時系列とかバラバラになる予定です。
夏の終わりは、いつも少しだけ遅れてやってくる。
蝉の声が遠のききらず、けれど風だけが先に秋を知っている、そんな曖昧な季節だった。
僕は、山の中の細い道を歩いていた。仕事をしているときには通れなかった道。時間に追われているあいだは、視界に入っていても、存在していないのと同じだった道だ。
だけど、今は通れる。
何の生産性もないことが、今の自分には必要だった。何かを考えるでもなく、ただ歩くことで一日の残りを薄めていくような、そんな習慣だった。
そんな習慣のなかで、ふと上を向いて歩いていたときだ。
足裏の感覚が、唐突に消えた。
踏み外した、というよりも、地面のほうが先に消えたような、そんな感覚だった。
──いや、落ちていた。
幻覚ではなく現実で、穴に落ちた。落下しているはずなのに、不思議と恐怖はなかった。風の抵抗も、身体が重くなる感覚もなく、ただ静かに、どこかへ滑り落ちていく。
気づけば、視界はひらけていた。
そこには湖があった。
濃い霧が水面の上に重たく垂れ込め、向こう岸はおろか、少し先の距離さえ定かではない。
どこまでが湖で、どこからが空気なのか、その境目すら曖昧だった。
輪郭を失った水面は、広がっているはずなのに、その広さを測ることができない。
ただ「どこまでも続いているように見える」という感覚だけが残る。
音も吸い込まれていく。
遠くのはずの気配が近くに感じられ、逆にすぐそばの水音は、どこか遠くから届いているように歪んでいた。
そして、不意に、懐かしい匂いがした。
湿った土と、少し冷たい水の匂い。子どものころ、夏の終わりに祖父の家の近くで嗅いだような気がする。
思い出そうとすると、像は崩れる。代わりに、別の記憶が浮かぶ。
教室の窓際。夕方の光。帰らなければならない時間。
どれも断片的で、つながらない。
霧の中では、記憶もまた、輪郭を保てないらしかった。
そして、その水面の上に、彼女はいた。
水面に腰をかけるようにして、足をぶらぶらと揺らしている。波紋は広がらない。水はただ、彼女を受け入れているだけだった。
ありえない位置にいることよりも、その姿が妙に自然に見えてしまうことのほうが、僕を戸惑わせた。
氷のように淡い色の髪。大きなリボン。幼い顔立ちに、妙に落ち着いた眼差し。
どう考えてもここは日本でなく、なんなら地球でないことも確かだった。けれど、それを疑う気力すら、どこかに置き忘れてきたようだった。
「ねえ」
声をかけられたのは、僕のほうだった。
「おじさまって、つまらなそうだわ」
唐突で、しかし妙に的を射ている言葉だった。
僕は足を止めたまま、少しだけ苦笑した。──まだ僕は20代半ばではあるんだけど。
「そう見えるのか」
「見えるわ」
彼女は、当然のように言った。ためらいも、遠慮もない。
水面に映る光が揺れる。その反射が、彼女の頬にほんのりと色を落としていた。生きている温度ではないはずなのに、その頬だけが妙にやわらかく見えた。
「でもね」
彼女は続ける。
「あたいは今が楽しければ、それでいいと思ってしまうのだけど」
その言葉は軽く、しかし不思議と水に沈むように静かだった。
言葉の意味よりも、響きのほうが、霧の中で長く残る。
僕は答えなかった。いや、答えられなかったのかもしれない。
楽しさとは何か。今とは何か。そういう問いは、いつの間にか考える前に諦めるものになっていた。
昔はより顕著で、働いて、帰って、眠る。その繰り返しの中で、言葉にする必要のないものとして処理されていった。
気づけば、考えないことのほうが、楽になっていた。
ふと、また別の記憶が差し込む。
誰かと笑っていたはずの時間。けれど、その「誰か」の顔だけが、どうしても思い出せない。
代わりに、目の前の彼女の輪郭だけが、妙に鮮明だった。
「きっとおじさまは」
彼女は僕のほうを振り返る。首を少し傾げて、まるで答えを知っているかのように。
「あたいにはわからない、むつかしい事ばっかり考えているのね」
風が吹いた。
霧がわずかに揺れ、彼女の輪郭が一瞬だけぼやける。存在しているのか、していないのか、その境目が曖昧になる。
「難しいこと、か」
僕は呟く。自分が何を考えているのか、改めて問われると、うまく答えられない。
ただ、どこかで「間違えないこと」を選び続けてきた気がする。
楽しいかどうかより、正しいかどうか。損をしないかどうか。
そういう基準で、日々を並べてきた。並べたはずなのに、その一つひとつが、今では霧の向こうにあるように思えた。
「ねえ」
彼女は、もう一度呼ぶ。
「それって、楽しいの?」
単純な問いだった。けれど、その単純さゆえに逃げ場がなかった。
僕は、湖を見る。
霧に包まれた水面は、ただ静かに揺蕩っている。
奥行きはわからない。底も、岸も見えない。
ただ広がっているように見えるだけで、実際にどれほどの大きさなのか、確かめる術はない。
その曖昧さが、どこか自分に似ている気がした。
「······わからないな」
ようやく出た言葉は、それだった。
彼女は少しだけ目を細めた。笑っているのか、呆れているのか、そのどちらでもあるような表情だった。
「そっか」
それだけ言って、彼女はまた前を向く。
しばらく、沈黙が続いた。
蝉の声が、今さらのように遠くで鳴いた。その音も、どこか現実から遅れているように聞こえた。
「でも」
彼女がぽつりと言う。
「わからないなら、試してみればいいじゃない」
その言葉は、あまりにも無責任で、あまりにもまっすぐだった。
だからこそ、霧の中でも、はっきりと輪郭を持って届いた。
僕は小さく息を吐いた。そんなことができるなら、と言いかけて、やめた。
できない理由なら、いくらでも思いつく。それを並べることに、もう意味はない気がした。
「······そうかもしれないな」
僕は言う。
それが本心かどうかは、自分でもわからなかった。ただ、否定する気にはなれなかった。
彼女は満足そうにうなずくと、すっと立ち上がった。
水の上から、水を踏むこともなく。
その動きはあまりにも自然で、むしろこちらの足元のほうが不確かなもののように思えた。
「じゃあね、おじさま」
軽い調子で手を振る。
「今度会うときは、もう少し楽しそうな顔をしてるといいわ」
そのまま、彼女はふわりと風に溶けるように消えた。
霧の一部がほどけるように、静かに、跡形もなく。
後には、ただ湖と、霧だけが残る。
さっきまで見えていたはずの景色は、すでに輪郭を失い、すべてが同じ白の中に溶け込んでいる。
自分がどこから来て、どこへ戻るべきなのか、その方向さえ曖昧になっていた。
それでも、不思議と不安はなかった。
僕はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて歩き出した。理由はなかった。ただ、なんとなくそうしただけだった。
それでも、その「なんとなく」は、今までよりほんの少しだけ、軽かった。
こんなにチルノが頭がよかったか、ちょっと覚えてないですね。まあ20代中盤ほどの男性を「おじさま」と呼ぶことで相殺ってことにしときましょう。