オロホスを照らす夢   作:三日月ノア

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掛け時計見ながら5分測ってるのですかね


第20話 五分の後

五分なんて、長いようで短い。

扉の縁に手をかけたまま数を追っていたが、途中からもう分からなくなった。部屋の中では紙の擦れる音と、ユウの小さい声と、オロホスの返事が混ざっている。どれも遠くはない。むしろ近すぎる。扉一枚ぶんしか隔たっていない。その近さのせいで、入れば全部に手が届く気がするのに、実際には何ひとつ思いどおりにならない。

「……これ、何だろう」

「分からない。けど、使ってた感じ」

また紙だ。

また、二人だけで拾っている。

五分。もう過ぎていた。

それでも、すぐには足が動かなかった。ここで入れば、もう観客ではいられない。さっきまで半端な猶予で済ませていたものを、自分の手で終わらせる側へ戻らないといけない。棒を落として扉を開けさせた時点で、もう戻れていないくせに、そういうふりだけをまだ続けている。

部屋の奥で金属が触れた。椅子が少し引かれる。次にユウの声。

「これ、白板だ」

「何か書いてある?」

「えっと……」

読み上げる声が、途切れ途切れにこっちへ届く。言葉の切れ目ごとに、紙をめくる乾いた音が混ざる。机の角か、白板の縁か、どこかに指が当たる小さな音まで聞こえる。静かな部屋じゃない。息を潜めたまま、物だけが少しずつ動いている部屋だ。

「実験体及び部外者の脱走・侵入を防ぐ為に、システムの変更をしました……」

少し間。

「一部の部屋の入室・使用時には、オフィス内の装置の起動が必要になります」

その続きは聞かなくても分かる気がした。施設側の防御。侵入防止。つまり、ここから先は屋敷の怪異だけじゃなく、人が作った罠も動く。そういう場所だ。上の屋敷で鍵を回すのとは話が違う。そこまで分かっているのに、まだ扉の外で立ち止まっている自分がひどく間抜けに思えた。

ユウがもう一枚読む。

「裏切り者が医務室内のものと、屋敷内の実験体に使用していました。今後そのようなことがないように、医務室に鍵をつけます」

「鍵」

オロホスが小さく言う。

「うん。……鍵は動物飼育担当の者が管理しています、だって」

そこで、ようやく足が動いた。

扉を押す。

二人が同時に振り向く。ユウが先に目を見開いた。オロホスはその半拍あとで肩が上がる。逃げる前の顔じゃない。怒られる前の顔だ。その違いが分かるようになってしまったのも嫌だった。

「五分だと言ったはずだ」

言うと、声は思ったより低く出た。少しだけ安心する。こういう時の声は、身体が覚えている。自分のものじゃない癖に、こういう時だけ役に立つ。

ユウが白板の前から一歩だけ下がる。

「まだそんなに――」

「過ぎてる」

切る。

オロホスは白板とこちらを見比べていた。まだ手を引くか、庇うか、決めきっていない顔だ。そこがいちばん危ない。迷っている時ほど、この子は言葉より先に動く。止まっているようで、もう次の一歩を探している。

部屋の中を見回す。白板。古い装置。飼育室へ続くプレート。医務室の扉。机の上の紙。原作で見たはずの配置に似ている。似ているだけで、正確じゃない。同じ顔をしているくせに、順番だけが少しずつずれる。見覚えがある、という感覚が、いまの自分にはいちばん当てにならない。

「戻れ」

ユウへ向けて言う。

「話はあとだ」

「あとって、何のあと?」

「お前が勝手に歩くのをやめたあとだ」

ユウはそこで口を閉じた。閉じたが、引いてはいない。反発を飲み込んだ顔のまま、次の言葉を探している。そういうところが面倒だと思う。思うのに、そこを切りきれない自分も同じくらい面倒だった。こっちが雑に切れば切るほど、あいつはちゃんと見てくる。

「ソマン姉様」

オロホスが呼ぶ。

「何だ」

「医務室の鍵だけ」

「何で」

「人間用の、薬あるかも」

そこで、ユウがオロホスを見る。

オロホスは言ってから、自分でも少しだけ止まった。今のを言うつもりだったのか、自分でも分かっていない顔だった。口に出してから、自分が何を拾ったのか確かめる時の顔だ。白板に書いてあった「医務室」と「人間用」が、ようやくいまひとつにつながったのかもしれない。

