ポケットモンスター 君がいた記録   作:人間国宝

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再掲です。


第1話

 

ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 その電子音は、僕の心臓が刻むリズムよりも少しだけ早く、そして正確だった。

 

 アイオン中央総合病院、特別隔離病棟404号室。

 窓の外は今日も灰色の雲が垂れ込めている。この地方特有の重たい空だ。ガラス越しでも、外気が湿り気を帯びているのがわかる。

 

 僕はベッドサイドの白い錠剤――朝の分だけで6錠ある――を、水なしで飲み込んだ。喉の奥に苦味がへばりつく。

 胸元の皮膚の下に埋め込まれたペースメーカー型の制御装置、『リミッター』が微かに熱を帯びているのがわかった。

 

「……大丈夫。落ち着いてる」

 

 自分に言い聞かせるように呟く。

 

 僕、レンの身体は、生まれつき欠陥品だ。

 『過剰生体電流症候群』。人間が生きるために生み出す微弱な生体エネルギーを、僕の細胞は原子炉のように過剰生成してしまう。放っておけば神経が焼き切れ、動けば漏れ出したエネルギーが周囲の機械をショートさせる。

 

 だからこうして、機械で出力を抑え込み、薬で感覚を散らし、白い壁の中で「ただ呼吸をするだけ」の肉塊として生きてきた。16年間。ずっとだ。

 ――でも、それも今日で終わる。

 

 僕はベッドの下に隠していたボストンバッグを引きずり出した。

 中身は最低限だ。1ヶ月分の薬。携帯食料。着替え。そして、中古のショップで裏取引して手に入れた、傷だらけのモンスターボールが一つ。

 指先が震えている。恐怖からか、興奮からか。

 

 心拍数が上がると、胸のリミッターが『ピピ、ピピ』と警告音のリズムを変えた。

 

 『----』

 

 頭の中に直接、幼い男の子のような声が響いた。

 振り返ると、カーテンの陰から、白い身体に緑色の髪のような器官を持った小さなポケモンが顔を出していた。

 

 ラルトスだ。

 病院の中庭に迷い込んできた野生の個体。本来、人の感情を敏感に感じ取りすぎるラルトスは、病院のような負の感情が渦巻く場所には近づかない。

 けれど、こいつは違った。僕の「死にたくない」という強烈なエゴに引かれたのか、あるいは同情したのか。いつからか僕の部屋に通ってくるようになっていた。

 

「……シリウス」

 

 僕がつけた名前を呼ぶと、ラルトス――シリウスは、頭の赤いツノを微かに点滅させた。

 彼にはわかるのだ。僕の感情が今、かつてないほど高ぶっていることが。そして、それが僕の命を削っていることも。

 

 

 僕は着ていた患者衣を脱ぎ捨て、黒いパーカーに袖を通した。少しサイズが大きいそれは、痩せこけた身体を隠すのにちょうどよかった。

 

「緩やかに腐っていくか、一瞬だけ燃えて消えるかだ。僕は……この地方の頂を見たい。あの時計塔の針が、止まる前に」

 

 僕はしゃがみこみ、シリウスの目線に合わせる。

 そして、傷だらけのモンスターボールを差し出した。

 

「連いて来てくれとは言わない。君には君の生息域がある」

 

 シリウスは大きな赤い瞳で、僕の目をじっと見つめた。

 僕の嘘を見抜こうとしている。

 

 怖い。本当は怖い。一歩外に出れば、発作が起きて野垂れ死ぬかもしれない。誰も助けてくれない。

 その「恐怖」が伝わったのだろう。シリウスのツノが赤く強く発光した。

 

 彼は小さくため息をつくように首を振り、そして――自らボールのスイッチに小さなおでこを押し当てた。

 

 シュウッ。

 

 赤い光と共に、彼の姿がボールの中に吸い込まれる。

 手の中に残ったのは、ひやりとした金属の重みだけ。

 それが、僕の命の重さそのもののように感じられた。

 

「……よろしく頼むよ。共犯者」

 

 僕はボールをポケットにねじ込み、窓枠に足をかけた。

 

 

 

 裏口から抜け出し、病院の敷地を出るまでは順調だった。

 雨が降っていたことが幸いした。警備員の視界は悪く、僕の足音も雨音がかき消してくれた。

 

 冷たい雨がパーカー越しに肌を叩く。寒い。けれど、その冷たささえも愛おしい。

 消毒液の臭いがしない空気。湿った土と、アスファルトの匂い。

 肺いっぱいに吸い込むと、咳き込みそうになった。

 正門のゲートを抜け、公道に出ようとした、その時だ。

 

「――バイタル数値異常。心拍数140超え。血圧上昇。リミッターのエラー信号を確認」

 

