監視室は、朝になっても朝の顔をしなかった。
壁の画面だけが光っている。東。北。階段。食糧庫。どれを先に見るか、指が知っている。切り替えの順番まで迷わない。それがいちいち癪に障る。
東棟の端で、白い影が揺れた。
オロホスだ。
立ち上がる。鍵束を掴む。どの鍵が上で、どれが重いか、触れただけで分かった。椅子を引く音まで小さく抑えてしまう。こういうところが一番気味が悪い。
廊下へ出る。冷えが頬に触れる。湿った木の匂い、掃除されない布の匂い、その奥に少しだけ花。
曲がる。
オロホスは床にしゃがんでいた。扉の下から紙を引っ張り出している。足音で気づいたらしく、肩がひとつ揺れた。
「何をしてる」
オロホスは立ち上がり、紙を背中に隠す。
「別に」
「別に、で通すな」
「……何でもないの」
「見せろ」
「やだ」
即答だった。
少しだけ間が空く。オロホスも、自分で言ってから気づいたらしい。すぐ目を逸らす。断ることに慣れていない顔だ。
「紙」
手を出す。
しばらく迷ったあと、オロホスは諦めたみたいに差し出した。古い紙だ。端が裂けている。水に濡れて乾いたような跡がある。読めたのはほんの少しだけだった。
――見て見ぬふりはできない
――助けにいく
――私はきっと
そこで切れている。
使用人の字だろう。たぶん。ガーベラかどうかまでは分からない。分かったふりをして外すのが一番まずい。
「これは預かる」
「返して」
「内容を見てからだ」
「ただの紙なのに」
「なら何で拾った」
返せない。返せないまま黙る。
その沈黙の間に、袖口の泥が目についた。今日も外へ出たのだと、そこで分かる。花の匂いも少し濃い。
「また出たのか」
返事はない。
「オロホス」
呼ぶと、小さく言った。
「少しだけ」
「少し、で済ませるな」
東棟の画面を開いた時、廊下は空だった。
けれど、その空き方が少し変だった。
何が変なのか、先に分かったのは頭じゃない。身体の方だった。あの角の先は、立つ位置によって半歩ぶんだけ死角ができる。そこに誰かがいれば、画面の切り替えでは一瞬見失う。
立ち上がる。鍵束は持たない。今回は要らないと、指が先に知っていた。
東棟を曲がる。
オロホスがいた。壁際に寄って、何かを胸に抱えている。花ではない。紙でもない。小さな瓶だった。
「またか....何してる」
オロホスの肩が跳ねる。
「……ソマン姉様」
「それ、どこから持ってきた」
オロホスは瓶を隠そうとして、それから無理だと分かったみたいに止まる。
「食糧庫の、奥」
「勝手に触るな」
「でも、倒れてて」
「だから触るな」
言いながら、瓶を取り上げる。軽い。中身は半分ほどしか残っていない。ラベルは剥がれて、読めるのは数文字だけだった。
オロホスは怒られる前の顔をしていた。
けれど、こちらがすぐに処分も報告もしないので、少しだけ表情が揺れる。
「……怒らないの」
「怒ってる」
「前のソマン姉様なら、もっと」
「前は前だ」
自分でも少し雑だと思う。
でも、そこで長く言う方が不自然だった。
「戻れ」
オロホスは頷く。
その頷き方が、見つかったことへの諦めというより、隠してもらえるかもしれない方へ寄っているのが見えて、少しだけ嫌になる。
廊下の向こうで、足音が止まった。
タブンだ。
「見回りですか」
「そうだ」
「珍しいものを持っていますね」
視線は、こちらの手の瓶に向いている。
「落ちていた」
「そうですか」
タブンはそれ以上言わない。
けれど、その“そうですか”が、何一つ信じていない声なのはすぐ分かった。
「……最近、よく歩いてる」
「見回りだ」
「前は、もっと座ってた」
それだけ言って、扉の向こうへ引っ込む。
手の中の紙だけが残った。預かっただけだ。そういうことにしておく。けれど、たぶんもう違う。監視のつもりで動いているのに、拾い上げているものが増えすぎている。
画面の隅で、階段前を誰も通らないまま時間だけが進む。監視室にいると、その進み方がひどく遅い。じっと座っていれば安全だ。少なくとも、余計な違いは見せずに済む。けれど今のソマンが前のソマンと同じように座っていられるかと言われると、たぶん無理だった。見えたものをそのままにしておくのが、もう少しだけ難しくなっている。
預かった紙を一度ひらく。湿っているせいで、指に繊維が張りついた。続きを読めるかと思ったが、滲んだ跡しかない。助けにいく。私はきっと。そこから先がない。ないせいで、逆に残る。最後まで読めない文章は、途中で拾った花より質が悪い。
東棟の画面をもう一度見る。扉は閉まっている。何も動かない。静かだ。けれど、さっき部屋の中へ引っ込んだオロホスが、今その紙の代わりに別の何かを隠していても驚かないと思った。花にしろ、記録にしろ、この家の中であの子だけが拾って歩いているものが多すぎる。
見失うな。
机に残っていた命令文が頭に戻る。侵入者ではなく、別の意味で、と思ってしまった時点で、だいぶまずい。命令の受け取り方まで変わり始めている。
監視室の扉の外で、きし、と小さな音がした。反射で視線が上がる。誰も入ってこない。たぶん風だ。それでも肩が先に強張る。ソマンなら、こういう時もすぐに鍵へ手が伸びるんだろうか。確かめるように鍵束を触る。冷たい金属の感触だけがまともだった。
結局、その朝は東棟の画面を開いたままほとんど動かなかった。見張っているのか、待っているのか、自分でもよく分からないまま。