オロホスを照らす夢   作:三日月ノア

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第17話 監視の裏

 

客室の前から離れて、しばらくは監視室にいた。

いた、はずだった。

壁の画面を順に切り替える。東棟。階段前。食糧庫。中庭側。客室前。もう一度、客室前。水差しは空。扉は少しだけ開いていて、そのまま。開いた隙間の黒さだけが変わらない。そこにいるはずの姿がない。人が動いた気配も、影も、扉の揺れもない。ただ、空になった水差しだけが昨夜の続きみたいに残っていた。

椅子から立つ。迷うほどでもなかった。

座って見ていれば足りると思っていたのに、こういう時に限って画面は肝心なところを抜く。見張っているつもりで、見失う。監視室にいる時いちばん腹が立つのは、それだった。壁一面に画面があっても、欠ける時は一ヶ所じゃ済まない。

扉を開ける。青白い光が背中側へ回る。廊下の方が暗いはずなのに、目にはそっちの方がまだ現実だった。監視室に長くいると、光っている四角の中だけが先に事実みたいな顔をし始める。あれが嫌だ。

客室の前には誰もいない。食堂も静かだ。東棟にも気配が薄い。なのに、画面の中だけが少しずれていた。さっき見た階段前の端を、ユウが横切る。ひとりだ。ひとりに見える。けれど、そんなわけがない。

追う。

階段へ向かいながら、また画面のことが頭に戻る。映っていたのはユウだけだった。オロホスは映らない。知っていたはずなのに、こういう時だけ忘れる。忘れたころに足元を抜かれる。監視室に座っていると、自分が全部見ている気になる。見えていないものの方が、だいたい先に動く。

屋敷の下は、上より冷たい。湿っているというより、空気そのものが薄い。階段の手すりに触れると、木の冷たさが指に残る。途中で立ち止まると、下の方からかすかに声がした。

「こっち?」

「たぶん」

ユウと、オロホス。

声だけで二人いると分かるのに、角を曲がるまで画面ではユウしかいなかった。そのことがまた嫌に刺さる。見えていない側に、もう一人いる。ただそれだけのことが、今の自分には妙に重い。

下りきった先に、小さな部屋があった。管理室。そう呼ぶのがいちばん近い。机。棚。壁の古い画面。操作盤。止まったままの監視映像。配線が露出したままの壁。角に積まれた箱。ガラスの割れた小さな表示灯。使われなくなって長いはずなのに、完全に捨てられた感じではない。埃の積もった場所と、そうでもない場所がまだらに残っている。誰かが時々だけ触って、そのたび中途半端にやめたみたいな部屋だった。

人が暮らすための部屋じゃない。見張るための部屋だ。屋敷の監視室を、そのまま下へ引きずってきたみたいだった。見張る部屋が二つある時点で、もう普通の家じゃない。

管理室の床には、古い靴跡が何本か薄く残っていた。新しいものではない。けれど、完全に消えきってもいない。誰かがここを通って、また戻った。その繰り返しだけが、埃の上に細く残っている。途中で急いだ靴跡もある。

扉の外で止まり、中をのぞく。

ユウが操作盤へ顔を近づけている。背伸びまではしていないが、目の高さが少し足りないのか、つま先がわずかに浮いていた。オロホスは少し離れて立っていた。近づきすぎない位置だ。けれど離れきってもいない。昨日の客室前より近い。それだけで、喉の奥が少し乾く。嫌だと思う。その嫌さの中身が、危うさなのか、早さなのか、別のものなのか、自分でもまだ切り分けられない。

「これ、監視カメラ?」

ユウが聞く。

「うん。屋敷と、ここの映像」

「じゃあ、ずっと見られてたってこと?」

「……ソマン姉様が、普段はここで見てるから」

喉が詰まる。

扉一枚向こうで、自分のことを自分抜きに説明されるのは妙な感じだった。監視役。見ている側。そういう言葉だけが先にそこへ置かれて、今ここで立っている自分の方があとから追いつく。

ユウが画面をのぞきこんだまま言う。

「でも変だな。僕しか映ってない」

少し沈黙。

「オロホス、一緒にいるのに」

オロホスは、その言葉にほんの少しだけ首を傾げた。隠すでもなく、考えてから普通に答える顔だ。

「私は映らないよ」

「え?」

「理由は分からないけど。私と、ソマン姉様と、タブン姉様は映らない」

そこで、背中がぞわつく。

知っていた。けれど知っているのと、こうして実際に聞くのは別だった。映らない。監視していたつもりで、最初から欠けた画面しか見られていなかった。その欠けた方に、いま一番大事なものが乗っている。ユウを追っている間も、オロホスは横にいたのに、画面の中では最初からいない。そういう抜けが、もう何度も起きていたのかもしれない。

