものが少しだけ浮く。けれど誰に向けるのが正しいのか、そこはまだはっきりしない。

結局、そのパンも皿もそのままにして食堂を出た。

廊下へ戻る。東棟の方へ二人の気配はもうない。客室へ向かったなら、しばらくは大丈夫だろう。大丈夫、という言い方自体がもう変なのに、それでもそう思うしかない。

監視室へ戻りながら、さっきの会話を反芻する。

嫌。

息がしやすい。

変。

どれも本来なら、この段階で軽々しく出していい言葉じゃなかった。ユウが来たせいか。オロホスがいるせいか。たぶん両方だ。相手が一人の時はまだ切れたものが、二人いるだけで妙な方へずれる。

監視室の扉を開ける。

青白い光がまた目に入る。椅子に座る。画面を切り替える。客室前。東棟の廊下。食堂前。しばらくして、客室の扉が開く。オロホスが先に入り、ユウが少し遅れて入る。振り返って何か言うが、音はない。扉が閉じる。

その映像を見ながら、机の上の鍵束へ手を置く。

ユウは昨日より、こちらの言葉を覚え始めている。

オロホスは昨日より、こちらの綻びを拾っている。

一日で進みすぎだ、とも思う。

けれど止めきれていないのは自分だ。止めるべきかどうかも、まだ決めきれていないくせに、余計なことだけは先に口から出る。

画面の中の客室は静かだった。

その静けさが、今朝の食堂よりずっと危うく見えた。

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