第2話では、公式攻略で重要になる監視設備、閉ざされた扉、罠、ダクトや時間制限といった「屋敷の空間そのものが危険」という感触を土台にします。([ふりーむ!][1])
また、計画資料にある「使用人の痕跡」「入れない部屋」「カメラに映らない違和感」を、説明ではなく行動の中から出します。
# 第2話 塞がない穴
嘘をついたあと、何をすればいいのか分からなかった。
通信の切れた操作卓を前に、俺は椅子へ戻った。
監視室には時計がない。
窓もない。
時間を示すものは、機械の規則正しい点滅だけだった。
赤。
消える。
赤。
消える。
その間隔を何度数えても、今が夜の何時なのかは分からなかった。
北側の画面を呼び出す。
先ほどまで白く潰れていた映像には、もう何の異常もない。古びた廊下。割れた窓。壁際へ寄せられた棚。
そして、閉じた扉。
誰もいなかった。
俺は巻き戻しらしい釦を押した。
確信があったわけではない。
けれど指は迷わなかった。
映像が逆向きに流れる。
閉じていた扉が開き、白い花が廊下を後ろ向きに進んでいく。花束だけが宙に浮いていた。
オロホスだ。
映っていない。
俺も同じだ。
原作で、そんな話をしていた気がする。オロホスも、ソマンも、タブンも監視カメラには映らない。
では、ソマンは何を見張っていたのだろう。
侵入者。
動く扉。
残された足跡。
誰も映っていない画面から、誰がどこを通ったのか推測していたのかもしれない。
俺は映像をさらに戻した。
花束が、北側の廊下へ消える。
画面を切り替える。
次の廊下。
花束が通る。
また切り替える。
食堂前。
動きはない。
もう一つ。
客室前。
誰もいない。
「どこへ行った」
独り言が、知らない女の声で返ってきた。
映像の順番を間違えたのか。
それとも途中に監視できない場所があるのか。
画面脇に、小さな数字が並んでいた。部屋番号らしい。だが配置が頭に入ってこない。
一年前にプレイしたはずなのに、屋敷の地図が思い出せない。
食堂は右だったか、左だったか。
書斎は二階だったか。
壁の穴はどの部屋にあった。
記憶の中では、何本もの廊下が重なっていた。
ゲームでは、画面が切り替われば次の部屋に進めた。
今は違う。
一つの扉を間違えれば、知らない場所へ出る。
そしてこの屋敷には、入っただけで死ぬ部屋があった。
たぶん。
それも、どの結末で見たものか覚えていない。
操作卓の下に、分厚い帳面が挟まっていた。
表紙には何も書かれていない。
開く。
日付らしい数字と、短い文章が並んでいた。
北側廊下、異常なし。
外壁、異常なし。
書斎前、異常なし。
食糧庫にて動物を確認。放置。
文字はどれも細く、角張っている。
ページを遡っても、筆跡はほとんど変わらなかった。
同じ者が書いている。
一番新しい記録へ戻る。
最後に名前があった。
ソマン。
自分の名前なのに、自分のものには見えなかった。
紙の上のソマンと、今ここにいる俺。
どちらが本物なのか。
そんなことを考えていると、扉が二度叩かれた。
返事をする前に開く。
青い髪の女が入ってきた。
長い髪を後ろでまとめ、使用人の服を着ている。足音はほとんどしなかった。
ゲームで見た姿よりも背が高い。
柔らかな表情をしているのに、目だけが笑っていない。
「記録は終わりましたか?」
タブンだった。
「まだだ」
「そうですか」
彼女は俺の横へ立った。
近い。
肩が触れるほどではない。けれど、こちらが帳面に何を書いているかを見るには十分な距離だった。
俺は白紙の行を隠すように手を置いた。
タブンの視線が、その手に落ちる。
「北側の映像が途切れました」
「通信でも聞いた」
「何がありましたか?」
「何もない」
「何もないのに、途切れたのですか?」
「機械の故障だろう」
「では、故障と記録してください」
もっともな話だった。
ペンを取る。
