階段を下りた先は、屋敷の中なのに屋敷の匂いがしなかった。
湿った木や古い布ではなく、もっと乾いた紙と、薬品の抜けた瓶みたいな匂いがする。鼻の奥に残るのに、生活の匂いじゃない。壁も少し違う。見た目は同じ古さなのに、暮らしの擦れ方ではなく、使われなくなった施設の止まり方だった。手すりの塗装はところどころ剥がれ、角の欠けた壁紙の下から、別の材が覗いている。上の屋敷みたいに、誰かが歩きながら少しずつ壊した古さじゃない。ある時から丸ごと置かれて、そのままになったような古さだ。
足音を殺して進む。
前を行くユウの姿だけが、角を曲がるたびに見え隠れする。細い肩。躊躇なく前へ出る足。時々だけ振り返る首の角度。オロホスの姿はない。なのに、ユウは誰かと話していた。
「こっちで合ってる?」
少し先でユウが小声で聞く。
「たぶん」
オロホスの声が返る。
そこで、また胸の奥が冷えた。
見えていないのに、いる。
知っていたことのはずなのに、こうやって現実の音で突きつけられると、いちいち嫌だった。監視室の画面ではユウだけが歩いて、こっちの耳にはちゃんと二人ぶんの会話が届く。見張る側にいるつもりで、最初から半分しか拾えていなかった。その半分に、いま一番動いてほしくないものが入っている。
二人は途中の部屋へ入った。
扉は閉めない。少しだけ開いている。近づいて中をのぞく。
そこは、さっきの管理室よりさらに使われなくなった部屋みたいだった。棚。机。壁の古い画面。配線の出た箱。紙は湿気で端が波打っているのに、机の上だけ妙に乾いている。最近まで誰かがそこだけ触っていたみたいで、かえって気味が悪い。棚の中には空になった瓶や、何に使っていたのか分からない金具が乱雑に詰められていた。床には古い泥の跡が薄く残っている。人の靴跡に見えなくもないし、何かを引きずった跡にも見える。見ようと思えば何にでも見えてしまうところが、また嫌だった。
ユウが棚の上の紙を一枚取る。
「これ、読める?」
「ちょっとだけ」
オロホスが横からのぞく。姿は見えない。けれど紙の揺れ方と、ユウの視線の置き場所でそこにいるのが分かる。その分かり方にも、もう少し慣れてしまっている自分がいて嫌になる。
「最近、実験体が奇妙なことを言っているようだ……?」
オロホスが、つっかえながら読む。
「その先は?」
「蝶を見た、だって」
「蝶?」
「うん。あと、みんないなくなるって」
そこで、喉の奥が少しだけ動いた。
幻覚。脱走。監視。穴。鍵をつけた猫。原作で見た断片がまた別の順番で浮く。知っているつもりで、いまここで並び替えられると逆に困る。蝶、という単語だけ先に出てくると、こっちはもう勝手にその先を結び始めてしまう。けれど、その結び方が本当に正しいのかどうかが曖昧だ。曖昧なくせに、知っている側の顔だけしそうになる。そこが一番危ない。
ユウは紙を戻し、次の棚へ手を伸ばした。
「難しいの多いな」
「でも、苦しそうな字はある」
オロホスがそう言うと、ユウは少しだけ顔を向ける。
「苦しそうな字って、どういうの」
「読めないけど、息が詰まりそうな並び」
「……分かるような、分からないような」
その曖昧な返しに、オロホスは少しだけ考える顔をした。考える、というより、言葉の合う場所を探している顔だ。分かってほしいわけじゃない。ただ、自分の感じたものに近い言い方があるかどうかを探している。
「字が、急いでる時もある」
少し遅れて、また言う。
「急いでる?」
「うん。途中から、前の字じゃなくなる」
「手が震えたとか」
「それもあるかも」
そういうやり取りを、二人だけでやるな、と思う。
紙の意味より先に、言葉の置き方の方が先へ進んでいる。ユウは意味を聞く。オロホスは感触で返す。噛み合っているようで少しずれているのに、そのずれ方が変に合う。外から来た子供と、この家にいる子供の会話が、そのまま線になっている。
部屋の隅には、古い監視画面がいくつか積まれていた。どれも埃をかぶっているのに、一台だけ指の跡が薄く残っている。ユウはそっちにも手を伸ばしかけたが、画面が真っ黒なことを確かめるとすぐにやめた。拾えるものは拾うが、動かないものに長居はしない。そういう動き方だ。無駄そうだと判断するのも早い。早いのに、完全には見捨てない。目だけはちゃんと残していく。
オロホスは逆に、黒い画面の前で少しだけ足を止めた。そこに映るはずのものを思い出そうとしているみたいに見える。見えないものの前で立ち止まる癖が、こいつにはある。何もない方へ、むしろ引っかかる。だから放っておくと、形のないものばかり拾ってしまうんだろう。
「こっち、よく来たのか」
ユウが聞く。
「たまに」
「一人で?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「来たことはある。でも、何したかはあんまり」
知ってる、だけ。来たこと、だけ。オロホスの言葉はいつもそのあたりで止まる。中身までは出てこない。けれど、来ていない人間の声でもない。忘れているのか、最初から与えられていないのか、その両方かもしれない。
「ソマン姉様とかと?」
ユウが何気なく聞く。
