オロホスを照らす夢   作:三日月ノア

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第5話 穴の先の花

 

 

夜の方が、オロホスはよく動いた。

 

昼は屋敷の中にいる。夜になると消える。監視室の画面でも、廊下の足音でも、戻ってきたあとの袖の泥でも分かる。

今夜もそうだった。

 

食糧庫の横の穴は低い。崩れたというより、擦れて削れた穴だ。石の縁が丸い。何度もくぐってきた形をしている。外から吹きこんだ土が、穴の内側にまで薄く溜まっていた。

 

先にオロホスがくぐる。

少し待って、後ろについた。しゃがんで抜けると、肩口が石に当たる。こういう通り方まで、身体の方は知っているのが腹立たしい。

 

外は冷えた。庭と呼ぶには荒れすぎている。石畳は土に沈み、草が勝手に伸びていた。その隙間にだけ花がある。白、薄い黄、くすんだ紫。小さい。踏めばすぐ駄目になりそうなのに、この辺りではそれだけが妙に残っている。

 

オロホスはしゃがんだ。

 

一本ずつ摘む。遊ぶ手じゃない。慣れている。茎を折らないよう、指先だけで寄せていく。抱え直す時も、花の方を先に見る。数を減らさないようにしている手だ。

 

風が鳴る。

どこかで、鈴みたいな細い音がした。

 

足が止まる。

 

いる。

 

草の揺れが、一箇所だけ遅い。暗がりの濃さも違う。気配と呼ぶには軽すぎるのに、そこだけ空気が薄い。

 

オロホスが小さく言った。

 

「持ってきたよ」

 

返事はすぐに来なかった。

 

草の向こうで影が揺れる。背丈は子供くらいなのに、輪郭が落ち着かない。立っているというより、そこに集まっているように見える。風で寄せられた煙のかたまりみたいに、端からほどけそうだった。

 

「また来た」

 

声だけが届く。

 

オロホスは花を抱え直した。

 

「うん」

「なんで」

「今日も」

「いらない」

 

そこで、オロホスの手が止まった。

 

「苦しいなら、あった方がいい」

 

小さい。

けれど、引かない。

 

別の影が寄る。

 

「やさしいね」

「……違う」

「じゃあなんで」

 

答えない。

 

この子は大きく逆らわない。なのに、こういうところだけ捨てない。花を持ってくる。外へ出る。怒られると分かっていて、そのぶんだけはやる。

 

原作の断片が掠めた。実験体。使用人。牢。花。眠るように死んだ人。

順番は曖昧だ。ここで分かった顔をする方が危ない。

 

影の一つが少し近づく。

 

「お花、今日は少ない」

 

拗ねた言い方に聞こえた。けれど、数を覚えているだけかもしれない。オロホスは腕の中を見た。

 

「急いでたから」

「どうして」

「見られてた」

 

影が揺れた。笑ったのか、引いたのか分からない。少し遅れて、別のところでもう一つ揺れた。人数が合っているのかどうかも、見ているうちに分からなくなる。

 

「また怒られるの」

「……うん」

「なのに来るの」

「来る」

 

短い。

でも、そこで終わらない。

 

「持ってこないと、苦しそうだから」

 

喉の奥で息が止まる。指先に力が入りすぎて、草が少し潰れた。

 

出るべきか迷った。ソマンなら止める側だ。ここで引きずってでも戻す。

そのはずなのに、足が出ない。出ればソマンの顔で壊す。出なければ、そのまま置くことになる。

 

草が鳴る。

 

その時、影の一つがこっちを向いた。

 

「そっちのおねえさんも、いる」

 

空気が変わった。

 

オロホスが振り返る。目が合う。

先に出たのは、怒られる、だった。そっちが先に来るのがこの家らしい。

 

草の向こうは違う。さっと引いた。嫌っているというより、見つかった時の逃げ方に慣れている。すぐ消えないのも、逃げきる距離を測っているみたいで気味が悪い。

 

前へ出る。

 

「戻るぞ」

 

きつく言う。

 

オロホスは少し身を縮めた。

 

「でも」

「戻れ」

 