指に触れた瞬間、持ち方が変わった。
俺が普段していた持ち方ではない。人差し指を少し寝かせ、軸を親指の付け根へ預ける。
紙へペン先を下ろす。
北側監視設備、一時停止。
そこまでは、自分で書いた。
続いて、手が勝手に動く。
原因不明。
点検が必要。
字は帳面に残っているものと同じだった。
ソマンの字。
俺はペンを離した。
「どうしました?」
「何でもない」
「先ほどから、そればかりですね」
タブンは帳面を持ち上げた。
俺の書いた行を読む。
「点検が必要」
「ああ」
「でしたら、行きましょう」
「どこへ」
タブンが顔を上げた。
ほんのわずかに、眉が動いた。
失敗した。
ソマンなら分かる質問だった。
「北側の外壁です」
彼女はそれ以上追及しなかった。
「また穴が開いています」
◇
鍵束は重かった。
腰の金具へ吊るすと、歩くたびに脚へぶつかる。
大きな鍵。
細い鍵。
錆びたもの。
新しいもの。
歯の形が一本ずつ違う。
何十本もあるのに、どれが何の鍵なのか書かれていなかった。
タブンは先を歩いている。
廊下の角を曲がるたびに、俺がついてきているか確かめるように一度だけ振り返った。
「北側へ行くのではなかったのか」
「こちらが北側です」
「分かっている」
「そうですか」
分かっていなかった。
監視室を出て二つ目の角で、もう方角を見失っていた。
屋敷は静かだった。
静かすぎる。
風が入っているはずなのに、カーテンは動いていない。誰も掃除をしていないはずなのに、廊下の中央だけ埃が薄い。
壁には絵が掛かっていた。
家族、と書かれた小さな札。
だが絵の表面は黒く汚れていて、何人描かれているのかも分からない。
その先に、扉があった。
鍵穴はない。
隙間から、甘く腐ったような臭いがする。
俺は足を止めた。
身体が止まった、と言った方が近い。
考えるより先に、指が鍵束から離れていた。
ここには入るな。
声ではない。
記憶でもない。
身体の内側に刻まれた命令だった。
「入りたいのですか?」
数歩先でタブンが訊いた。
「いや」
「ソマンは、その部屋がお嫌いですからね」
「そうだったな」
「ええ」
タブンは歩き出した。
俺も扉から離れる。
背中を向けたあとも、臭いだけがついてきた。
廊下の突き当たりで、タブンが壁際の棚を掴んだ。
「手伝ってください」
見た目より軽い。
二人でずらすと、後ろから崩れた壁が現れた。
人一人が屈んで通れるほどの穴。
外から冷たい空気が入ってくる。
壁の下には、湿った土が散っていた。
小さな足跡がある。
「これか」
「昨日、塞いだはずなのですが」
「誰が」
「あなたが」
タブンの答えに、言葉が詰まった。
俺ではない。
昨日ここにいたソマンだ。
俺が入る前のソマン。
彼女がこの穴を塞ぎ、オロホスがまた開けた。
何度繰り返したのだろう。
「覚えていませんか?」
「覚えている」
「では、お願いします」
タブンは壁際に積まれた石を示した。
「私は西側を見てきます。動物が入り込んだ形跡がありましたので」
「一人で行くのか」
「いつもそうしています」
それだけ言って、彼女は来た道を戻っていった。
角を曲がるまで見送る。
足音は最後までしなかった。
俺は穴の前へしゃがんだ。
外は暗い。
月明かりも弱く、木々の輪郭しか見えない。
冷たい風に混じって、花の匂いがした。
「オロホス」
呼んでみる。
返事はない。
穴へ身体を入れかけたところで、右手が壁を掴んだ。
まただ。
身体が外へ出ることを拒んでいる。
腕に力が入る。
足を進めようとしても、肩から先が固まった。
「離せ」
誰に言っているのか分からない。
壁を掴んだ指を、左手で一本ずつ剥がした。
人差し指。
中指。
薬指。
最後に小指。
身体が小さく震えている。
恐怖ではなかった。
もっと強い。
外へ出てはならない。
命令を守れ。
閉じろ。
塞げ。