「誰のためだ」

そう聞くと、オロホスはすぐには答えなかった。

「……分からない」

「分からないのに言うのか」

「分からないけど、あったら後でいるかもしれないから」

後で。

その曖昧さが、逆にこの子らしかった。治療すると決めているわけじゃない。助けると宣言するわけでもない。ただ、後でいるかもしれない。そういう方から先に言う。誰かを助けると言い切るにはまだ怖いくせに、捨てる方にも先に回れない。

「戻れ、オロホス」

「でも」

「戻れ」

二度目で、オロホスは黙る。だが、足が動かない。

その沈黙の間に、どこか遠くで鉄が鳴った。別の扉が閉まったような、乾いた音。施設側のどこかがまだ死にきっていない。そういう音だ。三人とも、その音のした方を見ない。見たら、また先へ行く理由が増えるからだ。ここにあるものは、音だけで十分に悪い。

ユウが小さく息を吐いた。

「ここ、まだ動いてるの?」

「触るからだ」

「僕だけのせいじゃないだろ」

「そう思うなら、触る前に止まれ」

返すと、ユウの眉が少しだけ寄る。怒りかけている。だがここで噛みつききらないのは、やっぱり子供だからか、それともこの場所が怖いからか。たぶん両方だ。怖いのに、引き返すほどじゃない。その半端さがいちばん扱いにくい。

白板の横の扉に「飼育室」と書かれていた。半分剥げている。下の方に、乾いた血みたいな汚れがある。視線をやると、オロホスもそっちを見た。たぶんこの子は来たことがある。全部じゃなくても、このあたりの空気は知っている。知っているから近づきたくない。

「そっちは何だ」

ユウが聞く。

「行くな」

先に言う。

「まだ何も――」

「行くな」

言い切ると、ユウは一瞬こちらを睨んだ。その睨み方は、玄関で向けられたものより少しましだ。相手を人間として見ている睨み方になっている。余計にまずい。敵意だけなら切れる。相手として見られると、こっちの綻びまで拾われる。

その時、飼育室の向こうから、かすかな引っかき音がした。

三人とも止まる。

もう一度。今度は少し長い。木じゃない。鉄に爪が当たる音だ。内側から確かめるみたいに、引いて、また止まる。

ユウが息を止める。オロホスは、逆にほんの少しだけ呼吸が浅くなった。猫の時と同じだった。近づきたくない時の反応だ。嫌いというより、身体が先に拒む。

「下がれ」

そう言うと、ユウは素直に一歩下がった。オロホスはその場にいたまま、壁際へ少し寄る。逃げない。けれど、前へも出ない。視線だけが扉から外れない。

飼育室の扉に手をかける。鍵はかかっていない。押す。重い。開いた隙間から、冷えた臭いが流れてきた。獣と、古い血と、長く閉じていた檻の金属臭。鼻の奥がすぐ嫌になる。息を吸うだけで、ここが上の屋敷と違う場所だと分かる。

中は暗かった。檻が並んでいる。ほとんどは空だ。一つだけ、奥の方で黒い塊が動いた。犬より大きい何か。目が、こっちの灯りを嫌うように細く光る。毛の色も、足の形も、暗がりのせいでうまく拾えない。ただ、ただの犬ではないとだけ分かる。檻の奥で体を低くして、飛びかかる距離だけ測っている。

「うわ」

ユウが小さく声を漏らす。

「閉めろ」

自分で言いながら、半歩だけ遅れた。

奥の檻の前に、人が倒れていたからだ。研究員か、飼育担当か。服だけ見れば人間だと分かる。片腕が檻の格子の向こうへ引っ張られた形で止まっている。死んでいる。見た瞬間に分かる類の静けさだった。助けを待つ静けさじゃない。もう何も変わらない方の静けさだ。

オロホスが小さく言う。

「……あの人、持ってるかも」

鍵のことだ。

ユウも同じことを考えたらしい。こちらを見る。行っていいかと問う顔をするあたり、昨日よりは少しだけましだ。勝手に走りこまない。止められる可能性を一応置いてくる。

「駄目だ」

言いながら、中をもう一度見る。

檻の奥の獣はまだこっちを見ていた。飛び出せる距離ではない。だが、死体の位置が悪い。近づけば危ない。危ないくせに、手が届きそうでもある。その半端さがいちばん厄介だ。

