昼を少し過ぎたころ、食糧庫の画面の端で灰色の影が動いた。
猫だ。
反射で立ち上がる。椅子の脚が床を擦る。画面の中の猫は驚きもしない。棚の上をゆっくり歩いて、腐りかけた野菜箱のあいだで一度だけ立ち止まる。首元で細いものが光った。
鍵。
前に見たのと同じだ。小さな輪に通されて、鈴みたいな金具と一緒に揺れている。歩くたび、画面越しでも分かるくらいかすかに鳴る。食糧庫の湿った空気に似合わない、軽すぎる音だった。
画面を睨んだまま、少しだけ迷う。
取るべきか。今のうちに。
鍵は導線だ。取れば順番が変わる。変えたいなら、変えられる。けれど、変えていいかは別だった。
順番を知っているつもりで、実際は細部が曖昧なまま導線だけ壊すのがいちばん怖い。鍵を先に取ったせいで、次に開くべき扉がずれる。会う相手が変わる。出る情報が前後する。そういう事故の方が、分かりやすい失敗よりずっと厄介だ。
食糧庫へ向かう。
監視室の扉を開けた瞬間、青白い光から外の薄暗さへ目が切り替わる。東棟へ下りる途中の廊下は昼でも暗い。窓はあるのに、光が屋敷の奥まで届かない。板の継ぎ目に埃が詰まり、壁紙の端が小さくめくれている。人が歩いている家のはずなのに、昼より先に影が立っている感じがした。
急ぎすぎるな、と自分で思う。
放っておくと見失うかもしれない。そう考えると足が少し速くなる。
食糧庫の扉を開けた時には、もう猫は棚の上にいた。
腐りかけた野菜箱のさらに上。古い麻袋の脇。こっちを見下ろしている。逃げるでもない。近寄らせる気もない。そのちょうどいい位置だけは最初から知っているみたいな顔だった。灰色の毛並みはところどころ逆立って、右耳の先が少し欠けている。誰かに飼われていた猫には見えない。ここに棲みついて、ここで生き延びることだけ覚えた獣の顔だ。
「そこに何がついてる」
聞いても仕方がない。けれど口から出た。
猫は前足で顔を洗う。首輪代わりの紐が擦れて、鍵が小さく鳴る。さっきより近い。今なら取れるかもしれない、と頭のどこかが勝手に計算する。その計算の方が信用ならなかった。
後ろで足音が止まった。
振り向くまでもなく、オロホスだと分かる。
「……またいる」
また、という言い方だった。
「前から見てるのか」
「うん。たまに来る」
「誰も追い出さないのか」
「追い出せない」
短い。そこで終わる。嫌、の中身までは出さない。けれど声を聞けば分かる。嫌いというより、近づきたくない方だ。苦手なんだろう。猫を見ている時のオロホスは、ユウを見る時とは逆で、視線は向けたまま足が前に出ない。
「近づくな」
言うと、オロホスは素直に頷く。けれど視線だけは猫から外さない。外せないのかもしれない。怖いものを見てしまった時の子供みたいに、見たくないのに目の端で追っている。
「鍵」
「見えるな」
「取らないの」
「……今はいい」
「どうして」
そこで言葉が少し遅れる。
説明しすぎると変だ。かといって黙ると、もっと変だ。今ここで取らないのは、慎重だからか、怖いからか、順番に怯えているからか、自分でもきれいに分けられない。
「逃がしたら面倒だ」
半分は本当で、半分は違う。
オロホスはその答えを聞いて、少しだけ考える顔をした。
「前のソマン姉様なら、すぐ取ってた」
またそれだ。
前のソマン。前の言い方。前の切り方。最近ずっとそこに引っかかっている。違うのは自分でも分かっているのに、指摘されると余計に身体がぎこちなくなる。
「前の話をするな」
「どうして」
「今は今だ」
「それも最近よく言う」
返しが妙に真っ直ぐで、少しだけ腹が立つ。腹が立つのは、図星に近いからだ。前のソマンならどうするかを一番気にしているのは、たぶんオロホスじゃなく自分の方だ。
猫はそこで、ふいに立ち上がった。
背を低くするでも、毛を逆立てるでもない。棚の端へ出て、こちらとオロホスを順に見る。人間の会話なんて関係ない顔だ。けれど逃げる時だけは、会話の隙をちゃんと選ぶ。
飛び下りる。
軽い音。箱の間を縫って走る。食糧庫の奥、小さい隙間へ向かう。壁際、板と板のあいだに人の指がやっと入るくらいの穴がある。前から気づいていた。けれど今みたいに、何かがそこを使う瞬間を見ると急に嫌な穴に見える。
