ポケットモンスター 君がいた記録   作:人間国宝

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第2話

 

 深夜バスのエンジンの振動が、骨の髄まで響いてくる。

 車内の暖房は効きすぎているほどなのに、僕の指先は氷のように冷たかった。

 

「……ッ、はあ……」

 

 僕は座席のシートに深く沈み込み、荒い呼吸を整えることに集中した。

 胸元のリミッターは沈黙しているが、先ほど放出したエネルギーの反動で、体中が鉛のように重い。血管の中を泥が流れているような不快感。

 

 隣の席で、シリウス(ラルトス)が身じろぎした。

 彼は僕の左腕に、自身の小さな白い手を添えている。

 

『キルゥ……』

 

 細く、鈴を転がすような鳴き声。

 言葉は聞こえない。だが、腕の接触面から、「不安」「焦燥」「心配」といった感情の波が、じんわりと僕の脳内に染み込んでくる。

 

 僕は震える手で、シリウスの緑色の頭を撫でた。

 

「平気だ。ただの……ガス欠だよ」

 

 強がりを言うと、シリウスの頭にある赤いツノが、一瞬だけ鋭く明滅した。

 

 『嘘つき』。そう言われた気がした。

 彼は不満げに頬を膨らませるような仕草を見せ、それから僕の太ももに顔を埋めるようにして寄りかかってきた。僕の体温を確認するかのように。

 

 

 午前3時。バスは終点の街に到着した。

 アイオン地方の南端、『始動区(ギア・ワン)』と呼ばれる工業港湾都市だ。

 

 プシューッ、という音と共にドアが開く。

 タラップを降りた瞬間、潮風と機械油、そして鉄錆の混じった匂いが鼻孔を突いた。

 

 港には巨大なクレーンが林立し、街全体が低い駆動音を立てている。まるで巨大な機械仕掛けの中に迷い込んだようだ。

 

「……寒いな」

 

 パーカーのフードを目深にかぶり、僕は歩き出した。

 

 

 休息が必要だった。足はもつれ、視界の端が黒く滲んでいる。

 

 本来ならポケモンセンターに行くべきだ。そこならトレーナー向けの簡易宿泊施設が無料で使える。

 しかし、それは自殺行為に等しい。

 

 イサナのことだ。既に地方全域のセンターのネットワークに、僕の手配書――『保護対象者:レン』のデータを回しているに違いない。IDを通せば即座に通報がいき、ジョーイさんに笑顔で拘束されるだろう。

 

(野宿か……いや、この気温じゃ朝までに心臓が止まる)

 

 路地裏を彷徨う。

 配管が迷路のように張り巡らされた薄暗い路地。蒸気が噴き出すパイプの近くなら暖かいかもしれない。

 

 僕は建物の隙間、換気扇の下あたりに、身を隠せるスペースを見つけた。

 ここなら雨風は凌げる。

 

「シリウス、今日はここで休もう」

 

 リュックを下ろそうとした、その時だ。

 

 バチッ。

 

 静電気が爆ぜるような音がした。

 

 シリウスが素早く僕の前に飛び出し、低い警戒の声を上げる。

 

『ラッ!』

 

 暗闇の奥から、複数の光る「目」が現れた。

 複眼だ。黄色い、小さな電気の光。

 カサカサという音と共に、黄色い毛玉のような小さなポケモンたちが這い出てくる。

 

 バチュルだ。電気を主食とする虫ポケモン。

 一匹、二匹ではない。十匹以上の群れが、涎を垂らすような飢えた気配でこちらを見ている。

 

(……そうか、僕のせいだ)

 

 僕の身体から漏れ出す「過剰な生体エネルギー」。

 それが彼らにとっては、極上の餌の匂いとして漂ってしまっているのだ。

 

「……ごめん、シリウス。僕が撒き餌になっちゃってるみたいだ」

 

 僕が一歩下がると、バチュルたちは一斉に跳躍した。

 狙いは僕だ。

 

『キルァッ!』

 

