オロホスを照らす夢   作:三日月ノア

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第2話 花を持つ手

 

 

廊下は薄暗かった。

 

朝なのか夜なのか、屋敷の中では分かりにくい。閉め切ってもいない、カーテンはかかっていない。窓はあるのに光が弱い。湿った木の匂いと、掃除されない布の匂いが先に来る。その角を曲がる前に、足が止まった。

 

誰かいる。

 

考えたわけじゃない。気配で分かった。軽い。隠れるのが下手だ。

 

曲がる。

 

オロホスがいた。

 

両手に花を抱えている。野に咲くような小さな花ばかりだ。土がまだ湿っている。摘んできたばかりなのが見て取れた。抱え方が妙に丁寧で、目的が食べ物でも道具でもなく、それ自体を運んでいるみたいだった。

 

「……ソマン姉様」

 

呼ばれ方だけで、身体のどこかが先に硬くなる。誰のことを呼んでいるのか一瞬分からなかった。

 

「どこへ行ってた」

 

思ったよりまっすぐで鋭い声が出た。

 

オロホスは花を抱え直し、目を逸らす。

 

「少し」

 

「少し、で通すな」

 

そこで少しだけ口を引く。袖口に泥がついている。外だ、とそこで分かった。

 

「外か」

 

返事がない。

 

「出たな」

 

責めるつもりじゃなかった。けれど、責める声になった。しばらくして、オロホスがようやく言う。

 

「お花、持っていかないと」

 

「誰にだ」

 

「……みんなに」

 

その言い方が嫌だった。生きてる側だけを指していない。

 

半分開いた扉の向こうに、オロホスの部屋が少し見える。本。紙。世界地図。人が住んでいるのに、人の部屋に見えない。整えようとして諦めた跡ばかりが残っている。

 

「また、行ってたのか」

 

「……」

 

「オロホス」

 

「少しだけ」

 

少しだけ、で済ませてきた回数が多い声だった。これまでそうしてきたのだろう。

 

ここで咎めるのがソマンらしいのかもしれない。花を取り上げるのが正しいのかもしれない。けれど、手が動かなかった。代わりに視線だけが花へ落ちる。茎は細い。葉先は濡れている。摘んですぐ戻ってきたのが分かる。

 

「誰に持っていく」

 

「……」

 

「言え」

 

「苦しそう、だから」

 

小さく落ちたその言葉の方が、花より気味が悪かった。

 

原作の断片が浮く。牢。使用人。花。眠るように死んだ人。思い出しかけて、そこから先が繋がらない。ここで全部分かったような顔をするのは違う。そもそも、分かっていない。

 

「次は隠し通せ」

 

言ってから、自分で少し呆れた。見逃すつもりなのがあまりにも丸い。

 

オロホスがこちらを見る。

 

「怒らないの」

 

「怒ってないように見えるか」

 

オロホスはすぐに首を振った。けれど花を抱く手の力が少し抜けた。怒られなかった、ではなく、今すぐ取り上げられはしない、と理解した顔だった。

 

その時、別の足音が廊下の向こうから滑ってきた。

 

タブンだ。

 

「珍しいですね」

 

姿を見せる前から声だけが来る。柔らかいのに、逃げ場がない。

 

振り向く。タブンの視線がまずこちらを見て、それからオロホスの腕の花へ落ちた。全部見たな、と思う。

 

「言いつけを破っていたので、戻すところだった」

 

口が先にそう言った。

 

タブンは一拍だけ置いて、細く笑う。

 

「そうですか」

 

何を信じたのか、何を疑ったのか、顔には出さない。

 

「甘いことは、身を滅ぼしますよ」

 

こちらにも、オロホスにも聞こえる言い方だった。

 

「分かってる」

 

返した声は、少しだけソマンに近かった。短くて、切って、そこから先を見せない声。

 

タブンはそれ以上言わず、横を抜けていく。すれ違う時だけ、オロホスがそっとこちらを見た。

 

勘違いしている。

 

見逃されたと思ったのか、庇われたと思ったのか、そこまでは分からない。けれど前より少し近い方へ誤読したのは分かった。失敗だったのだろうか。

 

タブンの足音が遠ざかってからも、オロホスはその場を動かなかった。花を持ったまま、部屋の扉とこちらを見比べている。

 

「戻れ」

 

「……うん」

 

「花は隠せ」

 

「うん」

 

返事だけは素直だ。その素直さが余計に扱いづらい。

 

オロホスは部屋へ引っ込む直前、またこちらを見た。

 

「ソマン姉様」

 

「何だ」

 

「……今日、なんだか怖い場所が、違う」

 

意味が分からず、少しだけ言葉が止まる。

 

けれどオロホスはそれ以上言わなかった。自分でも上手く言えないらしい。小さく首を振って扉を閉める。

 

一人残る。

 

怖い場所が違う。

 

それはたぶん、今のソマンが前のソマンと違うということだ。怒る場所が違う。止める場所が違う。見ているものまで違う。

 

ばれるのは、下手を打った時だけじゃない。優しくしすぎても、ばれる。

 

しばらくその場に立ったまま、扉の閉まった音だけを聞いていた。

 

部屋の向こうで、花を置くような、紙を避けるような小さな物音がする。生活の音なのに、どこか息を潜めている。

 

ここでノックして、さっきの続きを聞くべきかとも思った。苦しいなら、あった方がいい。あの言葉の意味。誰に持っていくのか。本当に花だけなのか。

 

けれど、そこで踏み込むのは違う気がした。ソマンならそんな聞き方をしない。たぶん黙って見張る。黙って把握して、必要な時だけ止める。

 

問題は、その「必要な時」が自分にもまだ分からないことだった。

 

廊下を戻る。窓の外は白んでいるのかもしれないが、屋敷の中では色が死んだままだ。壁に手をつくと少し冷たい。花の匂いはまだ袖にも残っていた。

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