オロホスを照らす夢   作:三日月ノア

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第7話 書斎の前

 

 

 

監視室を出た時には、もう決めていた。

 

東棟を回る。食糧庫の横、階段前、オロホスの部屋、その先。昨日までなら画面の中で見ていただけの場所を、自分の足で順に潰していく。遅い。けれど、今さらそう思うしかない。

 

朝の光は弱かった。窓があっても、屋敷の中までちゃんと届かない。板の継ぎ目、壁紙の浮き、角に溜まった埃だけが半端に明るい。人が住んでいる家の明るさじゃない。

 

廊下を歩くたび、靴底の下で床板が少しずつ鳴る。鳴る場所と鳴らない場所がある。昨日までは気にも留めなかったのに、今日はそういう細かい違いばかりが目についた。あとから順番をずらすなら、こういうものから見ていくしかない。

 

角を曲がる手前で、紙が一枚落ちているのを見つけた。

 

新しいものじゃない。端が丸まり、靴の裏で踏まれた跡もある。拾う。短い文が二行だけ。

 

――書斎にて保管

――鍵は床を見れば分かる

 

そこで、原作の断片が一つだけ噛み合った。

 

書斎。

 

屋敷の中でも、最初から嫌な気配が濃い場所だ。使用人の記録。鍵付きの箱。勝手に入るなという空気。何かが残っている部屋。順番までは曖昧でも、あそこが重要だったことだけは覚えている。

 

紙を懐へ入れ、書斎の前まで行く。

 

扉は閉まっていた。鍵穴はある。けれど、ここで堂々と開けるのはまずい。タブンに見られれば理由を聞かれる。ソマンなら答えられるのかもしれないが、今の自分にはその“自然な理由”が足りない。

 

しゃがむ。

 

床板の隙間。木目の違い。釘の沈み方。指先が勝手に一か所で止まった。そこだけ、微妙に浮いている。

 

押す。小さく沈む。

 

その下に細い鍵が挟まっていた。

 

思わず笑いそうになる。気味が悪いくらい、手が迷わない。知っているのは頭じゃない。指の方だ。便利なのに、腹が立つ。

 

鍵を抜き、扉へ差す。少し重い。回る。開く。

 

書斎の中は、思っていたより狭かった。

 

本棚。机。鍵付きの小箱。片側の棚だけが何度も触られたみたいに擦れている。窓はあるのに光が弱い。埃っぽい匂いの奥に、紙の乾いた匂いが残っていた。長く使われていない部屋のはずなのに、どこかだけまだ古くならずに残っている感じがする。

 

扉を閉める。音は小さい。

 

机の上に規則書の束がある。読まなくても、こういう部屋の紙はろくなことが書いていない気がした。だが開かずに済ませるには、今さら遅い。

 

一枚めくる。

 

整頓。清掃。報告。

 

次の紙。

 

書斎の掃除当番。入室中の者がいた場合は近づくな。中から声がした場合も触れるな。勝手な探索を禁ず。

 

そこで手が止まる。文の並び方だけが妙に冷たい。暮らしの決まりじゃない。何かが起きたあと、それを見ないことにするための紙だ。

 

机の端には乾いたインクの跡があった。黒く固まって、木目に入り込んでいる。拭かれた跡もある。消しきれなかったんだろう。記録より先に、そういうものの方が残る。

 

小箱へ目を向ける。

 

鍵が要る。今の束とは別だ。

 

引き出しを探る。何もない。空の底に指が当たるだけだ。けれど、その何もなさも不自然だった。隠す部屋の引き出しが、こんなに素直なはずがない。

 

本棚。背表紙。並び。ここでも身体の方が先に動く。右端の分厚い本を少し引く。奥で小さく音がした。

 

机の脇の板が外れる。

 

隠し箱。中には紙が数枚と、小さな鍵。

 

思わず息が浅くなる。こういうのを次々に見つけられるのが、自分の手柄じゃないところが一番苛立つ。

 

小箱を開ける。

 