猫はそこへ顔を押し込み、少し体をひねって、するりと消える。
鍵が最後に一度だけ鳴った。
あまりにあっさりしていて、一瞬何もできない。追えば間に合ったかもしれない。手を伸ばせば届いたかもしれない。そういう距離で消えていった。そのことがいちばん気に障る。
見送る。
オロホスが少し遅れて息を吐いた。
「見逃した」
「そうだな」
「何かあるの」
「あるかもしれない」
そこでオロホスはまた小さく首を傾げる。
「最近、それ多い」
「何が」
「あるかも、とか。分からない、とか」
返答が詰まる。
そうだ。増えている。前のソマンとの差は、怒る場所だけじゃなく、答えの切り方にも出ている。切りきれない。断言できない。中身が曖昧なところだけこうやって漏れる。
「全部分かる方が気味悪いだろ」
そう返すと、オロホスは少しだけ目を丸くした。
「今の、もっと変」
「余計だ」
「でも、そう」
猫が消えた隙間の前にしゃがむ。
床板の近くは湿っていた。干からびた野菜の皮。黒ずんだ葉。埃と土。人の手が届かない場所の匂いがする。指を入れるには狭い。けれど手前には毛が一本落ちていた。灰色。細い。あと、鈴の欠片みたいな金具。丸い輪の一部だけ。役に立つかどうかは怪しい。けれど見なかったことにするには惜しい。
指先でつまみ上げる。冷たい。
「そこ、通るんだ」
オロホスが少し離れた場所から言う。
「前から知ってたのか」
「うん。でも、入らない方がいいと思ってた」
「何で」
「何か、嫌」
それは珍しく、理由になっていない理由だった。けれどこの家では、そういう感覚の方が当たることもある。自分だって曖昧な勘で何度も動いている。
「お前、猫嫌いか」
聞くと、オロホスは少しだけ間を空けた。
「嫌いっていうか」
「何だ」
「近いと、変な感じする」
「変な感じ」
「見られてるみたいな」
そこで少しだけ手が止まる。
ただの猫だろ、と切るのは簡単だ。けれどこの屋敷では、ただの猫と言い切れないものが多すぎる。気味が悪いのは、猫そのものより、鍵をつけて食糧庫の穴を出入りしていることの方だ。
その時、食糧庫の外で軽い靴音が止まった。
ユウだ。
入るかどうか迷っている気配がする。扉の向こうで体重が片足ぶん揺れる感じまで分かる。たぶん猫の鳴き声か、さっきの鈴の音でも聞いたんだろう。あの子はこういう時に引き返さない。
「何かいるの?」
扉の外から声だけがする。
オロホスがすぐそちらを見る。こちらは一拍遅れて立ち上がる。ここで顔を合わせると、また会話が早くなる。猫の鍵を見せれば、その場で意味を探し始めるだろう。今それをやらせたくない。
「入るな」
扉の方へ向けて言う。
ユウが少しだけ黙る。
「何で」
「猫だ」
「……猫?」
その響きに、少しだけ警戒より好奇心が混ざる。
まずい、と思う。
ここでユウまで入ると、また順番が変わる。オロホスとユウが一緒に猫を見る。鍵を見る。隙間を見る。その流れは、今の自分には早すぎる。
「いまは入るな」
もう一度言う。
向こうは少しだけ不満そうな気配を残して、それでも引いた。足音が一歩ぶん遠ざかる。その引き方が、諦めたんじゃなく、いまは押しても無駄だと判断しただけのものだと分かる。そういうしぶとさは、やっぱりあの子らしい。
オロホスが小さく聞く。
「会わないの」
「会わない」
「見つかってるのに?」
「だからだ」
雑だ。だが、それ以上は言えない。ユウと会えば言葉が増える。言葉が増えれば、また綻ぶ。いまそれをやるには、猫の鍵ひとつがきっかけとして大きすぎる気がした。
食糧庫を出る前に、もう一度だけ隙間を見る。猫は戻らない。
鍵の音だけが耳の奥に残っている。
廊下へ出る。ユウは少し離れた位置に立っていた。壁際までは下がっていない。けれど食糧庫の正面からは少しずれている。その立ち位置がもう、この家に少し慣れ始めている感じで嫌だった。
こちらを見る。オロホスも出てきたところで、三人の距離がまた妙に中途半端になる。近くない。遠すぎもしない。誰が先に何を言うかで、すぐ形が変わる距離だ。
「何だったの」
ユウが聞く。
「猫」
「それだけ?」
「それだけだ」
「見せてくれればいいのに」
