僕は今でもそう思っています。
また落ちる。歩き出した後すぐにまた落ちた。驚きはなかった。むしろ、ああ、またか、とどこかで納得している自分がいた。抵抗もなく、ただ静かに、どこかへ滑り落ちていく。
──そこには、桜があった。
それを「大きい」と呼ぶのは不正確だった。大きさという概念そのものが、この場ではすでに意味を失っている。視界に収まりきらない。見上げてもなお全体像が掴めない。幹は空へ伸びるというより、空のほうがこの樹を避け、押し広げられているようだった。枝は距離の感覚を裏切り、近いはずの花が遠くに退き、遠いはずのものがふと手の届く位置へと滲み出てくる。それは空間の中に置かれているのではない。むしろ、空間そのものを侵し、内側から書き換えている存在だった。
花の色は、定まっていなかった。紅とも紫とも言い切れないものが幾重にも層をなし、溶け合い、互いの境界を侵食し合っている。ひとつの色を定めようとする意識のほうが、むしろ拒まれる。花弁は形を持ちながら輪郭を維持できず、隣り合うものと滲み合い、個としてではなく、連続した塊として揺れている。光は触れた瞬間に解体され、内部で拡散し、再び外へと滲み出してくる。そのため明るさには中心がない。どこを見ても満ちているのに、どこにも焦点が結ばれない。
まだ満開ではない。それなのに、すでに完成している。未完成であるという状態すら、この樹の内に取り込まれ、構造の一部として固定されているようだった。
──これは、ただ花ではない。
ふと、そんな確信めいた感覚がよぎる。
これは、何か別のものの結果だ。あるいは末端だ。あるいは、露出してしまった断面だ。表面に現れているだけの、なにか。
だからこそ、こんな言葉が思いつく。
「……これほどの桜には、何が埋まっているんだろうか」
口に出した瞬間、それはもはや思考ではなく、外へ押し出された結論だった。
「どうして、そんなふうに思うのかしら」
振り返る。そこにいたのは、ひとりの女性だった。
淡い桃色の髪が、風もないのにゆるやかに揺れている。揺れているというより、そこだけ時間の流れがわずかに異なっているようだった。整いすぎた顔立ちは、生きている人間のものというより、形として与えられたものに近い。衣は柔らかく重なり、布でありながら重さを感じさせない。立っているはずなのに、接地していない。あまりも現実的ではない。
けれど、その微笑だけは、奇妙なほど現実に近かった。
「昔読んだ本の影響だよ」
「本、ね」
彼女は、その言葉の奥にあるものを探るように、わずかに声を含ませる。
「桜を見ると考えてしまうんだ。どうしてあんなに綺麗なのかって。あまりに整いすぎている。散り方も軽すぎる。あれがただの現象だとは思えない。だから理由を探す。その下には何かがあるはずだって。腐って、崩れて、かつて生命だったもの。それでもなお残り続けるものがあるんじゃないか、と」
言葉は、淀みなく連なっていく。
昔僕は、桜というものは、どうしてあれほどまでに美しいのだろうと考えていた。あの、どこか不安を伴うほどの美しさ。風に散るときの、あまりに軽やかで、あまりに無責任な終わり方。それらがただの現象であるはずがない、と。いや、そうであってはならない、とさえ思っていた。
あの美しさは過剰なのだ。理由もなく、あれほどまでに完成されたものが、この世に存在するはずがない。
ならば、その根の下には、何かがあるはずだ。腐敗し、崩れ、かつて生命であったもの。土へと還りながら、なおも残滓として残り続けるもの。
そういうものが、あの桜を支えているに違いない。
その考えは、読んだ本の中の言葉と、ほとんど同じ形をしていた。
「──桜の樹の下には、屍体が埋まっている」
……美しさとは、つまり、そういうものだ。
彼女は、わずかに目を細めた。その反応は驚きではなく、確認に近かった。
「まるで先生みたいね」
「一応、元先生なんだ」
「そう」
彼女は頷く。その頷きは理解ではなく、位置づけのようだった。
「先生、貴方はそれを知ったとき、安心したでしょう?」
「……ああ」
「納得できた?」
「できた」
その答えは、今さら修正のきかないものだった。
彼女は、桜へと視線を戻す。
「私も同じだったわ」
その言葉は、あまりにも軽く、しかし取り消しのきかない重さを持っていた。
「この桜の下に何があるのかを知ったとき、すべてが繋がった気がしたの。咲かない理由も、封じられている理由も」
枝が揺れる。風はない。それでも揺れる。
「そして、咲かせればどうなるかも」
僕は彼女を見る。その横顔には、迷いは見当たらない。
「……だからか」
「ええ。確かめたかったもの。美しさの理由を、完成させたらどうなるのか」
花が一枚、落ちる。地に触れることなく、途中でほどけるように消える。
「死を、ただの死のままにしておくなんて、不自然でしょう?止まっていたものを、動かしてあげただけよ」
その響きは優しい。だが、その優しさは、対象を選ばない種類のものだった。
「……結果は?」
問いは、ほとんど確認に近かった。
彼女は、わずかに間を置いてから、笑う。
「とても綺麗だったわ」
それ以上の説明はなかった。説明する必要がない、というように。
僕は再び桜を見上げる。その巨大さ、その歪み、その完成。
「ねえ、先生」
彼女が言う。
「知っていても、綺麗に見える?」
「……ああ」
肯定は、ほとんど反射だった。昔からこの考えを持っている僕が否定する訳がなかった。
「変わらないな」
「そう」
彼女は頷く。
「それでいいのよ」
風が吹く。今度は確かに。花がまとまって散る。それは美しく、同時に、どこか決定的な破綻のようにも見えた。
「美しさって、そういうものでしょう?」
僕は、何も言えなかった。
ただ、その桜を見ていた。
その下にあるものを、理解しながら。
それでもなお、その現実離れした美しさから、目を逸らすことができなかった。