中に入っていたのは、日記ではなく短い覚え書きだった。

 

――ここにて情報交換すること

――屋敷内の者に見つからぬように

――ガーベラに伝達済

 

ガーベラ。

 

名前が出た瞬間、先日拾った紙と繋がる。助けにいく。私はきっと。続かなかった文の先が、少しだけ近くなる。

 

もう一枚。文は途中から滲んでいた。

 

――客室の件はまだ知られていない

――西の扉は内よりも外からの方が

――次の当番にだけ

 

そこから先が読めない。けれど、読めないままの方が嫌な紙だった。知られていない。次の当番。誰かが隠して、次に渡そうとしたものだ。うまくいかなかったんだろう。

 

棚の下段には花言葉の本が混ざっていた。建築、植物、使用人規則、花言葉。暮らしで使う本と、隠すために置かれた本が混ざっている。一本だけ背の低い本を引きかけて、やめる。全部を今ここで開くと、持ち帰れないものまで増える。

 

その時だった。

 

廊下で足音が止まる。

 

固まる。

 

一歩、二歩じゃない。立ち止まっただけだ。扉の向こうに誰かいる。

 

「……ソマン姉様?」

 

オロホスだった。

 

胸の奥で、変なふうに息が動く。ここで黙れば怪しまれる。開ければ、もっとまずい。書斎にいる理由がない。

 

「何だ」

 

声だけ返す。

 

向こうで少し間が空く。

 

「そこ、入っていいの」

 

いいわけがない。たぶんソマンでも、理由なしには。

 

けれど詰まると終わる。

 

「見回りだ」

「……書斎まで?」

「必要なら来る」

 

言い終えてから、自分でも少し雑だと思った。だがオロホスは追ってこなかった。代わりに、扉の向こうで気配が少し揺れる。

 

「変なの」

 

小さく落ちたその一言が、嫌に残る。

 

「何が」

「ソマン姉様、最近、嫌がる場所も違う」

 

足音が遠ざかる。

 

そこでやっと、息を吐いた。嫌がる場所が違う。怒る場所が違う。見ているものが違う。向こうから見える違和感は、もう一つずつ増えている。

 

覚え書きを畳む。持ち帰るか迷う。紙は薄い。袖の中に入れれば隠せる。けれど、なくなったことまで気づかれたらまずい。

 

机に戻す。場所も向きも、できるだけそのまま。

 

鍵も元へ戻す。痕跡を残しすぎるのはまずい。ソマンとして自然に動くには、見つけたものを全部持ち帰るわけにもいかない。

 

扉を開ける。

 

廊下には誰もいない。だが、さっきまでそこにオロホスがいた感じだけは残っていた。壁に寄った気配、立ち止まった時間、そういう薄いものだけがある。

 

歩き出しかけて、視線が東棟の奥で止まる。オロホスの部屋の扉が少しだけ開いていた。見ていたのかどうかは分からない。分からないままの方が、たぶんまずい。

 

そのまま部屋へ行く。

 

扉は開いている。中で本を閉じる音がした。

 

「入るぞ」

「……もう入ってる」

「細かいな」

「ソマン姉様が言うの」

 

顔を出したオロホスは、髪が少し乱れていた。机の上には紙束。壁の世界地図。床に開いたままの本。前と同じ部屋なのに、散らかり方の向きだけが違う。探した跡だ。

 

「何読んでた」

「何でもない」

「何でもないものが増えてるな」

「……拾ったの」

 

そう言ってから、少しだけ口を閉じる。言いすぎたと思ったらしい。けれど引っ込めない。

 

机の端に、紙が二枚重なっていた。上は命令文。外に出るな。約束を守れ。下は症状の一覧らしい。痙攣、呼吸、発汗。単語だけでも息が詰まる。昨日までなら拾っても読まずにいたものまで、もうこの子は重ねて残している。

 

「誰に言われた」

「誰にも」

「じゃあ何で」

「ここにあったから」

 

簡単すぎる返事だった。

 

