オロホスを照らす夢   作:三日月ノア

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第6話 役目の外

 

 

 

 

呼ばれたわけじゃなかった。

 

ただ、廊下の先にタブンが立っていた。避ければ不自然になる場所に、静かに。ここを通ると分かっていて待っていた立ち方だ。

 

「ソマン」

「何だ」

「少し」

 

それだけ言って歩き出す。ついていくしかない。

 

西棟は冷えていた。閉まったままの扉が並ぶ。壁紙の端が浮き、窓枠には薄く埃が溜まっている。屋敷の中なのに、ここだけ古く止まったままだった。掃除が追いつかないんじゃない。触るな、とでも言われた時間が、そのまま残っている。

 

タブンは小部屋の前で止まった。

 

「開けて」

「何で」

「あなたの鍵で開くか、見たいので」

 

試してる。

 

鍵束を出す。指が迷わない。二本目。差し込んで、少し持ち上げる。乾いた引っかかりのあと、回った。

 

「やっぱり、そこは忘れていないんですね」

 

忘れていないんじゃない。最初から自分の記憶じゃないだけだ。

けれど、言えるわけがない。

 

中は書類置き場だった。棚。湿った紙。古い薬品の匂い。机の上には黒ずんだ紙が残り、角には乾いた泥みたいなものがこびりついている。誰かが慌てて手を引いたまま、もう戻らなかった部屋に見えた。

 

タブンが一枚だけ抜き取る。

 

「村から招いた者の経過記録です」

 

視界の端に、単語だけが入る。

 

発汗。痙攣。呼吸。停止。

 

それで足りた。

 

紙の白さより、そこに残った指跡の方が目につく。何度もめくられた跡だ。研究の記録というより、起きたことを認めたくなくて、それでも見返した紙に近い。

 

「見せる気か」

「見る資格はあるでしょう」

 

資格。

 

その言い方で腹の奥が冷える。信頼じゃない。同じ側だと思われている。役目を果たす者として。

 

タブンは紙を戻した。

 

「村が騒がしいようです」

「知ってる」

「でしょうね」

 

一拍。

 

「だから今のうちに、揺れないでください」

 

少し遅れて意味が刺さる。

 

「……誰の話だ」

「あなたの話です」

 

初めて、まっすぐ目を向けてきた。

 

「オロホスを見逃しすぎる」

 

図星だった。

 

否定はできる。できるはずなのに、喉がすぐ動かない。その間がいちばん悪い。

 

「監視はしてる」

「結果が、外出と花ですか?」

 

静かな言い方なのに、きつい。

 

「外へ出る時間も分かっているでしょう。止める気があるなら、とっくに止めている」

 

返す言葉を探す。ないわけじゃない。監視している。様子を見ている。大きく崩れてはいない。言い訳ならいくらでもある。

口にした瞬間、薄くなるのが分かるだけで。

 

「ソマン。役目を忘れないで」

 

役目。

 

監視。排除。命令。お父様の夢のために在り続けること。

 

全部、自分のものじゃない。なのに今はそれで呼ばれている。ソマンの顔で立っている以上、そこからは逃げられない。

 

棚の上に別の紙束が見えた。研究報告じゃない。名前と数字の並んだ一覧だ。人数、日付、客室、迎え。そこまで読んだところで、タブンが紙の端を指で押さえた。見るなとは言わない。けれど、それ以上進ませる気もない。

 

「……お前は、忘れたことないのか」

 

口から出ていた。

 

タブンは少しだけ黙る。

 

「ありません」

 

即答ではなかった。けれど、言い直さない。その一拍の方が、かえって本物に見えた。迷ったあとでも、その答えしか選ばない側の人間だ。

 

「オロホスは、あれでいて外を拾いすぎます」

タブンが紙束を戻しながら言う。

「放っておけば、そのうちもっと面倒になる」

「面倒、で済ませるのか」

「済ませるしかないでしょう」

 

柔らかい。なのに、そこだけ少し低かった。

 

「あの子は、お父様の夢に従っていればいいんです。余計なものを見て、拾って、覚える必要はない」

 

必要はない。

 

