監視室の画面に、村の方角は映らない。
映るのは屋敷の中だけだ。階段前。食糧庫。東棟。中庭側。切り替えても、それ以上はない。だから逆に、外のことを考える時ほど画面が邪魔になる。
青白い四角が壁に並んでいる。どれも静かだ。静かなのに、見ていると落ち着かない。村の方で何かが起きていても、ここには映らない。屋敷の中だけ切り取って、外を無かったことにしているみたいだった。
夜が浅い時間、東棟の画面の端にタブンが映った。
画面の中ではどの廊下も同じ色をしているのに、今夜だけは東棟の暗さが少し重い。理由はない。ないまま、そう見える。そういう勘だけが先に来る。理由は後から付く。その遅れ方が、いちばん嫌だった。待たされている感じがする。家ごと。息を潜めて。全部。
タブンは止まる。誰かの部屋の前。しばらく動かない。次に切り替えた時には消えている。
嫌な予感がして、監視室を出た。
廊下の先で、オロホスが立っていた。
扉は閉まっている。表情だけで分かる。今、ここにいたのはタブンだ。
「何された」
「別に」
「その顔で通るか」
「……怒られただけ」
怒られた、だけ。
「何で」
「最近、外に出るから」
「それだけか」
「あと、知らない紙を拾いすぎって」
そこで少しだけ息が止まる。
紙。書斎のことまで見えているのか。いや、そこまではまだ分からない。ただ、タブンの目が前より近い。それだけで十分まずい。
オロホスは扉に背を預ける。肩が少しだけ固い。怒られたあとの顔、というより、まだ怒られ終わっていない顔だった。
「ソマン姉様も、怒られたことある?」
「あるだろ」
「今のソマン姉様じゃなくて」
返事が詰まる。
「今の」をそこに混ぜるな、と思う。
「知らない」
雑に切る。
けれどオロホスは珍しく引かなかった。
「最近、たまに違う」
「何が」
「……姉様なのに、知らない顔する」
その言い方が妙に刺さる。
違う。知らない。だが、認められるわけがない。
「用がないなら戻れ」
「うん」
オロホスは頷く。でも動かない。
「何だ」
「ひとつだけ」
少し間があく。
「村の子、来るの」
そこで、背中が冷たくなった。
「何でそう思う」
「外、うるさいから」
それだけだった。
たぶんオロホスは、病気の意味も、村の被害の広がりも全部は分かっていない。ただ、屋敷の外の空気が変わっていることだけは知っている。だから来る、と思う。それだけの話だ。
けれど、その「それだけ」が一番鋭い。
「……来るかもしれない」
やっとそう言うと、オロホスは少しだけ目を伏せた。
「そっか」
「嫌か」
「分からない」
それは本音なんだろう。嫌とも、待っているとも言えない声だった。
「でも、来たら」
「来たら?」
「ソマン姉様は、追い出す?」
答えが遅れる。
原作のソマンなら、そうする。少なくとも最初は迷いなく。今の自分は違う。けれど、違うとそのまま出したら終わる。
「侵入者なら、そうだ」
短く返す。
オロホスはそれを聞いて、小さく頷いた。納得したわけじゃない。言葉だけ受け取った顔だ。本音と受け取っていないのかもしれない。それもまた困る。
「オロホス」
「何」
「来ても、すぐ近づくな」
「どうして」
「だからだ」
雑だ。ひどく雑だと思う。
けれど、説明の仕方が分からない。原作知識をそのまま渡すわけにもいかないし、渡せるほど正確でもない。
オロホスは少し首を傾げた。
「やっぱり変」
「何が」
「前なら、近づくな、じゃなくて、見つけたらすぐ報告しろって言う」
黙る。
そこまで見られているのか、と改めて思う。自分がロールプレイしているつもりでも、比べられる基準は向こうにある。優しすぎても違う。言葉を濁しても違う。
扉の下から、冷たい空気が少し流れてくる。中に入るか迷って、そのまま壁に寄る。
「……来たら、どうするつもりだ」
聞くと、オロホスは少し考えた。
「分からない」
「考えてないのか」
「考えると、変になるから」
その言い方は分かる気がした。
考え始めると、命令と、外の声と、花と、拾った紙と、全部が噛み合わなくなるんだろう。
「じゃあ今のうちに考えろ」
「ソマン姉様も?」
「私はいい」
「またそれ」
少しだけ、口元が緩む。笑ったわけじゃない。けれど、怒られている時の顔ではなかった。
「前にも、いた?」
不意にオロホスが聞いた。
「何が」
「村の子。こういうの」
こういうの、で通じる。外が近い夜。家の中が落ち着かない感じ。扉の向こうに誰か来そうな時の空気。
「……知らない」
またそれだ、と言いたげにオロホスが目を細める。
「前のこと、あんまり知らないね」
