屋敷の外壁には、ところどころ穴がある。
正面から見れば崩れだ。けれど内側にいると分かる。風が通る。音も通る。匂いまで入る。ただ壊れているだけじゃない。使うために残された穴みたいだった。
三日目の夜、その一つの前にしゃがんで、使った。
外から人の声がする。
「また死んだって」
「病気じゃないのか」
「あのボロ屋敷のせいだって言ってるだろ」
「でも誰が行くんだよ」
怒鳴っているわけじゃない。擦り切れた声だった。咳が混ざる。言葉の切れ目に、もう言い争う元気も残っていないのが分かる。
病気。
その二文字だけで喉が重くなる。知っていたはずなのに、こうして外から聞くと近い。原作の中の設定だったはずのものが、急に人の顔を持ち始める。
あと十四日もない。
またその感覚が来る。根拠は曖昧だ。なのに消えない。監視室の机で見た日付かもしれない。身体に残っていた予定かもしれない。ただの思い込みかもしれない。どれでもありそうで、そのどれでもなさそうだった。
「外に興味が?」
すぐ後ろで、タブンの声がした。
振り向く前に背中が冷たくなる。
「見回りだ」
「便利ですね、その言い方」
タブンは少し離れたまま立っていた。近づかない。逃げ道を残したまま見る方が、この女は好きなんだろう。
「村が騒がしいようです」
「聞こえた」
「でしょうね」
一拍。
「あなた、最近少し変です」
来た、と思った。
「どこが」
「見ている場所が違う」
即答だった。
「前のあなたなら、もっと早く切っていました。迷うところで迷わないし、止まるところでも止まらない」
言い返せない。前のソマンを知らないからだ。知っているのは、原作の後半で見た思想の硬さだけで、日常のソマンがどんなふうに眉をひそめ、どこで足を止めたのか、そこまではない。
タブンはまだこちらを見る。
「でも、不調とも違う」
「……」
「少しだけ、よく見ている」
嫌な言い方だ。褒めているようにも、試しているようにも聞こえる。
穴の前から離れる。タブンの横を通る。その時、わずかに花の匂いがした。
角の先に、細い影がいる。オロホスだった。袖に土がついている。今戻ったばかりらしい。
「何ですか、オロホス」
タブンが先に聞く。
オロホスはこっちだけを見た。
「ソマン姉様に、用事」
「私に?」
「部屋の鍵が……変で」
その言い方だけで、身体が先に分かった。どの扉か。どこが噛んでいるか。半分くらいは。頭じゃなく、指先の方が知っている感じだった。
「行く」
先にそう言う。
オロホスが少し目を丸くした。タブンは何も言わない。ただ視線だけが細い。
三人で少し歩く。途中でタブンは別の廊下へ逸れた。見張られているのか、外されたのか、その両方か。
オロホスの部屋の前で、扉は半端に引っかかっていた。鍵のせいじゃない。木が膨らんでいるだけだ。
差し込み、少し持ち上げて回す。すんなり閉まる。
「……直った」
「そうだな」
「ソマン姉様、そういうの得意だったっけ」
知らない。けれど、詰まる方が不自然だった。でもそれほど難しくない。ソマンらしくはないのか。
「忘れたな」
雑に返す。
オロホスは追及しなかった。代わりに扉を開け閉めして、それから小さく言う。
「・・・ありがとう」
その一言が妙に残る。監視対象に礼を言われる筋はないのに、妙にまっすぐ届く。
「次は、自分でやれ」
強めに言う。
オロホスは小さくうなずいた。けれど怒られた顔ではなかった。むしろ少しだけ、ほっとしているように見えた。
意味が分からない。ある程度は突き放しているつもりだった。
扉が閉まる。
一人残る。
十四日もない。その間に、ソマンのふりを覚える。鍵を覚える。タブンの視線の癖を覚える。オロホスがどこに何を持っていくのかも。
見ているだけじゃ足りない。
その前に、まず家の中でソマンとして破綻しないことだ。違う、と見抜かれたら終わる。優しすぎても駄目で、冷たすぎてもたぶん駄目だ。本来のソマンを知っているのは、俺じゃなく、あの二人の方なのだから。
それでも、もう引き返す場所はなかった。穴の向こうから入ってくる夜気が、まだ細く廊下に残っていた。
監視室へ戻る前に、外壁の穴をもう一度見た。夜風は細いのに、そこだけ家の中へ深く入ってくる。オロホスはあそこを使う。村の声も、病気の噂も、たぶんあの穴から少しずつ屋敷の中へ入っている。
もし十四日後にユウが来るなら、あいつは正面から来るのか。それとも別の道か。原作の記憶を引っ張ろうとしても、そこだけ嫌にぼやけている。細かい順番がない。あるのは、来る、という感じだけだ。
それが一番厄介だった。知っているつもりで、肝心の手順を外す。そういう失敗だけは、もうしそうな気がしている。だから先に動くしかない。原作通りを待つんじゃなく、その前に屋敷の中の目と足をこちらで持つしかない。
扉の向こうで、オロホスがもう一度開け閉めを試す音がした。ぎこちない。まだ少し引っかかっているのかもしれない。助けたつもりはない。ただ直しただけだ。なのに、向こうはたぶんそう受け取らない。そこもまた面倒だった。
タブンの足音はもう遠い。けれど、完全に離れた感じはしなかった。あの女は、彼女はたぶん、見ていない時ほど見ている。そういう嫌さがある。