二度目で、口をつぐんだ。花を抱えたまま穴へ向かう。

 

背中に声が飛ぶ。

 

「また来るの」

 

オロホスは振り返らない。

 

「……持ってくるから」

 

それだけだった。

 

穴の手前、草に花が一輪落ちていた。誰が落としたのか分からない。置いたのかもしれないし、風で転がっただけかもしれない。拾われなかった指みたいに、石に引っかかっていた。

 

屋敷に戻ると匂いが変わる。湿った木、冷えた石、掃除されない布。外で鳴っていた風も、こっちでは急に弱い。人が住んでいるはずなのに、息の浅い家だ。

 

食糧庫の前で、オロホスが立ち止まった。

腕の中の花を二つに分ける。こっちへ寄越したぶんは雑だ。残りは抱え直して、茎の向きまで揃える。花首が潰れていないかまで見ている。

 

差がある。

 

「どこへ持っていく」

 

聞くつもりはなかったのに、口が動いた。

 

オロホスは少し考えた。

 

「……いつものところ」

「どこだ」

「ソマン姉様は、知らなくていい」

 

言ってから、少し肩をすくめる。言いすぎたと思ったらしい。

けれど引っ込めない。珍しい。隠す線だけは、もう決まっている顔だった。

 

「見つかったらどうなる」

「怒られる」

「分かっててやるのか」

「……うん」

 

即答ではない。

でも、否定もしない。

 

全部逆らうならまだ分かる。こういう方が面倒だ。

 

「次は隠せ」

 

そう言うと、オロホスは花を抱えたまま、今度ははっきり頷いた。

 

頷くな、と少し思う。

命令として受け取るには変な言葉だ。けれどこの子には、その方が自然なんだろう。怒られて、命じられて、その隙間だけ抜ける。

 

「ソマン姉様」

 

見ると、オロホスは丁寧な方の花だけを抱きしめていた。

 

「何だ」

「……あっちのこと、言わないで」

 

あっち。

外。穴の先。草の向こうの影。まとめてそう言ったんだろう。

 

「誰に」

「タブン姉様に」

 

少し間が空く。

 

「どうして」

「嫌だから」

 

それだけだった。

 

怒られるのが嫌なのか。花を取り上げられるのが嫌なのか。あっちを消されるのが嫌なのか。

たぶん、まだ自分でも分けられていない。

 

「隠すなら、もっとましにやれ」

「……うん」

 

さっきより小さい返事だった。

 

オロホスは東棟へ消えた。足音が軽い。見つかった帰りの足じゃない。今日も持っていけた方を、先に数えている。

 

監視室へ戻る。

 

机の隅に、受け取った花を置く。場違いだった。けれど捨てる気にもなれない。指先にまだ外の湿りが残っている。爪の間に土まで入っていた。

 

画面の中の東棟は静かだ。さっきまで外にいた気配だけが、嘘みたいに消えている。

それでも落ち着かない。監視室では見えないものが、外へ出ると急に増える。草の湿り。石の冷たさ。花を摘む時の、オロホスの指先。穴の外で声を待っている間の、あの子の立ち方。

監視だけなら、もっと遠くでよかった。画面の中に閉じ込めておけば、戻れの一言で済む。実際に外へ出ると、足が止まる。見えなくていいものまで見える。

 

近いと、命令の向きが鈍る。

 

花を一本、指で転がす。細い。すぐ折れそうだ。机の木目の上を転がるたび、先の方が少し揺れる。

それなのに、あの子は毎回これを抱えて外へ出る。

 

画面の隅で、食糧庫の前を誰も通らないまま時間だけが進む。

静かだ。

 

なのに、残っている。

 

また来た。

 

待っているのは、村の方だけじゃないのかもしれない。

そう思って、すぐ切る。まだ早い。意味を繋げすぎると外す。外したまま進めば、今度は本当に間に合わない。

 

机の花は、画面の青白さの中で色を失っていた。

さっきまで草の中にあった時は、もっとましな顔をしていたのに、ここへ持ち込んだだけで急に標本みたいになる。。

 

 

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