「お前もだろ」
「私は、知らなくていいって言われてるから」
言い方が静かだった。その静かさが逆に残る。知らなくていい。そう言われ続けてきた人間の声だ。
その時、廊下の奥で何かが倒れる音がした。
二人ともそっちを見る。食糧庫の方だ。
走る。
角を曲がる。扉は半開き。中には誰もいない。ただ、腐った野菜の箱が一つ落ちて、床に中身をぶちまけていた。
踏まれた跡はない。風か、鼠か、それとも別か。
オロホスが少し遅れて入ってくる。
「また?」
「前にもあるのか」
「たまに。誰も触ってないのに、なる」
それ以上の説明はなかった。
床に散った野菜を見下ろす。腐っている。色も匂いも最悪だ。汁が木の隙間にまで入りこんで、黒ずんでいる。片づけるというより、もう染みついていた。
オロホスがしゃがみ込んで、一つ拾おうとした。
「触るな」
思わず言う。
オロホスが手を止める。
「何で」
「腐ってる」
「でも、片づけないと」
「後でいい」
「……ソマン姉様、そういうこと言うんだ」
たぶん言わなかったんだろう。片づけろ、の方を先に言う。触るな、じゃなく。
「とにかく触るな」
言い直す。
オロホスはその手を引いた。素直に引いたせいで、逆にまずい気がする。こうやって覚えられていく。
腐った匂いの奥で、別の臭いがした。古い紙が湿ったみたいな臭いだ。食糧庫には似合わない。壁際の穴のあたりから来る。外の空気かもしれないし、別の場所の臭いかもしれない。
「ここ、前からこんな匂いだったか」
「どれ」
「腐ったのじゃない方」
オロホスは少し鼻を鳴らした。
「分からない。ここ、だいたい変な匂いだから」
もっともだった。
箱を元へ戻す。軽い。中身が減っているからだけじゃない。底がもう湿りで歪んでいた。少し押しただけで、板がぎし、と鳴る。
「食べてるのか」
口から出てから、自分でも雑だと思う。
「何を」
「ここにあるやつ」
「たまに」
「よく平気だな」
「平気じゃない時もある」
そこで止まる。
食糧庫を出る時、オロホスが半歩だけ遅れた。振り向くと、壁の穴の方を見ている。
「何だ」
「別に」
「その顔で通るか」
さっき自分が言った言葉を、そのまま返す形になる。オロホスは少しだけ口を閉じた。
「……来る前って、物が動くこと、ある」
そこで足が止まる。
「何が」
「箱とか。紙とか。閉まってたところとか」
「前にもあったのか」
「うん。お客さん、来る前」
それは原作知識にはなかった。いや、あったのかもしれないが、自分はそこを覚えていない。
「何で先に言わない」
「今、思い出したから」
責められない返しだった。オロホスはそういうふうにしか覚えていない。紙を見て、匂いで引っかかって、物が落ちて、そこでやっと思い出す。
「他には」
「家が、ちょっと違う」
「違うって何だ」
「……静かじゃないのに、静かな感じ」
分かりにくい。分かりにくいが、言いたいことは少し分かる。音がないんじゃない。待っている静けさだ。
廊下へ出る。東棟へ向かう風が、いつもより細い。板のきしむ音まで遠い。
「オロホス」
「何」
「今日は外に出るな」
「……分かった」
言い返さないのが逆に嫌だった。納得したからじゃない。今日はそれどころじゃないと本人も感じているんだろう。
「花も持っていくな」
「うん」
「本当に分かったのか」
「分かったよ」
返事はした。けれど、花のことを言われた時だけ、指先が少し動いた。身体の方はまだ向こうへ行きたがっている。
東棟の角で別れる前、オロホスが一度だけ振り向いた。
「ソマン姉様」
「何だ」
「来たら、知らせる」
それはたぶん、さっきの「報告しろ」の代わりなんだろう。前のソマンへ返すはずの言葉を、今のこっちへ置き直している。
「……そうしろ」
それだけ返す。
監視室へ戻る頃には、かなり遅かった。
椅子に座る。画面を順に開く。東棟。階段前。食糧庫。何も変わらない。監視室の机には、昨夜から動かしていない鍵束が置いたままだった。持ち出すたびに位置がずれる。戻すたびに音が鳴る。そんな小さい違いまで、今はやけに気に障る。
村の子が来る。
オロホスもそれを感じている。タブンはたぶん、もっと先まで見ている。そして自分だけが、原作を知っているつもりで一番曖昧だ。
外は見えない。見えないくせに、向こうから押されている感じだけはある。屋敷の方が外を意識し始めている。そういう夜だった。
画面の端で、東棟の扉が少し動く。
オロホスの部屋だ。
その映像を見たまま、机の上の鍵束へ手を置いた。金属は冷たい。手の中で鳴るほど動かさない。ただ触れる。