ユウは画面とオロホスを見比べる。

「じゃあ、さっきも」

「たぶん、私が一緒でも分からない」

「それって、便利だね」

「……そうかな」

「少なくとも、僕だけ怒られる」

その返しに、オロホスが少しだけ目を丸くする。それから、ほんの少し遅れて口元がゆるむ。笑うまではいかない。けれど、さっきまでより空気がやわらぐ。

早い、と思う。

まだ早い。けれど、このやわらぎは原作の線から完全には外れていない。問題は、その隣に自分がいないことだ。いないせいで、会話の温度がこちらの予想より早く動く。止めに入るには遅く、黙って見ているには近すぎる。

ユウが机の上の紙を一枚取った。端が湿気で波打っている。

「最近、実験体が奇妙なことを言っているようだ――」

途中で読み上げるのをやめる。

「難しい」

「苦しそうな字?」

オロホスが聞く。

ユウは少しだけ笑って、

「それ。苦しそうな字が多い」

と返した。

その言い方に、オロホスの指先が小さく動く。拾った。本当にそう思う。ユウの言葉を意味としてより先に、感触で拾っている。難しい、より、苦しそう、の方へ先に反応する。

「読めるの」

ユウが聞く。

「少しだけ」

オロホスの返しは小さい。けれど逃げてはいない。前なら紙の方を見ないまま終わっていたかもしれないのに、今日は視線だけ残している。

「じゃあ、一緒に読めるかも」

その一言で、オロホスはすぐには返さなかった。嫌とも、うんとも言わない。けれど紙の方へ半歩だけ近づく。そういう寄り方をする時、この子はもう断っていない。

机の上には、ほかにも紙が散っていた。監視。脱走。裏切り。読める語だけが目に入る。全部を読めなくても、嫌な部屋だとは分かる。そういうものばかり残っている。角の折れた報告書、途中で止まった記録、数字だけ並んだ表。誰かが全部を整理しきれないまま、部屋ごと置いていった感じだ。

ユウは別の紙にも手を伸ばしかけ、そこでやめる。全部は持てないと分かっている顔だった。分かっていても一枚ずつ触る。その触り方が、ここへ来てまだ間もない子供のものじゃない。知らないものでも、手に取って確かめないと済まない手つきだ。

オロホスは逆に、紙の前で手が止まる。読むより先に、紙そのものの乾きや汚れを見ているみたいだった。拾っていないわけじゃない。けれど、持ち帰るところまではまだ行かない。そこに線がある。

その違いが、並んでいるだけでよく見えた。ユウは持っていこうとする。オロホスは置いていくことに慣れている。前者は外から来た子供で、後者はこの家の中で長く暮らしてきた子供だ。そんなところで分かる。

部屋の奥に、もう一つ扉があった。

昨日まで気づかなかった。いや、身体のどこかは知っていたのかもしれないが、意識の方が追いついていなかっただけだ。壁と同じ色で、取っ手だけが少し黒い。扉の下に冷たい空気が細く流れている。画面の光より、そっちの隙間の方がよほど生きている感じがする。

ユウがそちらへ向かう。オロホスもついていく。

ここで止めるべきかと、また思う。

だが止めるなら、何と言う。ソマンとしてなら「戻れ」で済む。偽ソマンとしては、その先を見てからでないと何がまずいのか確信が持てない。原作知識は地図じゃない。ところどころ滲んで、肝心なところで字が消えている。

ユウが奥の扉を押す。少し重い。錆びた金具がこすれる音。開く。

冷たい空気が向こうから流れてきた。階段よりさらに下へ続く細い通路がある。壁はむき出しで、石とも土ともつかない色をしていた。屋敷の廊下の匂いじゃない。もっと下の、閉じたところの匂いだ。湿った鉄みたいな匂いが混ざっている。灯りも弱い。壁際の古いランプが点いているのか消えかけているのか分からない明るさで、先の方だけがぼんやり見えた。