胸の奥から、同じ言葉が何度も押し寄せてくる。
俺は歯を食いしばり、穴の外へ顔を出した。
草が揺れていた。
少し離れた場所に、白いものが立っている。
「何してるの?」
オロホスだった。
もう花は持っていない。
「戻ってきたのか」
「うん」
「花はどうした」
「渡したよ」
「誰に」
「眠れない人」
第一話と同じ答えだった。
オロホスは穴へ近づいてくる。
裾に泥がついていた。片方の袖には、黒い染みがある。
「その人はどうなった」
「眠ったよ」
「息はしていたか?」
オロホスが止まる。
「息?」
「胸が動いていたか。声をかけたら返事をしたか」
「分からない」
「分からない?」
「眠ったら、起こしちゃ駄目だから」
当然のことのように言う。
「誰に教わった」
「お父様」
オロホスは俺の顔を見た。
「苦しい人には花を渡しなさいって。眠れたら、もう苦しくないから」
風が抜ける。
花の匂いが一瞬だけ強くなった。
原作では、実験に使われた者たちの近くで花が見つかっていた。
オロホスが運んだ花。
花を受け取った者は、眠るように死んだ。
俺は知っている。
けれど、この子は知らない。
おそらく、本当に。
「ソマン姉様?」
「もう渡すな」
言ってから後悔した。
早すぎる。
花を取り上げれば、原作とは違う何かが起こる。
あの人たちは助かるのか。
花がなくても死ぬのか。
むしろ苦しむ時間だけが延びるのか。
俺には何も分からない。
「どうして?」
「それは……」
「悪いことだった?」
オロホスの声が小さくなる。
答えを間違えてはいけない。
けれど正しい答えも知らない。
「明日、確かめる」
「何を?」
「花を渡した人間がどうなったか」
「寝てるよ」
「それを確かめる」
オロホスはしばらく黙っていた。
「姉様も来るの?」
「ああ」
「今まで、来なかったのに?」
今まで。
本物のソマンは、オロホスがどこへ花を運んでいるのか知っていたのだろうか。
知っていて放置したのか。
知らなかったのか。
あるいは、知る必要がないと思っていたのか。
「明日は行く」
それだけ答えた。
オロホスが穴の前まで来る。
「中に入れ」
「でも、穴を塞ぐんでしょ?」
「そう命じられている」
「じゃあ、もう外に出られないね」
「また壊すだろう」
オロホスは少し考えた。
「怒らないの?」
「怒っている」
「昨日も、それ言ってた」
「昨日?」
「穴を開けたとき」
本物のソマンと話した記憶だ。
オロホスには、昨日のソマンと今日の俺が続いている。
当然だ。
違う人間だと知るはずがない。
「昨日の姉様、すごく怒ってたよ。もう一度開けたら、次は外に出られないようにするって」
「そうか」
「忘れたの?」
返事が遅れた。
オロホスがこちらを覗き込む。
「姉様、今日ちょっと変」
「何がだ」
「分からない」
オロホスは穴をくぐった。
肩が俺の胸元へ触れる。
反射的に退こうとしたが、背後には壁があった。
髪から、土と花の匂いがした。
身体の奥で、また知らない感情が動く。
今度は怒りではない。
懐かしい。
そんなはずはない。
俺は今日、この子に初めて会った。
それなのに手が動いた。
オロホスの髪についていた小さな葉を取る。
取ってから、二人とも止まった。
「……何だ」
先に言ったのは俺だった。
「何でもない」
オロホスが俺の手を見る。
それから、少し笑った。
「部屋に戻れ」
「うん」
「誰にも見つかるな」
「姉様にも?」
「俺は――」
言葉を飲み込む。
「私には、もう見つかっている」
危なかった。
オロホスは気づかなかったらしい。
廊下へ駆けていく。
白い髪が角の向こうへ消えた。
俺は一人で穴の前に残された。
石を積む。
一つ。
二つ。
身体は作業の手順を知っていた。
下から大きな石を置く。
隙間へ小さな石を詰める。
壁の内側に板を渡し、金具で固定する。
俺が考えなくても、手が動く。
