夜の方が、オロホスはよく動いた。
昼は屋敷の中にいる。夜になると消える。監視室の画面でも、廊下の足音でも、戻ってきたあとの袖の泥でも分かる。
今夜もそうだった。
食糧庫の横の穴は低い。崩れたというより、擦れて削れた穴だ。石の縁が丸い。何度もくぐってきた形をしている。外から吹きこんだ土が、穴の内側にまで薄く溜まっていた。
先にオロホスがくぐる。
少し待って、後ろについた。しゃがんで抜けると、肩口が石に当たる。こういう通り方まで、身体の方は知っているのが腹立たしい。
外は冷えた。庭と呼ぶには荒れすぎている。石畳は土に沈み、草が勝手に伸びていた。その隙間にだけ花がある。白、薄い黄、くすんだ紫。小さい。踏めばすぐ駄目になりそうなのに、この辺りではそれだけが妙に残っている。
オロホスはしゃがんだ。
一本ずつ摘む。遊ぶ手じゃない。慣れている。茎を折らないよう、指先だけで寄せていく。抱え直す時も、花の方を先に見る。数を減らさないようにしている手だ。
風が鳴る。
どこかで、鈴みたいな細い音がした。
足が止まる。
いる。
草の揺れが、一箇所だけ遅い。暗がりの濃さも違う。気配と呼ぶには軽すぎるのに、そこだけ空気が薄い。
オロホスが小さく言った。
「持ってきたよ」
返事はすぐに来なかった。
草の向こうで影が揺れる。背丈は子供くらいなのに、輪郭が落ち着かない。立っているというより、そこに集まっているように見える。風で寄せられた煙のかたまりみたいに、端からほどけそうだった。
「また来た」
声だけが届く。
オロホスは花を抱え直した。
「うん」
「なんで」
「今日も」
「いらない」
そこで、オロホスの手が止まった。
「苦しいなら、あった方がいい」
小さい。
けれど、引かない。
別の影が寄る。
「やさしいね」
「……違う」
「じゃあなんで」
答えない。
この子は大きく逆らわない。なのに、こういうところだけ捨てない。花を持ってくる。外へ出る。怒られると分かっていて、そのぶんだけはやる。
原作の断片が掠めた。実験体。使用人。牢。花。眠るように死んだ人。
順番は曖昧だ。ここで分かった顔をする方が危ない。
影の一つが少し近づく。
「お花、今日は少ない」
拗ねた言い方に聞こえた。けれど、数を覚えているだけかもしれない。オロホスは腕の中を見た。
「急いでたから」
「どうして」
「見られてた」
影が揺れた。笑ったのか、引いたのか分からない。少し遅れて、別のところでもう一つ揺れた。人数が合っているのかどうかも、見ているうちに分からなくなる。
「また怒られるの」
「……うん」
「なのに来るの」
「来る」
短い。
でも、そこで終わらない。
「持ってこないと、苦しそうだから」
喉の奥で息が止まる。指先に力が入りすぎて、草が少し潰れた。
出るべきか迷った。ソマンなら止める側だ。ここで引きずってでも戻す。
そのはずなのに、足が出ない。出ればソマンの顔で壊す。出なければ、そのまま置くことになる。
草が鳴る。
その時、影の一つがこっちを向いた。
「そっちのおねえさんも、いる」
空気が変わった。
オロホスが振り返る。目が合う。
先に出たのは、怒られる、だった。そっちが先に来るのがこの家らしい。
草の向こうは違う。さっと引いた。嫌っているというより、見つかった時の逃げ方に慣れている。すぐ消えないのも、逃げきる距離を測っているみたいで気味が悪い。
前へ出る。
「戻るぞ」
きつく言う。
オロホスは少し身を縮めた。
「でも」
「戻れ」
二度目で、口をつぐんだ。花を抱えたまま穴へ向かう。
背中に声が飛ぶ。
「また来るの」
オロホスは振り返らない。
「……持ってくるから」
それだけだった。
穴の手前、草に花が一輪落ちていた。誰が落としたのか分からない。置いたのかもしれないし、風で転がっただけかもしれない。拾われなかった指みたいに、石に引っかかっていた。
屋敷に戻ると匂いが変わる。湿った木、冷えた石、掃除されない布。外で鳴っていた風も、こっちでは急に弱い。人が住んでいるはずなのに、息の浅い家だ。
食糧庫の前で、オロホスが立ち止まった。
腕の中の花を二つに分ける。こっちへ寄越したぶんは雑だ。残りは抱え直して、茎の向きまで揃える。花首が潰れていないかまで見ている。
差がある。
「どこへ持っていく」
聞くつもりはなかったのに、口が動いた。
オロホスは少し考えた。
「……いつものところ」
「どこだ」
「ソマン姉様は、知らなくていい」
言ってから、少し肩をすくめる。言いすぎたと思ったらしい。
けれど引っ込めない。珍しい。隠す線だけは、もう決まっている顔だった。
「見つかったらどうなる」
「怒られる」
「分かっててやるのか」
「……うん」
即答ではない。
でも、否定もしない。
全部逆らうならまだ分かる。こういう方が面倒だ。
「次は隠せ」
そう言うと、オロホスは花を抱えたまま、今度ははっきり頷いた。
頷くな、と少し思う。
命令として受け取るには変な言葉だ。けれどこの子には、その方が自然なんだろう。怒られて、命じられて、その隙間だけ抜ける。
「ソマン姉様」
見ると、オロホスは丁寧な方の花だけを抱きしめていた。
「何だ」
「……あっちのこと、言わないで」
あっち。
外。穴の先。草の向こうの影。まとめてそう言ったんだろう。
「誰に」
「タブン姉様に」
少し間が空く。
「どうして」
「嫌だから」
それだけだった。
怒られるのが嫌なのか。花を取り上げられるのが嫌なのか。あっちを消されるのが嫌なのか。
たぶん、まだ自分でも分けられていない。
「隠すなら、もっとましにやれ」
「……うん」
さっきより小さい返事だった。
オロホスは東棟へ消えた。足音が軽い。見つかった帰りの足じゃない。今日も持っていけた方を、先に数えている。
監視室へ戻る。
机の隅に、受け取った花を置く。場違いだった。けれど捨てる気にもなれない。指先にまだ外の湿りが残っている。爪の間に土まで入っていた。
画面の中の東棟は静かだ。さっきまで外にいた気配だけが、嘘みたいに消えている。
それでも落ち着かない。監視室では見えないものが、外へ出ると急に増える。草の湿り。石の冷たさ。花を摘む時の、オロホスの指先。穴の外で声を待っている間の、あの子の立ち方。
監視だけなら、もっと遠くでよかった。画面の中に閉じ込めておけば、戻れの一言で済む。実際に外へ出ると、足が止まる。見えなくていいものまで見える。
近いと、命令の向きが鈍る。
花を一本、指で転がす。細い。すぐ折れそうだ。机の木目の上を転がるたび、先の方が少し揺れる。
それなのに、あの子は毎回これを抱えて外へ出る。
画面の隅で、食糧庫の前を誰も通らないまま時間だけが進む。
静かだ。
なのに、残っている。
また来た。
待っているのは、村の方だけじゃないのかもしれない。
そう思って、すぐ切る。まだ早い。意味を繋げすぎると外す。外したまま進めば、今度は本当に間に合わない。
机の花は、画面の青白さの中で色を失っていた。
さっきまで草の中にあった時は、もっとましな顔をしていたのに、ここへ持ち込んだだけで急に標本みたいになる。。