オロホスがその先を見て、ほんの少しだけ言う。

「ここ、あんまり来ない」

「でも知ってるんだ」

「知ってる、だけ」

それで十分なくらい、この子らしい答えだった。知っている。けれど使いこなしてはいない。場所も、言葉も、外のことも、たぶんずっとそうやって抱えてきた。

二人が奥へ入る。こちらは遅れてついていく。扉が閉まりきる寸前、管理室の画面へ視線を戻した。ユウだけが映っている。オロホスはやはりいない。

その事実が、今さらみたいに効いてくる。

監視しているつもりで、最初から取りこぼしていた。

その穴に、ユウが入りこんでいる。

腹立たしい。それだけじゃなく、胸の内側で別のものも動いている。追い越される感じがある。自分が画面越しにしか触れられなかった最初の導線を、いま目の前で二人が歩いていく。目は逸らせない。

ユウは通路へ入る前に、一度だけ管理室の机を振り返った。残った紙や、止まった画面を持っていけないことを少し惜しんでいる顔だった。オロホスは逆に、持っていかないことに慣れている。ここにあるものはここに置いていく、という癖が身についている。その違いが、並んで歩いているだけで見えた。

けれど今は少し違う。オロホスも拾っている。紙も、言葉も、ユウの返し方も。拾ったものをすぐには使えないだけで、置いてはいない。持ち帰り方を知らないだけだ。そのことが、かえって厄介だった。あとでどこかに刺さる形で残る。

通路の奥から、どこかで水滴の落ちる音がした。屋敷の中の音じゃない。もっと深い、閉じたところの音だ。一定じゃない。忘れたころに、ひとつだけ落ちる。

二人の足音がそれに混じる。こちらはもう少し距離を詰める。見失えば終わるという焦りと、近づきすぎれば順番を壊すという焦りが同時にあって、歩幅だけが妙に中途半端になった。

「ソマン姉様?」

不意に、オロホスが振り返る。

暗い通路の中では、顔より先に声が届く。

「何だ」

「来るの」

その聞き方がおかしい。来るも何も、もう後ろにいる。

けれどたぶん、そういう意味じゃない。この先まで来るのか、の確認だ。いつもなら止める側が、今日はまだ止めていない。その違和感を、そのまま言葉にしただけだろう。

「お前たちが先に入った」

そう返すと、オロホスは少しだけ黙る。

「じゃあ、来るんだ」

「……そうなるな」

そこでユウが振り返る。暗いせいで表情までははっきりしない。けれど足は止まっている。待っているのか、警戒しているのか、その両方かもしれない。

「ここも、入ったら駄目な場所なんですか」

聞かれる。

「だいたいそうだ」

「じゃあ何で来るんですか」

答えが一瞬遅れる。

この遅れ方を、最近みんなに見られている。前のソマンなら、こんなところで詰まらなかったんだろうと思う。そう考える時点でもう、答えは前のソマンのものじゃない。

「見失う方がまずい」

そう言うと、ユウは少しだけ息を止めた気配を見せた。

「僕を?」

「……お前らをだ」

言ってから、自分で嫌になる。修正が遅い。ごまかしも雑だ。

ユウは何も返さない。返さないまま、少しだけ前を向く。納得したわけではない。けれど覚えはした、という沈黙だった。オロホスの方は、またあの確かめるみたいな顔をする。追及はしない。ただ、置いていく。後で一人で拾い直す時の顔だ。

通路の幅は狭い。壁に肩が触れそうで触れない。先へ進むほど、上の屋敷の匂いが薄れていく。ここまで来ると、もう監視室の画面には戻れない気がした。戻ればまた見張る側の椅子があるのに、その椅子の方が遠い。見ているだけで済む場所が、上に残っている。

目の前で、ユウが一度だけ手を壁に触れた。冷たさを確かめるみたいにすぐ離す。オロホスはそれを見てから、自分では触らない。その順番が小さいのに残る。ユウはまず手を出す。オロホスはまず見る。その違いで、進み方まで変わる。

この先で何が出るのか、まだきれいには思い出せない。

だから嫌だった。思い出せないまま追っていることも、思い出せないくせに二人より先に怖がっていることも、その両方が。

通路の先はまだ暗かった。

上では画面を切り替えれば、少なくとも見ているふりはできた。ここではそれすらない。あるのは、前を歩く二人の背中と、壁の冷たさと、水の落ちる音だけだ。

それでも、もう戻る形じゃなくなっていた。

 

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