第2のジムがある街、『クロック・タウン』。
街全体が巨大な時計塔の内部に作られたような、歯車と蒸気の迷宮都市だ。
ジムリーダーは、この大時計の管理者でもある老人、『チック』。
ジムの扉を開けると、そこは巨大な振り子が揺れる時計の内部だった。
足場は回転する歯車の上。落ちれば奈落の底だ。
「ホッホッホ。若い挑戦者じゃな。ワシの時間は貴重じゃよ、速やかに終わらせよう」
チック老人が杖を突くと、彼の周りに浮遊するコイルやレアコイルが火花を散らした。
タイプは電気と鋼。
「こちらこそ、時間がない身です。……行け、ハヤテ(テッカニン)!」
僕は進化したばかりのハヤテを繰り出した。
ブゥゥン!
羽音が空間を切り裂く。
特性『かそく』。ターンが経過するごとに素早さが上がっていく。
「速いな。だが、速いだけでは時は刻めぬぞ。コイル、『ロックオン』!」
コイルがハヤテに照準を合わせる。次の一撃が必中になる危険な技。
そして続く技は――
「『でんじほう』!」
回避不能の極太レーザーが放たれる。当たれば即死、かつ麻痺確定。
ハヤテのスピードでも、ロックオンされたら逃げられない。
「戻れ! ……頼むぞ、ウツセミ(ヌケニン)!」
交代の光。
空中に、ぽつんと茶色い抜け殻が現れる。
バチバチバチッ!
コイルの放った電磁砲が、ウツセミを直撃した。
煙が上がる。
チック老人が勝利を確信して笑う。
「紙切れなど一瞬じゃ」
しかし。
煙が晴れたそこには、傷一つなく浮遊するウツセミの姿があった。
「な、なにっ!?」
特性『ふしぎなまもり』。
「効果抜群」の技以外、すべての攻撃を無効化する神の加護(あるいは呪い)。
電気技は、ヌケニン(虫・ゴースト)に対して等倍。
つまり、ダメージゼロ。
僕は冷や汗を拭いながら指示を出す。
ヌケニンは無敵だが、弱点は明確だ。炎、飛行、岩、ゴースト、悪。
相手がそのサブウェポンを持っていたら、HPが「1」しかないヌケニンは即死する。
これは、相手の技構成を読み切るロシアンルーレット。
「コイル、電気技は効かんぞ! 『ジャイロボール』じゃ!」
鋼技。これも等倍。無効!
ウツセミは揺らぎもしない。
「今だ、『シャドークロー』!」
ウツセミが音もなく背後に回り込み、闇の爪でコイルを切り裂く。
一撃。
チック老人の表情が変わる。
「……得体のしれぬポケモンじゃ。なら、これでどうじゃ! レアコイル!」
次に現れたレアコイル。
こいつが何をしてくるか。岩技の『いわなだれ』か? 炎技の『めざめるパワー』か?
僕の心臓が早鐘を打つ。
ウツセミの背中の穴が、僕を見つめている気がした。
「レアコイル、『ちょうおんぱ』!」
混乱技!
これは防げない!
ウツセミがふらふらと空中で軌道を乱す。
混乱して自分を攻撃すれば、その衝撃でHP1が尽きて死ぬ。
「戻すしかないか……いや、交代際に追撃されたらハヤテが死ぬ」
絶体絶命。
――タイミングを合わせろ。
僕は目を閉じた。
ウツセミの虚無と同調する。
混乱? いや、空っぽの器に混乱する脳みそなんてないはずだ。
本能のままに動け。
「ウツセミ、そのまま突っ込め! 『かげうち』!」
ウツセミがふらつきながらも、影を伸ばした。
実体ではなく、影による先制攻撃。
影がレアコイルを貫く。
勝負は、薄氷の上でのダンス。
僕の命と、ウツセミの儚い命がリンクして、歯車仕掛けの迷宮を突破していく。
2つ目のバッジ。
その代償に、僕の手は冷たくなり、爪先の色が紫色に変色し始めていた。
『クロック・タウン』のジムを出た瞬間、僕は石畳の上に膝をついた。
勝利の余韻などない。あるのは、冷え切った身体の震えだけだ。
「……はは、危なかった」
ジムリーダーは、チャレンジャーの実力を見るために、あえて段階を踏んで戦う。
僕はその「テスト」の最初の段階で、全力を使い果たしてギリギリ合格したに過ぎない。
「……次からは、奇策だけじゃ勝てないな」
僕は懐中時計を見た。2つ目の歯車が嵌まっている。
だが、代償は大きかった。