この家でいちばんよく使われてきた言葉なんだろうと思う。見るな。拾うな。考えるな。知るな。その先に、今のオロホスがいる。

 

けれど、拾ってしまっている。花も、紙も、外の声も。もう端を見てしまった以上、前みたいに何もなかったことにはできない。

 

「……それを、お前が決めるのか」

「決めるのではなく、戻すだけです」

「戻る場所があるみたいに言うな」

「あるでしょう」

 

タブンはそこで初めて、ほんの少しだけ眉を動かした。

 

「私達は最初から、そういうものです」

 

言い切るのが早い。たぶんこの女は、言い切り続けることで立っている。揺れたら、そのまま足場ごと落ちるんだろう。

 

部屋を出る。扉を閉める音が薄い。西棟の空気はどこか乾いていた。誰も通らない場所ほど、かえって紙の匂いが濃い。

 

廊下へ出る時、タブンは先に歩かなかった。半歩だけずれて、こちらを通す。背中を見せないためだと分かる。その慎重さが、昔からの癖みたいで嫌だった。

 

西棟を離れてからも、しばらく紙の匂いが鼻に残った。村から招いた者。経過記録。言葉にすると簡単すぎる。けれど、あの紙一枚で、この屋敷が閉じた家じゃなく、外から人を飲み込む場所だったことだけは十分すぎるほど分かった。

 

廊下の途中の窓から、外の白い靄が見えた。村の方角だ。煙か霧かは分からない。けれど、遠くで人が苦しんでいることだけは、もう嘘みたいには思えない。

 

ユウが来る。

 

その考えが、そこで急にはっきりした。来る。村を救いたくて。原作と同じように。たぶん、ほとんど何も知らないまま。

 

そして屋敷へ入り、オロホスと会う。秘密に近づく。最後には――

 

そこで止める。

 

同じように進むと決まったわけじゃない。けれど放っておけば近づく。自分がいるからだ。自分がいるせいで、最初からもう少しだけズレている。

 

窓の前で足が止まる。白い靄は動かない。ただ浮いているだけだ。煙ならまだいい。誰かが火を焚いているだけで済む。けれど、別のものに見え始めるとまずい。原作知識があるせいで、何でもそっちへ結びつけそうになる。そういう時ほど外す。分かっているのに、止まらない。

 

監視室へ戻る。画面はいつも通りだった。階段前。東棟。食糧庫。中庭側。何も起きていないみたいな顔をしている。

なのに、さっきより全部が急いて見える。ユウが来る前に、確かめなければいけないことが増えすぎていた。机の端の花も、もう少しだけ萎れていた。昨日より。

 

どの穴を使うか。どの扉が内側から噛むか。タブンが立つ場所。オロホスが花を持って出る時間。

どれも小さい。けれど、こういうものの積み重ねで順番は変わる。原作の記憶が曖昧ならなおさら、自分で屋敷の中を押さえるしかない。

 

鍵束を机に置く。金属が小さく鳴る。その音だけで、監視室の静けさがやけに薄く思えた。ここは安全なんじゃない。ただ遅いだけだ。座っていると、全部が遅く見える。その遅さに甘えていたら、気づいた時には原作の線に追いつかれている。

 

扉の向こうで、誰かが通り過ぎた気配がした。足音はしない。けれど気配だけある。オロホスか、タブンか、それとも別か。画面に映らないものがある以上、映っている方だけ見ていても足りない。

 

ユウって名前、聞いたことあるか。

 

前に口にした言葉が、遅れて戻ってくる。失敗だ。早すぎた。けれど、一度出した以上、なかったことにもできない。

 

だったら、せめて今のうちに選ぶしかない。原作どおり待つのか。少しでもずらすために先に動くのか。

答えは、ほとんど決まっている。決まっているのに、そのための手順だけがまだ足りない。

 

画面の中で、東棟の扉がもう一度だけ動いた。ほんの少し。開くわけでも閉まるわけでもない。中にいる誰かが、そこへ手をかけた時の動きだ。

 

オロホス。

 

そう思った瞬間、椅子に座ったままでいるのが急に鈍くなった。

 

鍵束を掴む。

今度は立ち上がった。

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