「……待て」

自分でも驚くほど小さくそう言って、壁の横にあった鉄の棒を拾う。長い。先が少し曲がっている。檻掃除か何かに使っていたのかもしれない。手のひらにざらつく。持っただけで冷たい。

ユウが息を潜める。オロホスは、こちらの手を見る。

「ソマン姉様」

「黙ってろ」

棒を伸ばす。死体の上着の胸元を引っかける。滑る。もう一度。今度はポケットの縁に当たった。引く。何か小さいものが落ちる。金属音。床を転がる。檻の手前で止まった。

鍵だ。

檻の奥の獣が動く。低く唸る。格子がわずかに鳴る。そこでやっと扉を引いた。閉める。鉄が軋む。向こうから一度だけ何かがぶつかった。扉越しでも重さが伝わる。

「今のうちだ」

床の鍵を拾う。

輪に小さな札がついていた。医務室。

ユウが、少しだけ肩の力を抜く。オロホスはそれを見てから、こちらの手元へ視線を戻した。

「取れた」

小さく言う。

「見れば分かる」

そう返したが、声が少しだけ遅れた。

棒を使って引っかけただけだ。誰でも思いつく。なのに、ユウの前でやったことで、妙に嫌な感じが残る。助けたとも、指示したとも言えない半端な介入だった。こういう半端さばかり増えていく。

「戻るぞ」

そう言って歩き出す。だがユウは、白板の前で一度だけ立ち止まった。そこに書かれた「セキュリティ変更」の文字をもう一度読んでいる。

「何だ」

「……ここから先、装置を起動すると何か閉まるかもしれない」

「いま気づいたのか」

「読んでたけど、さっきはそこまで頭回ってなかった」

正直な返しだった。

オロホスが、今度はユウを見る。

「じゃあ、気をつける」

それだけ言う。

その言い方が、もう昨日より近い。ユウが見たものを、自分も同じ重さで持つような言い方だった。短いくせに、それだけで十分に近い。こっちが命令で止めようとするたび、あっちは勝手に共有の仕方を覚えていく。

鍵を握った手が、思っていたより熱かった。医務室と書かれた小さな札は軽いのに、さっきの檻の臭いまで一緒に持ってきたみたいで、指から離れない。ユウの視線も一度そこへ落ちる。オロホスは鍵より、こっちの手の止まり方を見ている。誰も何も言わないのに、その沈黙だけで三人の並びが少し変わる。さっきまでは二人を後ろから追っていただけだったのに、いまは鍵が間に入っている。持っているのは自分なのに、持たされた感じが強かった。

前なら「近づくな」で済んだものが、もう済まない。二人とも少しずつ見てしまった。見てしまった相手に、命令だけでは戻らない。そういうところまで、一日で来た。

通路へ出る。

背中側の飼育室で、もう一度だけ檻が鳴った。三人とも振り返らない。けれど、音だけは追ってくる。檻の中の獣じゃない。あそこにまだ残っているもの全部が、背中に爪を立ててくるような音だった。

そのまま進み、角を曲がったところで、前から足音がした。

柔らかい。急がない。なのに近い。

タブンだ、とすぐ分かった。

「ソマン」

角の向こうから声だけが先に来る。

「何してる」

一拍だけ遅れて、こっちも足を止めた。

最悪だ、と思う暇もなく、オロホスの肩が硬くなる。ユウは何も言わない。ただ、逃げるべきかどうかを一瞬で測る顔になった。視線だけが廊下の幅と、こっちの位置と、戻る距離を順に舐める。

「見回りだ」

そう返す。

角の向こうから、タブンが姿を見せた。視線はまずこちら、それからオロホス、最後にユウで止まる。やわらかい顔のまま、拾うものだけ全部拾っていく目だ。白板の方を一度見る。開いたままの扉。飼育室の鍵。医務室の札。棒の先についた汚れ。全部を一度に拾った顔をした。

「そうですか」

柔らかい。

そのまま、タブンは白板の方へもう一度目をやる。何も責めない。その方がよほどまずい。責める前に整理している顔だった。怒る時ほど静かなのは知っている。知っているのに、毎回その静けさに先を取られる。

「追ってください」

それだけ言う。

短い。選ばせない声だった。

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