指先の感覚がない。血流が悪くなり、紫色に変色している(チアノーゼ)。リミッターが抑えきれないエネルギーの漏出が、末梢神経を焼き始めているのだ。
僕は路地裏の軒下で、震える手で薬を飲んだ。
苦い。吐き気がする。
シリウス(キルリア)が、悲しげな目で僕の背中をさする。
ウィック(ヒトモシ)は、僕の弱った魂の匂いを嗅ぎつけ、心配そうに――あるいは美味しそうに――周りをふわふわと漂っている。
その時、ウィックがふと、僕のリュックのポケットに顔を突っ込んだ。
取り出したのは、イサナがくれた『きずぐすり』……ではなく、『もうどくプレート』だった。
以前、野生のポケモンが落としたものを拾っていたアイテムだ。毒タイプの技の威力を上げる道具。
『ポゥ!』
ウィックはそれを、自分の蝋の身体の中に押し込んだ。
紫色の炎が、ドス黒く変色する。
彼はニヤリと笑い、僕の冷え切った手に自分の身体を押し付けた。
熱い。
火傷しそうなほどの熱量。
ウィックは、自分の炎に「毒」の性質を混ぜることで、燃焼効率を無理やり上げたのだ。
「……バカ野郎。お前まで命を削ってどうする」
毒は、ポケモン自身の身体も蝕む。
だが、その強烈な熱のおかげで、僕の指先に血の巡りが戻ってきた。
共犯関係は、より深く、より危険な領域へ沈んでいく。
3つ目の街へ向かう街道沿いに、『写生の丘』と呼ばれる場所があった。
一面の花畑。風光明媚なこの場所には、多くの芸術家や、風景を描くポケモンたちが集まる。
僕の命が尽きる前に、少しでも多くの景色を目に焼き付けたい。
そんな感傷で立ち寄った丘の上で、奇妙なポケモンに出会った。
ドーブルだ。
二足歩行の犬のような姿。長い尻尾の先からペンキを出し、絵を描くポケモン。
だが、その個体は異質だった。
他のドーブルたちが美しい花や空を描いている中で、彼だけは、「枯れた花」や「腐った倒木」、「雨に濡れたアスファルト」など、誰も見向きもしない暗い景色ばかりを描いていた。
キャンバス代わりの岩に描かれたその絵は、陰鬱だが、嘘のように写実的で、心を掴む何かがあった。
「……いい絵だ」
僕が呟くと、ドーブルは驚いて筆を止めた。
彼はずっと、群れの中で変わり者扱いされていたのだろう。自分の絵を褒められたことに、困惑しているようだった。
僕はシリウスをボールから出した。
「バトルしよう。君のその観察眼、僕の旅に必要だ」
ドーブルはニヤリと笑い、尻尾を構えた。
彼の技は『スケッチ』一つのみ。
相手が使った技を、そのまま自分の技として習得する特殊能力。
「シリウス、『マジカルリーフ』!」
輝く葉っぱがドーブルを襲う。
ドーブルはそれを紙一重でかわし、尻尾を振るう。
『スケッチ』発動。
次の瞬間、ドーブル自身が『マジカルリーフ』を放ち、相殺した。
「なるほど、見たものを完全にコピーするのか。……なら、これはどう?」
僕はウィック(ヒトモシ)を出した。
ダブルバトル形式だ。
「ウィック、『おにび』!」
青白い鬼火が迫る。
ドーブルはそれもスケッチしようとするが――熱さに筆が止まる。
形のない「炎」や、目に見えない「幽霊の技」を描き写すのは難しいらしい。
「君は、形あるものしか描けないのか? ……違うだろ。君が描いていた枯れ木には、命の終わりが描かれていた」
僕は叫んだ。
ドーブルの瞳が揺れる。
そうだ、見ろ。僕のこの、死にかけた命の色を。
「ウィック、最大出力だ! 僕の命を燃やせ!」
僕のリミッターが悲鳴を上げる。
ウィックの炎が膨れ上がり、丘全体を飲み込むような火柱となる。
ドーブルは逃げない。
その圧倒的な「死と生の輝き」に魅入られたように、尻尾を走らせた。
カッ!
火柱の中で、ドーブルが描き上げたのは、技のコピーではない。
炎そのものをキャンバスに封じ込めたような、芸術的な防御壁――『キングシールド』だった。
炎を防ぎきったドーブルは、満足げに息を吐き、自ら僕の前に歩み寄ってきた。
僕はボールを投げた。
抵抗はない。
「……よろしくな、『キャンバス』。僕の最期まで、しっかり記録してくれよ」
チック老人は物忘れが激しいです。