本当にこの子は、屋敷の中に落ちているものをひとつずつ拾って覚えていったんだろう。誰にも教わらないまま。だから知識が歪む。だから、優しさも手順を外す。

 

「書斎、何があるの」

 

不意にオロホスが言う。

 

「何で聞く」

「ソマン姉様、いたから」

「それだけか」

「……それだけ」

 

嘘が下手だ。けれど全部を言う気もない顔だった。

 

「入るなと言われてる場所は、気になる」

「守ってるくせに」

「守ってるよ」

「なら聞くな」

「守ってても、気になることはある」

 

返し方が少し遅い。けれど、止まらない。前より長い。

 

机の端を指で撫でてから、オロホスはまた紙へ目を落とした。命令文の端が少し折れている。何度も開いた跡だ。

 

「ソマン姉様」

「何だ」

「ユウって、誰」

 

そこで視線が止まる。

 

前に自分で投げた名前だ。忘れていたわけじゃない。ただ、返ってくるのが思ったより早かった。

 

「知らないならいい」

「知らないけど、気になる」

「何で」

「……ソマン姉様が、聞いたから」

 

最悪の理由だった。

 

この子は、自分が向けた違和感をきちんと拾ってしまう。

 

「まだ、気にするな」

「それも変」

「何が」

「最近、言い方が変」

 

そこまで言ってから、オロホスは机の方を向いた。これ以上は言わない時の仕草だ。けれど黙ったあとも、聞くのをやめたわけじゃないのが背中で分かる。

 

扉の外で、どこか遠くの板が鳴る。タブンかもしれない。風かもしれない。だが、その一つだけで、この部屋に長くいるのはまずいと思った。

 

「本はしまえ」

「読んでたのに」

「見つかる」

「ソマン姉様も見てる」

「私はいい」

 

言ってから、少し遅れて、自分でも嫌な言い方だと思う。けれどソマンなら、たぶんそう言う。

 

オロホスは納得していない顔のまま、それでも紙束を寄せて重ねた。素直というより、抵抗の仕方を知らない動きだった。けれど重ね終わったあと、いちばん下の症状一覧だけは端を少しだけずらしたままにした。隠す気が足りないのか、残す気があるのか、どっちとも取れる。

 

部屋を出る前に、机の端の命令文をもう一度見る。

 

外に出るな。約束を守れ。

 

これを置いた人間は、たぶんまだ自分の命令が効くと思っていたんだろう。効いていない。少なくとも全部には。

 

そこまで考えて、やめる。救いとか反抗とか、そういう言葉まで乗せると鈍る。ただ、効いていない。それだけで十分だ。

 

部屋を出る。扉は閉めないままにしておく。前のソマンがどうしていたか分からない以上、閉めること自体が目立つ気がした。

 

監視室へ戻る前に、一度だけ書斎を振り返る。画面の中で見る書斎は、ただの暗い四角だった。けれど実際に立つと違う。紙の乾いた匂い。鍵を差した時の硬さ。廊下の足音が扉一枚で急に近くなる感じ。何かある部屋というより、何かを隠したまま放っておいた部屋だ。

 

ここはまだ使う。

 

そんな確信だけが、妙にはっきり残った。

 

そのはずなのに、頭の隅には別の方が残っていた。オロホスに「嫌がる場所が違う」と言われたことだ。見られている。監視しているつもりの側が、もう逆に拾われ始めている。

 

画面のある部屋へ戻るころには、鍵束が手の中で少し汗ばんでいた。

 

監視室の前で一度だけ足を止める。ここへ戻れば、また画面の中の四角い屋敷に戻る。けれど、もうその中身を少し見てしまった。書斎は暗いだけの部屋じゃない。オロホスの部屋も、散らかっただけの部屋じゃない。拾われなかった紙、読まれすぎた本、命令のまま残った文。どれも黙っているくせに、放っておくと勝手に寄ってくる。

 

扉に手をかける。

 

今日はまだ、座らない。

 

 

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