オロホスを照らす夢   作:三日月ノア

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第8話 入るな

 

 

翌朝、オロホスの部屋の前に紙が落ちていた。

 

丸まっている。何度も握った跡がある。拾い上げると、見覚えのある字だった。

 

――外に出るな

――約束を守れ

 

短い。

短いくせに、読むと妙に喉が詰まる。

 

父の字なのか、研究員の誰かか、そこまでは分からない。けれど命令の古さだけは分かった。紙そのものが古い。命令だけが、古くならずに残っている。

 

扉は少し開いていた。

 

中で本を落とす音がした。乾いた音のあと、紙が滑る。拾おうとして、別の何かまで崩したみたいな気配だった。

 

「開いてるぞ」

 

声をかけると、少し遅れてオロホスが顔を出した。髪が乱れている。肩のあたりにも紙片が付いていた。こっちの手の紙を見た瞬間、目が止まる。

 

「それ」

「落ちてた」

「……捨てていい?」

 

少し意外だった。大事に隠す方かと思っていたのに、今度は捨てたいらしい。

 

「嫌なのか」

「嫌、というか」

 

言葉が続かない。代わりに、扉をもう少しだけ閉めようとする。入られたくないらしい。

 

そこまでされると、逆に気になる。

 

部屋の中へ視線を滑らせる。本。紙。壁の世界地図。その横に、別の紙が増えていた。毒の本らしい背表紙も見える。前より本の位置が変わっている。誰かが夜のうちにかなり漁った跡だ。

 

「何を読んでる」

「何でもない」

「何でもないものが増えてるな」

「……見てたの」

 

半分拗ねたみたいな声だった。監視役にそれを言うのもどうかと思うが、本人はそこまで考えていないんだろう。

 

「見てる」

「やっぱり」

 

言って、少しだけ口を閉じる。何か言いたいが、言葉にする前に飲み込む時の顔だった。

 

「その紙、どこにあった」

「前」

「……そう」

 

受け取るでもなく、見つめるだけだ。捨てたいと言ったくせに、視線が離れない。

 

「入るなって、まだ残してるんだ」

「まだ?」

「何でもない」

 

今度はこっちが拾う側になる。

 

部屋の中へ一歩だけ入る。オロホスが反射で止まる。けれど押し返してはこない。止めたいのに、どう止めていいか分からない時の固まり方だった。

 

机の上に紙束がある。端だけ見える。毒、高濃度、皮膚、呼吸。そういう単語が並んでいた。原作で見た本棚の記憶が薄く浮く。症状。合成。強い毒。まだここで断定するには早いが、屋敷の不穏さが村へ繋がる線だけは少し太くなる。

 

「勝手に入るなって顔してるな」

「……ソマン姉様が、そういうこと気にするの珍しい」

「答えになってない」

「だって、前は勝手に入っても、本しか見なかったし」

 

少しだけ、息が止まる。

 

前のソマン像がまた増える。監視する。入る。けれど深入りはしない。たぶん部屋を見ること自体は珍しくなかったんだろう。大事なのは、見ても読み込まないことだったのかもしれない。

 

オロホスは視線を机へ落とした。

 

「それ、返して」

 

さっきの紙のことだ。

 

「捨てたいんじゃなかったのか」

「……でも」

「でも?」

「私が持ってた方が、たぶん、まし」

 

その言い方が妙だった。大事だから、ではない。捨てたい。でも残す。命令としてじゃなく、自分に刺さる棘として持っていたいみたいな言い方だった。

 

紙を渡す。

 

オロホスは受け取ると、折りたたみもせず机の端へ置いた。捨てない。かといって丁寧にも扱わない。見たくないのに、捨てるほど遠くへはやれないらしい。

 

「外に出るな、守ってないな」

 

言うと、オロホスは少し黙った。

 

「……うん」

「約束も」

「うん」

 

あっさりしすぎていて、逆に困る。言い訳するでもなく、謝るでもなく、そう、と置くだけだ。

 

「それで、何読んでた」

「本」

「見れば分かる」

「……毒の本」

 

そこだけは隠さなかった。

 

「何で」

「分からないこと、多いから」

 

その返しは、少しだけ意外だった。知らないふりをしているんじゃない。本当に知らないまま、拾えるものを拾っている。その点では、自分と変わらないのかもしれない。

 

机の端の紙束を一枚だけ引く。

 

症状の一覧。痙攣。嘔吐。呼吸困難。発汗。高濃度で死亡。

 

村の病気の噂が、頭の中で嫌な音を立てる。

 

「それ、難しい」

 

オロホスが言う。

 

「読めるのか」

「全部は無理。でも、苦しそうな字は分かる」

 

苦しそうな字。

 

変な言い方だが、分からなくもなかった。並んだ単語が、読む前から息苦しい。意味が全部入らなくても、嫌な紙だとは分かる。たぶんオロホスは、そういうふうに覚えてきたんだろう。言葉の意味じゃなく、そこに残っている気配で。

 

「誰に聞いた」

「誰にも」

「じゃあ何で」

「ここに、あったから」

 

それだけだった。

 

本当にこの子は、屋敷の中に落ちているものをひとつずつ拾って覚えていったんだろう。誰にも教わらないまま。だから知識が歪む。だから、優しさも手順を外す。

 

本の山の脇に、薄い冊子が半分だけ埋まっていた。表紙に植物図鑑とある。別の紙には、花の名前がいくつか並んでいた。クロユリ、ガーベラ、アネモネ。そこだけ妙に開き癖がついている。

 