本物のソマンが何度もしてきた作業なのだろう。
最後の金具を留める直前で、手を止めた。
ここを留めれば、外からは開けられない。
留めなければ、押すだけで板が外れる。
タブンが確かめれば、すぐ分かる。
命令に従うなら留めるべきだ。
オロホスを守るなら、外へ出られない方がいいのかもしれない。
花を渡すことも止められる。
だが、ユウはこの穴を使う。
おそらく。
原作で壁の穴は、屋敷の外と内をつなぐものだった。
入口だったのか。
逃げ道だったのか。
それすら曖昧だ。
全部塞げば、後で必要な道まで消える。
俺は金具を留めなかった。
板を立てかけ、その前へ棚を戻す。
外から見れば塞がっている。
内側から押せば開く。
中途半端な細工だった。
ソマンなら、こんな仕事はしない。
「終わりましたか?」
背後から声がした。
振り向く。
タブンが立っていた。
いつ戻った。
足音は聞こえなかった。
「ああ」
タブンは棚の前へ来た。
指先を壁際へ差し入れる。
冷たい風が、彼女の髪をわずかに揺らした。
「風が入っていますね」
「完全には塞がらなかった」
「石も、板も、金具もあります」
「壁が崩れている」
「昨日は塞げました」
答えられない。
タブンは棚を動かさなかった。
ただ、しばらく壁を見ていた。
「オロホスに会いましたか?」
「会っていない」
二度目の嘘だった。
「そうですか」
「疑っているのか」
「いいえ」
タブンは微笑んだ。
「あなたがそう記録するのであれば、それが今夜の出来事なのでしょう」
◇
監視室へ戻ると、タブンが帳面を開いた。
北側外壁、補修完了。
そう書いた。
俺は横からその文字を見る。
「確認しただろう」
「何をでしょう?」
「塞がっていない」
「外から見れば塞がっています」
「だが――」
「ソマン」
初めて、彼女の声から柔らかさが消えた。
「記録は、起きたことをすべて書くものではありません」
タブンはペンを置く。
「残してよいことを書くものです」
意味を訊く前に、監視画面の一つが動いた。
書斎前。
誰もいない廊下。
扉は閉じている。
鍵も掛かっているはずだった。
その扉が、ゆっくりと開いた。
内側から。
「誰かいる」
俺は画面へ近づいた。
「オロホスか?」
「オロホスは書斎に入れません」
「では、誰だ」
画面の中に人影はない。
開いた扉の向こうも暗い。
しばらく何も起こらなかった。
やがて書斎の奥で、本が一冊だけ棚から抜けた。
宙に浮く。
床へ落ちる。
開いたページが、風もないのに何枚もめくれた。
そこで映像が白く潰れた。
第一話と同じ白だった。
だが今度は、画面の奥から音が聞こえた。
幼い声。
『伝えたかった言葉があるの』
俺はタブンを見た。
彼女は笑っていなかった。
「今のは」
「聞かなかったことにしてください」
「誰の声だ」
「ソマン」
タブンが画面を消した。
「あなたは今夜、何も見ていません」
監視室が暗くなる。
残った赤いランプの明かりで、彼女の横顔だけが見えた。
「それが、これまでのあなたの役目でした」
タブンは帳面を閉じる。
扉へ向かった。
「待て」
「何でしょう?」
「これまでの、とはどういう意味だ」
タブンは振り返らなかった。
「今夜のあなたは、見てはいけないものを見ようとしています」
「なら、なぜ止めない」
少し間があった。
「まだ、止める必要があるか分かりませんから」
扉が閉まる。
俺は暗い画面の前に残された。
塞がなかった穴。
眠った人間。
誰もいない書斎で動いた本。
そして、俺の嘘を記録から消したタブン。
知っている物語の中へ来たはずだった。
それなのに、知っているものが一つもない。
操作卓の下で、何かが光った。
先ほどまでなかった鍵が一本、床に落ちていた。
小さな銀色の鍵。
持ち手には、文字が刻まれていた。
――書斎。
ユウが来るまで、あと十三日。