「駄目だ」
即答すると、ユウが少しだけ眉を寄せる。
「何で、そんなに」
言葉を切る。言いたいことはたぶん分かる。そんなに止めるのか、だ。猫ひとつで大げさだと思っているのか、それとも別のものを隠していると勘づいたのか。どちらでもありそうで厄介だ。
「いまは駄目だ」
短くそう返す。
ユウは完全には引かない。けれど踏み込んでもこない。視線だけが少しだけ下へ落ちる。靴。裾。手元。何か見落としていないか探している顔だった。あの短い時間でそこまで見るのかと思うと、やっぱり気を抜けない。
オロホスはそのやりとりを見てから、なぜか少しだけ安心したような顔をした。
ユウには冷たいまま、自分にだけ違う。そういう読み方をされると困る。だが、もうされている。たぶん昨日の食堂からずっとだ。
「行くぞ」
そう言って歩き出す。
東棟へ戻る途中、ユウの足音が少しだけ後ろに残った。完全には引いていない。一定の距離を保ってついてくる。聞きたいことを飲み込んだ時の足音だ。
オロホスは逆に少し前へ出る。猫から離れたせいか、さっきより肩の力が抜けている。けれど黙ったままだ。考えている時の黙り方だ。ユウほど露骨じゃないが、この子も最近こっちの返し方を確かめるようになっている。
階段の踊り場で一度だけ立ち止まる。
食糧庫の小さな隙間。猫。鍵。ユウの足音。全部が半端に噛み合って、かえって頭の中で散らばる。
取ってしまえば早かったかもしれない。
手を伸ばして、猫を追って、無理にでも鍵を奪う。そういう動き方もできたはずだ。前のソマンなら、という言い方が何度も頭をかすめる。でも早いことが正しいとは限らない。順番を壊してから、壊したことに気づく。その感じだけは、もう何度も想像していた。
「その鍵、欲しいの」
階段下の薄暗がりから、オロホスがぽつりと聞く。
「……欲しいというか」
言葉が詰まる。
「あると困る」
「ないと?」
「ないと、もっと困るかもしれない」
変な答えだ。自分でも分かる。欲しいのか、壊したいのか、触れたくないのか、全部が中途半端に混ざっている。
けれどオロホスは少しだけ考えたあと、小さくうなずく。
「じゃあ、大事なんだ」
そう言って先に東棟へ戻っていく。
大事、という言葉だけが残った。
ユウは踊り場の下で立ち止まっていた。
「猫、変でした?」
不意に聞く。
「何が」
「普通の猫なら、見せないほどじゃないと思って」
その聞き方で、少しだけ背中が冷える。
見えている。全部ではないにしても、止め方が過剰だと気づいている。こっちの事情までは分からないままでも、その過剰さの方は拾われる。
「この家の普通を、もう分かったつもりか」
少し強く返す。
ユウは黙る。けれど目は逸らさない。
「分かってないです」
素直にそう言う。
「だから見たいだけで」
「それが危ない」
「猫が?」
「お前がだ」
言ってから、また雑だと気づく。だが訂正もできない。ユウはその答えをしばらく受け止めて、それから小さく息を吐いた。
「……じゃあ今は、やめときます」
今は、がつく。
それで十分だった。完全に諦めたわけじゃない。次の機会を待つだけだ。そういう返し方をされると、追い返したはずなのに先延ばしにしただけみたいで落ち着かない。
ユウが先に歩く。踊り場を下りる足音は軽い。さっきより少しだけ慎重だ。猫のせいか、鍵のせいか、それともこっちの反応のせいかは分からない。
監視室の扉を開ける。
青白い画面が並んでいる。いつも通りだ。食糧庫はもう静かだ。さっきまでそこに鍵をぶら下げた猫がいたことが嘘みたいだった。
椅子に座る。画面を切り替える。食糧庫。東棟。階段。どこにも灰色の影はない。代わりに、さっき見つけた金具の欠片だけが掌の中に残っている。小さすぎて、これ一つで何かが分かる気はしない。けれど、こういう役に立たなそうなものばかりが、あとになって順番を作ることもある。
机の上に置く。かすかな音がした。
猫はまた来るかもしれない。
鍵もまた見えるかもしれない。
今度こそ取るべきかもしれない。
その全部に、今はまだかもしれない、がつく。
画面の中の食糧庫は静かだった。静かすぎて、さっきの鍵の音だけが余計にはっきり思い出された。