友達がいない、というのとは少し違う。
話しかけられたら答えるし、グループワークも普通にこなす。クラスで浮いているわけでもない。ただ、昼休みに一緒にいる子がいないというだけで、それは別に困ることでもなかった。
愛想がないのは自分でわかっている。話しかけるタイミングがどうにも掴めなくて、結果として何もしないまま一ヶ月が過ぎた。五月のゴールデンウィークが終わって、それでもまだ、友達と呼べるような子はできていなかった。
私、渋谷凛が初星学園の普通科に入ったのは、特に深い理由はない。家から電車で一本。制服がかわいい。偏差値もそこそこ。アイドル科があることは知っていたけれど、それは私には関係のない話だった。
四月の初星学園は、どこへ行っても歌声か足音が聞こえた。廊下を歩けば発声練習の声が漏れてくる。中庭を横切れば誰かが口ずさんでいる。売店の前ですら、アイドル科の子たちは身体を動かしながら注文している。五月になっても、それは変わらなかった。
そういう景色を横目で見ながら、私はただ普通に毎日を過ごしていた。
だから、その日の放課後もいつも通りのはずだった。
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職員室に提出物を出しに行った帰り、普通科の廊下の角を曲がったとき、私はその子を見つけた。
小柄な女の子が、キョロキョロと首を動かしながら廊下の真ん中に立っていた。アイドル科の制服だ。手には書類の束とノートを抱えていて、どこか不安そうにあちこちを見回している。
迷ってる。一目でそれがわかった。
そのまま通り過ぎた。
五歩ほど歩いたところで、足が止まった。
振り返ると、その子はまだそこにいた。ノートを胸に抱え直して、また別の方向をきょろきょろしている。
「ねえ」
私が声をかけた瞬間、その子は「ひゃっ」と小さく声を上げて、抱えていたものを全部落とした。書類がパラパラと床に散らばり、ノートが滑って私の足元まで来た。
「……ごめん、びっくりさせた」
「い、いえ、こちらこそすみません!」
しゃがんで散らばった書類を拾いながら、私はノートを拾い上げた。表紙に名前が書いてある。
倉本千奈。
渡すと、千奈は両手でノートを受け取ってぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「どこに行くの?」
「えっと……レッスン室なんですけど、戻り方がわからなくなってしまって……」
普通科の職員室に用があって迷ったらしい。確かに、アイドル科のレッスン棟へは一度外を経由した方が早い。慣れてないと迷う。
「案内するよ」
「よろしいんですか!?」
「帰り道の途中だし」
並んで歩きながら、千奈はぽつぽつと話してくれた。倉本千奈、アイドル科一年生。自称「全校生徒の中で最下位」。それを恥ずかしそうにしながらも笑って言うから、なんかおかしかった。
「最下位なのに楽しそうだね」
「だって夢ですもの! 下手でも頑張れば上手くなるかもしれませんし!」
五月の空気はもう初夏の気配があって、ぬるい風が廊下を通り抜けた。窓の外で、誰かが曲に合わせてステップを踏んでいる。
「初星学園ってこういう学校なんだね」
気づいたら声に出ていた。
「そうですの! みんなアイドルになりたくていっぱい練習してて……わたくしもまだまだですけど、頑張りますわ!」
目がきらきらしていた。なんか、素直な子だな、と感じた。こういう子が話しかけてくれることは、普通科ではあまりなかった。
レッスン棟の前に着いたとき、中から声が聞こえた。
「倉本さん、遅いですよ」
ドアを開けると、柔らかい声でそう言ったのは女性のトレーナーだった。物腰が穏やかで、笑顔なのに、なぜかどこか油断できない感じがする人だ。
「すみません! 道に迷ってしまって……この方が助けてくださいまして」
「千奈、なんかあったの?」
部屋の奥から声がした。壁にもたれた女の子が千奈を見ていた。眼差しがまっすぐで、余計なものが全部削ぎ落とされたみたいな目だった。
「篠澤さん! 普通科の棟で迷ってしまって、渋谷さんが助けてくださいましたの」
「そう」
篠澤、という苗字だけ頭の中に入った。
「助けてくれてありがとね!」
今度はもっと明るい声だった。床に手をついて柔軟をしながらひょいと顔を上げた子が、屈託なく笑いかけてくる。
「別に大したことじゃない」
私はそう言って、帰ろうとした。
そのとき、トレーナーが声をかけてきた。
「渋谷さん、少しだけよろしいですか。今日、柔軟のペアが一人足りなくて。もし予定がなければ手伝っていただけると助かるんですが」
予定は、なかった。
「……わかりました」
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柔軟のペアは、さっき笑いかけてきた子と組んだ。
「花海佑芽です! よろしくお願いします!」
よく動く子だ。背中を押さえると、するりと床に近づく。柔らかい。
「よく伸びるね」
「運動いっぱいやってたんで! ていうか渋谷さんって普通科なんですよね? なんか、雰囲気すごいなって」
「……同い年でしょ。敬語なくていいよ」
「あ、ほんとに? じゃあ凛ちゃんって呼んでいい?」
「好きにして」
「やった!」
ちゃん付けは少し予想外だったけど、まあいいか。
柔軟が一通り終わったころ、トレーナーが「ありがとうございました」と言った。
「せっかくですし、少しだけレッスンを見ていきませんか」