オロホスはすぐには答えない。
「……いたかも」
「かも?」
「分からない。いる時も、いない時もあった気がする」
その答え方で、少しだけ肩がこわばる。
曖昧だ。曖昧なのに、完全には外していない気もする。こういうところで次女の側の記憶が混じっているのか、それともオロホス自身の断片なのか、自分にももう見分けがつかない。ただ、二人の会話の中に自分の名が出るたび、覗いているこっちだけが一歩遅れる。
部屋の奥に、もうひとつ扉がある。
錆びた取っ手。横には小さな操作盤。壁に埋め込まれたまま汚れて、誰も使わなくなった顔をしている。ユウが近づく。
「これも開けるのかな」
「前に、似たのあった」
「鍵?」
「たぶん、違う」
ここでこちらが一歩だけ早く出れば、先回りできる。そう思う。扉の向こうに回りこみ、次に出る言葉を準備して、原作より少し早く切ってしまうこともできる。
けれど、その考えが浮いた瞬間に分かる。いまそれをやると、完全に壊れる。原作を守るために先回りするつもりが、先回りした瞬間に原作から外れる。そういう失敗をしそうなところまで来ていた。守る、の顔で壊す。それをやりかねない。
ユウが操作盤の横に付いていた小さいレバーを引いた。動かない。
もう一度。動かない。
「固い」
「壊れてる?」
オロホスが聞く。
「いや、たぶん何か足りない」
そこで、通路の途中にあった壁の傷が頭に戻る。さっき見た。人がよく触る高さにある擦れ。埃のつき方がそこだけ違った。あれだ、と思うより先に、身体が動いた。
最悪だと思いながら、足がそちらへ向かう。
二人に気づかれないよう、壁の手前で止まる。指を入れる。板の一部が外れる。内側は冷たい。中に細い棒があった。長さは掌より少し長い。先が削れていて、工具というほど整っていない。レバーに差し込むための補助具かもしれないし、別の用途の残りかもしれない。どちらにせよ、ここへ隠されていたものだ。
取る。戻る。
渡すべきか。置いておくべきか。黙って持っていて、二人を止めるべきか。全部が同時に頭へ来る。考えるより先に自分の手が知っているのが、本当に嫌だった。ここを探れば何かある、と身体の方だけが知っていた。それが一番嫌だ。
迷った末、結局、二人から少し離れた床へわざと音を立てて落とした。
乾いた音が、部屋の中に軽く響く。
ユウが振り向く。
「何だ?」
オロホスもそちらを見る。
気づけ、と心の中でだけ思う。自分で出ていって渡すよりはまだましだ。まだまし、という言い訳の形だけが、どんどん増える。
ユウが拾う。
「棒……?」
操作盤のレバーへ当てる。今度は動いた。重い音を立てて、扉が少しだけ開く。金具の奥で何かが外れる音がして、それから遅れて、空気が向こうから押し出される。
胸の奥で、嫌なふうに何かが沈んだ。
助けたのか。誘導したのか。原作どおりを守ったのか。どれでもあるし、どれでもない。ただ、自分の手が先に動いたという事実だけが残る。拾わせた時点で、もう観客じゃない。直接手を出していないふりをしているだけだ。
「開いた」
ユウの声に、オロホスが少しだけ目を見開く。
「行ける」
「うん」
扉の向こうは、また別の部屋だった。古い装置。机。壁の画面。むき出しの金属管。もっと深い場所へ続く通路も見える。暗いのに、そこだけ少しだけ光っている。灯りじゃなく、装置のどこかに残った反射みたいな光だ。見た瞬間に、屋敷の裏じゃない、本体だ、という感じが強くなる。
オロホスがその一歩手前で止まる。
「ソマン姉様、怒るかな」
その言葉に、足が止まる。
ユウは少し考えてから、正直に言った。
「怒ると思う」
「……だよね」
「でも、僕は行く」
「うん。私も」
言ってから、オロホスは少しだけ首をすくめた。怖いわけじゃない。怖いのもあるが、それだけじゃない。言いつけを破る自覚と、その先にあるものを見たい気持ちが同じ顔に乗っている。ユウの横にいる時だけ、その二つが同じ場所に出てくる。それが早い。思っていたよりずっと。
二人が部屋へ入る。
こちらは一歩遅れて、その入口まで行った。床に、さっきユウが落とした紙の切れ端がある。拾う。湿っているのに、文字のところだけ妙にくっきりしていた。
そこには短くこう書いてあった。
――メインシステム
――落とせば全電源停止
そこで、息が少し止まる。
紙片を握ったまま、指先に少しだけ力が入る。知らなかった頃のユウは、それでも進めた。こっちは知っているせいで、拾った瞬間にまずさだけが先に来る。歩幅を決め損ねる。
部屋の中で、ユウが何かを見つけて小さく声を上げた。オロホスがそれに近づく。二人の距離が昨日より近い。その事実だけが、妙にはっきり見える。
まずい、とまた思う。
原作の線に近づくからだけじゃない。自分が見ていないところで、二人の間に言葉が積もっていくのが嫌なんだと、そこでようやく少しだけ気づく。
扉の縁に手を触れたまま、少しだけ息を整える。金属は冷たい。ここで出れば、全部早い。出なければ、また見ているだけだ。止めても壊れる。通しても壊れる。どちらの壊れ方がまだ後で拾えるか、その違いしかない。
部屋の中で、また小さく金属が鳴った。
今度はさっきより近い。