机の上には地図も広がっていた。端が折れている。赤い印がいくつか付いていて、そのうち二つはもう消えかけていた。村の位置か、外へ出た場所か、それとも別か。訊けばまた何か拾う気がして、手を伸ばしかけたところで止める。

 

代わりに、本の背を指で押す。硬い。読み込まれた本だけ、紙の腰が少し抜けていた。毒の本。花の本。植物図鑑。歴史。童話。並びに意味があるのか、ただ積み上がっただけなのか、見ただけでは分からない。

 

「これも読んだのか」

 

童話の薄い本を少し持ち上げる。

 

「前に」

「分かるのか」

「全部は無理。でも、知ってる言葉が出ると、あとが気になる」

 

言ってから、オロホスは少し眉を寄せた。

 

「変?」

「いや」

 

変じゃない。むしろ自然だ。知らない言葉だらけの家で、知っている言葉の先だけ拾って進んできたんだろう。だから毒も花も同じ棚にある。危険と慰めの区別が、本人の中でまだきれいに割れていない。

 

「そっちも見たのか」

「ちょっとだけ」

「何で花の本まで」

「……あるから」

 

返しが遅い。その遅れ方で分かる。理由を言うと変だと思っている時の遅れだ。

 

「花、好きなのか」

「好きっていうか」

「じゃあ何だ」

「持っていくと、少し変わるから」

「何が」

「顔」

 

そこで止まる。

 

誰の、とは言わない。言わなくても分かる。苦しんでいる相手の顔だ。死人の顔だ。実験体の顔だ。そこへ花を持っていっていたのだと、紙や記録より先に、その言い方の方が刺さる。

 

「ソマン姉様」

 

呼ばれて見ると、オロホスは机の端を指でなぞっていた。

 

「何だ」

「ユウって、誰」

 

そこで視線が止まる。

 

昨日、自分で投げた名前だ。忘れていたわけじゃない。ただ、返ってくるのが思ったより早かった。

 

「知らないならいい」

「知らないけど、気になる」

「何で」

「……ソマン姉様が、聞いたから」

 

最悪の理由だった。

 

この子は、自分が向けた違和感をきちんと拾ってしまう。

 

「まだ、気にするな」

「それも変」

「何が」

「最近、言い方が変」

 

そこまで言ってから、オロホスは机の方を向いた。これ以上は言わない時の仕草だ。

 

その背中を見たまま、言葉を探す。ない。説明の仕方がない。原作知識をそのまま渡すわけにもいかないし、渡せるほど正確でもない。下手に教えれば、この子が拾うべきものまで奪う。

 

扉の外で、どこか遠くの板が鳴る。

 

タブンかもしれない。風かもしれない。だが、その一つだけで、この部屋に長くいるのはまずいと思った。

 

「本はしまえ」

「読んでたのに」

「見つかる」

「ソマン姉様も見てる」

「私はいい」

 

言ってから、少し遅れて、自分でも嫌な言い方だと思う。けれどソマンなら、たぶんそう言う。

 

オロホスは納得していない顔のまま、それでも紙束を寄せて重ねた。素直というより、抵抗の仕方を知らない動きだった。引き出しへしまうでもなく、上へ別の本を積むでもなく、ただ寄せる。隠し方としてはひどい。ひどいくせに、本人の中ではたぶんこれで少しはましなんだろう。

 

「部屋、片づけろ」

「……無理」

「即答するな」

「どこに何があるか、分からなくなる」

「今でも分かってないだろ」

「前よりは分かるよ」

 

言い切り方が少しだけ強かった。そこだけ、本当なんだろう。散らかっているんじゃない。積み上がった順番がある。本人にしか分からないだけで。

 

「それに、紙って捨てると無くなる」

「当たり前だ」

「無くなると、見つからない」

「……何を」

「前のこと」

 

その答えで、少し黙る。

 

この部屋の乱れ方は、だらしなさだけじゃない。忘れたくないものをそのまま置き続けた跡でもある。言いつけも、本も、花の本も、毒の紙も。見たいから残すんじゃない。失くすと本当に消えるから、残している。

 

部屋を出る前に、机の端の命令文をもう一度見る。

 

外に出るな。約束を守れ。

 

これを置いた人間は、たぶんまだ自分の命令が効くと思っていたんだろう。効いていない。少なくとも全部には。

 

そのことが、少しだけ救いに見えたのが嫌だった。

 

廊下へ出る。扉は閉めない。閉めたら、その音だけで誰かに気づかれそうだった。少し開いた隙間から、紙の擦れる音がまだ聞こえる。しまっているんじゃない。置き直している。たぶん、元の位置へ戻そうとしているんだろう。そういうところだけ律儀だ。

 

東棟の窓は薄く曇っていて、外の明るさが死んで見える。朝のはずなのに、屋敷の中では時刻が薄い。歩きながら、さっき見た単語が頭の中で勝手に並び直そうとする。毒。高濃度。呼吸。死亡。村。病気。花。

 

切る。まだ早い。繋げるには根拠が足りない。

 

それでも、昨日までより一つだけはっきりした。

 

オロホスは何も知らないわけじゃない。ただ、教えられていないまま拾っている。しかも、その拾い方は紙や本だけじゃない。顔の変わり方とか、苦しそうな字とか、そういう方まで入っている。

 

だから危うい。

 

たぶん、来る前にもう十分危うかった。

 

東棟の角を曲がる直前、一度だけ振り返る。扉の隙間はさっきと同じ幅のままだ。閉めるでもなく、開け放つでもない。あの半端さごと、オロホスの部屋に見えた。紙も本も、たぶんまだ動いている。

 

 

 

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