帰ってもよかった。でも、足が動かなかった。
「……少しだけなら」
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レッスンは、補習だった。
トレーナーの指示のもとで、「初」という曲に合わせて三人が動いている。初星学園の楽曲らしい。私はレッスン室の壁に背をもたれて、端からそれを眺めていた。
正直に言えば、上手くはなかった。
千奈はステップのたびに少しずれる。佑芽は動きが大きくなりすぎて振り付けの細かいところが追いついていない。篠澤さんは繰り返すたびに少しずつ息が上がっていった。でも、疲れていくのに比例するみたいに、その目がじわじわと明るくなっていくのがわかった。しんどくなるほど、嬉しそうだった。
上手くない。
なのに、飽きなかった。
曲が流れるたびに、三人の口から自然と歌声が出てくる。音程がずれていても、息が上がっていても、楽しそうだった。
その感じが、胸の奥のどこかをざわつかせた。
羨ましい、という感情はあんまり私の辞書には載っていなかった。でも、それに一番近い何かが、確かにそこにあった。
あの三人は私より下手で、私より必死で、私より何かに夢中だった。やりたいことがある。それだけで、あんなふうになれる。
いいな、と感じた。
いつの間にか、私はその旋律を追っていた。頭の中でくり返して、唇がかすかに動いていた。気づいたとき、もうほとんど口ずさんでいた。
「渋谷さん」
トレーナーがこちらを見ていた。
「……さっき、口ずさんでいましたよね。よかったら、歌ってみますか」
三人もこっちを向いた。汗をぬぐいながら、三人ともこちらを見ている。
ちょうどそのとき、レッスン室のドアが開いた。
「千奈、生徒会の書類届けに来たわ。……あら、補習中だった?」
入ってきたのは、背の高い女の子だった。きっちりとした立ち姿で、周囲を見渡す目に迷いがない。普通科の私でも知ってるこの学校の一番星の十王星南。
「ちょっとだけ邪魔するわね」
そう言いながら書類を千奈に渡して、それでも出て行こうとはしなかった。壁際に立って、こちらを――いや、私を、一瞬だけ見た。
その目に、何かが引っかかった気がした。でも、よくわからなかった。
「……少し恥ずかしいな」
私はトレーナーの方に向き直って、そう言った。声に出たらそうなった。
「大丈夫」
篠澤さんがそう言った。声は静かだったけど、まっすぐだった。
「私たちの方が恥ずかしい。普通科の子に補習見られてたんだから」
千奈が「そうですわ! わたくしさっきもう七回もステップ間違えましたし!」と声を上げた。佑芽がくすっと笑った。
なんか、ちょっと面白い。
そう感じたら、少し肩の力が抜けた。
トレーナーが曲をもう一度頭から流した。歌詞は、見ているうちにだいたい入っていた。
一度だけ深呼吸した。これは練習だ。失敗してもいい。誰かに見せるためじゃない。ただ、さっきから頭の中でくり返しているこの旋律を、一度ちゃんと声に出してみたかった。それだけのことだ。
イントロが流れた。
三人が、同時に息を止めた気がした。
私は小さく息を吸った——
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十王星南は、レッスン室の壁際に立ったまま、動けなかった。
千奈に書類を渡したら帰るつもりだった。補習の邪魔をするつもりはなかった。
でも、歌い出しの一音で、足が止まった。
普通科の子だと千奈が言っていた。確かに、アイドル科の制服ではない。長い黒髪で、背が高くて、最初に見たとき少しとっつきにくそうな子だな、という印象があった。それだけだった。
でも今、その子が歌っている。
星南は幼いころからアイドルの世界にいる。才能のある子を、たくさん見てきた。歌唱力で圧倒する子も、ダンスで客を釘付けにする子も、ビジュアルで場の空気を変える子も。
渋谷凛は、そのどれとも違うところにいた。
技術は粗い。発声も音程も、まだこれからだ。でも、それを差し引いても、目が離せなかった。何かが違う。うまく言葉にならない。ただ、この子が歌っている間ずっと、星南の胸の中で何かが反応し続けていた。
曲が終わった。
誰も、すぐには声を出さなかった。
音が消えたあとも、何かだけが、そこに残っていた。
——息をするのを、忘れていた気がした。
佑芽が「……すごーい!!」と両手を頬に当てて叫んだ。千奈が「すごいですわ……!」と目をまん丸にした。篠澤は無言のまま渋谷凛をじっと見ていた。トレーナーが「素質があると思いますよ!」と穏やかに言った。
渋谷凛は少しだけ視線を逸らした。
「……そんなじゃないよ」
ぼそっと言った。でも、その口の端が、ほんの少しだけ上がっていた。
星南はその横顔を見ながら、一つのことを確かめた。
この子には、才能がある。
技術の話じゃない。努力でどうにかなる話でもない。もっと手前の、もっとどうにもならない何かが、この子の中にある。本人はたぶん、まだ気づいていない。
星南は壁から離れて、渋谷凛の方へ歩いた。
凛が視線を向けた。何? という顔をしている。
「渋谷さん、だったかしら」
「……そうですけど」
少し警戒した目だった。
「十王星南よ。生徒会長をやってるわ」
一拍置いた。
「一つだけ、聞かせて」
凛が小さく首を傾けた。
「あなた、アイドルをする気は無い?」
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