チャンピオンロードは、道ではなかった。
それは、雲を突き抜ける霊峰『クロノス』の断崖絶壁そのものだった。
酸素濃度は平地の三分の二。気温はマイナス30度。
ここを登れるのは、選び抜かれた強者か、死に急ぐ愚か者だけだ。
「……ハァ、ハァ……ッ」
一歩踏み出すたびに、肺が凍りつく音がする。
僕はもう、自力で歩いてはいなかった。
シリウス(エルレイド)が僕の背中を支え、ウィック(ランプラー)が僕の胸元に張り付いて、止まりそうな心臓に直接熱を送り続けている。
ウィックの炎は、もう紫ではない。完全燃焼を示す「白」に変わっていた。彼もまた、限界を超えて僕の命を燃やしている。
ガサッ……。
岩陰から、鋭い視線を感じる。
野生のサイドンや、空を舞うプテラの影。
ここの野生ポケモンは、下界とはレベルが違う。彼らは襲ってはこなかった。ただ、死相を浮かべて歩く僕たちを、「獲物」としてではなく「通過する死体」として見送っているようだった。
意識が飛びそうになるのを、キャンバス(ドーブル)が尻尾で頬を叩いて引き戻す。
痛覚さえ鈍い。
その時、巨大な影が道を塞いだ。
鋼鉄の巨体。四本の脚。
メタグロスだ。
野生か、あるいは門番か。スーパーコンピュータ並みの頭脳を持つそのポケモンは、赤い瞳で僕をスキャンし、計算した。
『生存確率ゼロ。通行は不許可』。
そう判断したかのように、重力波のようなサイコキネシスを放ってきた。
ズドン!
雪面が陥没する。
シリウスが前に出るが、重圧に膝をつく。
「……どけ。僕の計算じゃ、確率は100%だ」
僕は掠れた声で吼えた。
ハヤテ(テッカニン)が飛び出す。重力を振り切る加速。
ウツセミ(ヌケニン)が影に潜る。
キャンバスが、メタグロスの『コメットパンチ』をスケッチし、倍返しで叩き込む。
論理じゃない。執念だ。
ボロボロのパーティが、完全無欠の鋼鉄を押し返す。
メタグロスは計算外の事象に演算処理が追いつかず、一瞬動きを止めた。
「今だ……抜けろッ!」
その隙に、僕たちは横をすり抜けた。
メタグロスは追ってこなかった。
ただ、計算不能のエラーを吐き出しながら、吹雪の中に佇んでいた。
山頂付近。
雲海を見下ろす『天空の広場』。
そこに、彼は待っていた。
白衣は泥と雪で汚れ、いつもの冷静な仮面は剥がれ落ちていた。
イサナ。
僕の主治医であり、ライバルであり、恐らく世界で唯一の友人。
「……ここを通すわけにはいかない」
イサナの声が震えている。
彼は知っているのだ。この先、四天王とチャンピオンとの連戦になれば、僕の心臓が確実に破裂することを。
これはバトルではない。緊急手術(オペ)だ。
患部を切除し、命を救うための。
「俺が勝ったら、お前を眠らせてでも連れ帰る。……恨んでくれていい」
イサナが掲げたのは、虹色に輝く石――『キーストーン』が埋め込まれた聴診器だった。
本気だ。
彼のエース、メガニウムが吼える。
そして、傍らのタブンネが光に包まれた。
「メガシンカ!」
眩い光の中から現れたのは、天使のような羽衣を纏ったメガタブンネ。
タイプはノーマル・フェアリー。
圧倒的な耐久力と、慈愛に満ちた癒やしの波動を持つ要塞。
「行け、シリウス! 最後の壁を壊すぞ!」
シリウスが突っ込む。
『インファイト』!
拳がメガタブンネの柔らかな腹部に吸い込まれる。
だが、弾力が衝撃を殺す。硬い。
メガタブンネは微笑みすら浮かべ、シリウスを抱きしめた。
『ドレインキッス』。
シリウスの体力が吸い取られ、メガタブンネが回復する。
「無駄だ。俺のパーティは絶対に崩れない。お前が諦めるまで、何度でも回復し、受け止める!」
イサナの戦術は「守り」の極致。
攻撃してこない。ただ、こちらのPPと体力が尽きるのを待つ。
それは、「少しでも長く生きてほしい」という彼の祈りそのものだった。
時間が経つごとに、僕の視界が黒く染まっていく。
寒い。眠い。
あの中で眠れば、きっと温かいんだろう。
でも。
「……僕は、長生きするために生まれたんじゃない」
僕は懐中時計を握りしめた。
シリウスが振り返る。僕の目を見る。
頷いた。
僕らは、一瞬の輝きを選ぶ。
「………シリウス! 『みちづれ』だ!」
イサナが目を見開く。
「バカな!? エルレイドはその技を覚えないはず……!」
通常なら覚えない。
だが、この旅でシリウスはずっと見てきた。
ウィックの呪いを、ウツセミの虚無を。
そしてキャンバスのスケッチを通して、魂の形を変える術を学んでいた。
これは技ではない。
自身の精神エネルギーを暴走させ、相手の精神と無理やりリンクさせる、禁断の同調。
シリウスの刃が、自分自身の胸に向けられる。
いや、違う。彼は「自分の中の、生への執着」を断ち切ったのだ。
ドクン!
メガタブンネが膝をつく。
リンクしたダメージ。
鉄壁の守りが、内側から崩壊する。
「やめろぉぉぉッ! レン!!」
イサナの絶叫。
その隙を、ハヤテ(テッカニン)が見逃さなかった。
音速の特攻。
崩れたメガタブンネの眉間に、必殺の『シザークロス』が突き刺さる。
巨体がゆっくりと倒れる。
メガシンカが解け、元のタブンネに戻る。
勝負あり。
イサナはその場に崩れ落ち、雪を拳で叩いた。
「……なんでだ。なんで、死ぬとわかっていて……」
僕はイサナの前に歩み寄り、膝をついた。
そして、泣いている彼の肩に手を置いた。
「……処置(オペ)は失敗だ、ヤブ医者」
「うるさい……バカ患者が……」
イサナは顔を上げ、涙を拭うと、バッグから一本の注射器を取り出した。
僕は抵抗しなかった。
彼が打ったのは、鎮静剤ではなく、強力な強壮剤(ドーピング)だった。
「……一時的に心機能をブーストする。だが、反動で確実に寿命は縮む。……行け。最後まで見届けてやる」
それが、彼なりの敗北宣言であり、最大の手向けだった。