 冷静すぎる声が、雨の向こうから聞こえた。

 心臓が早鐘を打つ。

 街灯の下、白衣の上にレインコートを羽織った青年が立っていた。

 手にはタブレット端末。足元には、ピンク色の丸いポケモン――ラッキーが、心配そうに眉を下げて控えている。

 

「イサナ……」

「どこへ行くつもりだ、レン」

 

 イサナは顔を上げた。僕より二つ年上の、研修医でありトレーナー。父さんの元部下の息子で、僕の身体データを管理している担当医の一人。

 整った顔立ちだが、目の下には隈がある。彼もまた、僕という厄介な患者のせいで眠れていないのだ。

 

「散歩だよ。ちょっと遠くまでの」

「その顔色は散歩のそれじゃない。チアノーゼが出ている」

 

 イサナはタブレットを閉じ、ポケットからモンスターボールを取り出した。

「即時帰投を勧告する。君の身体は、外気の中で24時間も持たない。今の君は歩く時限爆弾だ」

「爆弾なら、爆発する場所くらい選ばせてくれよ」

「戯言を!」

 

 イサナの声が荒らげられた。

 

「君を生かすために、どれだけの人間が、機材が、薬が動いていると思ってる! 君の命は君だけのものじゃない!」

 

 正論だ。あまりにも正しい。

 でも、だからこそ、僕は拒絶する。

 

「僕の命が僕のものじゃないなら……そんな命、いらないよ」

 

 僕はポケットからボールを掴み出した。

 指先の感覚がない。うまく握れない。それでも、投げた。

 

「出てくれ、シリウス!」

 

 光が弾け、雨の中にラルトスが立つ。

 イサナは目を見開いた。

 

「ポケモン……? いつの間に……いや、今はいい。ラッキー、取り押さえろ。『うたう』だ!」

 

「ラキッ!」

 

 ラッキーが口を開き、柔らかな旋律を奏でようとする。

 その歌声を聞けば、僕は間違いなく眠りに落ち、気づけばベッドの上だろう。

 

 ここで終わるのか? 病院を出て、たった10メートルで?

 ――嫌だ。

 胸のリミッターが『ピーーーッ!』と長く鳴いた。

 

 僕の中の熱い奔流が、指先から溢れ出す。視界が白くチカチカと明滅する。

 

「シリウス……『ねんりき』だ! 歌わせるな!」

 

 僕の叫びと共に、シリウスの目が青白く発光した。

 トレーナーの感情を力に変える。僕の「拒絶」の意志が、そのまま衝撃波となって叩きつけられた。

 

 ドォン!

 

 目に見えない力がラッキーを弾き飛ばす。

 ラッキーは地面を転がり、イサナが「くっ!」と腕で顔を覆った。

 

 本来、か弱いラルトスの念力など、特殊防御の高いラッキーには大したダメージにならないはずだ。

 だが、今のあの一撃は異常だった。

 

 僕の過剰なエネルギーが、シリウスを介して増幅されたのだ。

 その代償に、僕の視界はぐらりと揺れた。鼻の奥から鉄の味がする。鼻血が出ている。

 

「レン、お前……今、自分の寿命を削って……!」

 

 イサナが驚愕の表情でこちらを見る。

 ラッキーが立ち上がろうとする隙に、僕はよろめきながらも駆け出した。

 バス停が見える。最終の深夜バスが、ヘッドライトで雨を切り裂いて近づいてくるのが見えた。

 

「待て! 死ぬぞ!」

 

 イサナの叫び声を背に、僕は泥水を跳ね上げて走った。

 シリウスが並走する。彼は時折僕を見上げるが、止めることはしない。

 バスのドアが開く。

 転がり込むように乗り込むと、運転手が怪訝な顔で僕と、びしょ濡れのラルトスを見た。

 

「ぼ、坊主……大丈夫か? すごい顔色だぞ」

「……大丈夫、です」

 

 僕は懐中時計型の端末――この地方のトレーナー証を読み取り機にかざした。

 

 『認証しました。チャレンジャー登録を確認』

 

 無機質な音声。

 震える足で一番後ろの席に座り込む。

 バスが動き出す。

 窓の外、雨の中に立ち尽くすイサナの姿が小さくなっていった。

 彼は追いかけてくるだろう。医者として、そして恐らくは友人として。

 

 僕は窓に映る自分の顔を見た。

 顔面蒼白。鼻血が筋を作っている。酷い顔だ。

 でも、目は笑っていた。

 こんなに心臓がうるさいのに、不思議と気分は悪くない。

 

「……まずは一つ目のジムだ」

 

 隣の席に座ったシリウスが、心配そうに僕の手の甲に自分の小さな手を重ねた。

 その温かさだけが、今の僕をこの世界に繋ぎ止めている。

 アイオン地方の巡礼の旅。

 僕の命が尽きるのが先か、殿堂の頂に届くのが先か。

 0時00分。

 僕の時計の針が、ようやく動き出した。

 

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