廊下は薄暗かった。
朝なのか夜なのか、屋敷の中では分かりにくい。閉め切ってもいない、カーテンはかかっていない。窓はあるのに光が弱い。湿った木の匂いと、掃除されない布の匂いが先に来る。その角を曲がる前に、足が止まった。
誰かいる。
考えたわけじゃない。気配で分かった。軽い。隠れるのが下手だ。
曲がる。
オロホスがいた。
両手に花を抱えている。野に咲くような小さな花ばかりだ。土がまだ湿っている。摘んできたばかりなのが見て取れた。抱え方が妙に丁寧で、目的が食べ物でも道具でもなく、それ自体を運んでいるみたいだった。
「……ソマン姉様」
呼ばれ方だけで、身体のどこかが先に硬くなる。誰のことを呼んでいるのか一瞬分からなかった。
「どこへ行ってた」
思ったよりまっすぐで鋭い声が出た。
オロホスは花を抱え直し、目を逸らす。
「少し」
「少し、で通すな」
そこで少しだけ口を引く。袖口に泥がついている。外だ、とそこで分かった。
「外か」
返事がない。
「出たな」
責めるつもりじゃなかった。けれど、責める声になった。しばらくして、オロホスがようやく言う。
「お花、持っていかないと」
「誰にだ」
「……みんなに」
その言い方が嫌だった。生きてる側だけを指していない。
半分開いた扉の向こうに、オロホスの部屋が少し見える。本。紙。世界地図。人が住んでいるのに、人の部屋に見えない。整えようとして諦めた跡ばかりが残っている。
「また、行ってたのか」
「……」
「オロホス」
「少しだけ」
少しだけ、で済ませてきた回数が多い声だった。これまでそうしてきたのだろう。
ここで咎めるのがソマンらしいのかもしれない。花を取り上げるのが正しいのかもしれない。けれど、手が動かなかった。代わりに視線だけが花へ落ちる。茎は細い。葉先は濡れている。摘んですぐ戻ってきたのが分かる。
「誰に持っていく」
「……」
「言え」
「苦しそう、だから」
小さく落ちたその言葉の方が、花より気味が悪かった。
原作の断片が浮く。牢。使用人。花。眠るように死んだ人。思い出しかけて、そこから先が繋がらない。ここで全部分かったような顔をするのは違う。そもそも、分かっていない。
「次は隠し通せ」
言ってから、自分で少し呆れた。見逃すつもりなのがあまりにも丸い。
オロホスがこちらを見る。
「怒らないの」
「怒ってないように見えるか」
オロホスはすぐに首を振った。けれど花を抱く手の力が少し抜けた。怒られなかった、ではなく、今すぐ取り上げられはしない、と理解した顔だった。
その時、別の足音が廊下の向こうから滑ってきた。
タブンだ。
「珍しいですね」
姿を見せる前から声だけが来る。柔らかいのに、逃げ場がない。
振り向く。タブンの視線がまずこちらを見て、それからオロホスの腕の花へ落ちた。全部見たな、と思う。
「言いつけを破っていたので、戻すところだった」
口が先にそう言った。
タブンは一拍だけ置いて、細く笑う。
「そうですか」
何を信じたのか、何を疑ったのか、顔には出さない。
「甘いことは、身を滅ぼしますよ」
こちらにも、オロホスにも聞こえる言い方だった。
「分かってる」
返した声は、少しだけソマンに近かった。短くて、切って、そこから先を見せない声。
タブンはそれ以上言わず、横を抜けていく。すれ違う時だけ、オロホスがそっとこちらを見た。
勘違いしている。
見逃されたと思ったのか、庇われたと思ったのか、そこまでは分からない。けれど前より少し近い方へ誤読したのは分かった。失敗だったのだろうか。
タブンの足音が遠ざかってからも、オロホスはその場を動かなかった。花を持ったまま、部屋の扉とこちらを見比べている。
「戻れ」
「……うん」
「花は隠せ」
「うん」
返事だけは素直だ。その素直さが余計に扱いづらい。
オロホスは部屋へ引っ込む直前、またこちらを見た。
「ソマン姉様」
「何だ」
「……今日、なんだか怖い場所が、違う」
意味が分からず、少しだけ言葉が止まる。
けれどオロホスはそれ以上言わなかった。自分でも上手く言えないらしい。小さく首を振って扉を閉める。
一人残る。
怖い場所が違う。
それはたぶん、今のソマンが前のソマンと違うということだ。怒る場所が違う。止める場所が違う。見ているものまで違う。
ばれるのは、下手を打った時だけじゃない。優しくしすぎても、ばれる。
しばらくその場に立ったまま、扉の閉まった音だけを聞いていた。
部屋の向こうで、花を置くような、紙を避けるような小さな物音がする。生活の音なのに、どこか息を潜めている。
ここでノックして、さっきの続きを聞くべきかとも思った。苦しいなら、あった方がいい。あの言葉の意味。誰に持っていくのか。本当に花だけなのか。
けれど、そこで踏み込むのは違う気がした。ソマンならそんな聞き方をしない。たぶん黙って見張る。黙って把握して、必要な時だけ止める。
問題は、その「必要な時」が自分にもまだ分からないことだった。
廊下を戻る。窓の外は白んでいるのかもしれないが、屋敷の中では色が死んだままだ。壁に手をつくと少し冷たい。花の匂いはまだ袖にも残っていた。