 シリウスが手をかざす。念力の波動が先頭の二匹を叩き落とす。

 しかし、数が多い。

 小さいとはいえ、野生のポケモンだ。噛みつかれればただでは済まないし、何より電気を吸い取られたら、僕の不安定な心臓はショック状態に陥る。

 一匹のバチュルが僕の足元をすり抜け、膝に飛びついてきた。

 チクリとした痛みの直後、ズズズッと体内の力が引きずり出される感覚。

 

「う、ぐっ……!」

 

 膝から崩れ落ちる。

 シリウスが振り返り、悲痛な声を上げた。助けに行こうとするが、他のバチュルたちに囲まれて身動きが取れない。

 シリウスはまだ戦闘経験が浅い。ただの「念力」では、素早い虫たちを捉えきれていない。

 

(指示を……出さなきゃ……)

 

 薄れる意識の中で、僕は必死に思考を回した。

 病院のベッドの上で、何百回もシミュレーションしたバトルの知識。

 バチュルは電気・虫タイプ。体重は軽い。密集している。

 シリウスが使える技は『ねんりき』と『なきごえ』、そして『かげぶんしん』。

 

「シリウス……!」

 

 僕は声を絞り出した。

 シリウスが僕を見る。その大きな瞳が、恐怖で見開かれている。

 イメージを叩きつけろ。

 僕は自分のリミッターが発する熱を感じながら、シリウスに「感覚」を送った。

 ――僕を守るんじゃない。お前自身が増えるイメージだ。そして、混乱させろ。

 

「『かげぶんしん』……からの、『なきごえ』だ!」

 

 シリウスの姿がブレた。

 

 一体、二体、五体。

 残像が路地裏を埋め尽くす。バチュルたちが標的を見失い、キョロキョロと視線を彷徨わせる。

 その隙を突き、全ての分身が一斉に、耳をつんざくような高周波の声を上げた。

 

『キルゥゥゥーーーーッ!!』

 

 狭い路地裏で音が反響する。聴覚の鋭いバチュルたちが、苦しんでひっくり返る。

 敵の攻撃力が下がった、その一瞬の隙。

 

「今だ……まとめて弾き飛ばせ!」

 

 シリウスの実体が、青白いオーラを纏う。

 彼の感情――僕を傷つけられたことへの「怒り」が、念力の威力を底上げしていた。

 衝撃波が扇状に広がり、バチュルの群れを一掃する。

 小さな身体たちが空き缶のように吹き飛び、蜘蛛の子を散らすように闇の奥へ逃げていった。

 

 静寂が戻る。

 僕は壁に背を預けたまま、ずるずると座り込んだ。

 膝の傷跡が熱い。少し電気を吸われただけで、酷い目眩がする。

 

『……キル?』

 

 シリウスが駆け寄ってきた。

 分身は消え、ただ一人の小さな相棒が、涙目になって僕の膝の傷を覗き込んでいる。

 彼は自分の頬を僕の手に擦り付け、必死に「ごめんね」「痛い?」「怖かった」という感情を送ってくる。その感情の奔流が強すぎて、僕の頭痛が悪化するほどだ。

 

「……はは、泣くなよ。勝ったんだぞ」

 

 僕は震える指で、バッグから『キズぐすり』を取り出した。

 シュッ、と冷たい霧を吹きかけると、痛みが少し引く。

 これが、現実の旅だ。

 ゲームやテレビのような華やかさはない。汚くて、痛くて、理不尽だ。

 

 でも。

 僕は目の前のシリウスを見た。

 僕のために怒り、僕のために泣いてくれる存在が、確かにここにいる。

 病院のベッドで一人、天井のシミを数えていた夜とは違う。

 

「ありがとう、シリウス。助かった」

 

 僕がお礼を言うと、シリウスはきょとんとして、それから少し照れくさそうに顔を背けた。

 ツノの光が、温かなピンク色に変わっていた。

 僕はコンクリートの冷たい地面の上で、シリウスを抱き寄せて目を閉じた。

 リミッターの警告音も、今は静かだ。

 ここが僕らのスタートライン。

 

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