深夜バスのエンジンの振動が、骨の髄まで響いてくる。
車内の暖房は効きすぎているほどなのに、僕の指先は氷のように冷たかった。
「……ッ、はあ……」
僕は座席のシートに深く沈み込み、荒い呼吸を整えることに集中した。
胸元のリミッターは沈黙しているが、先ほど放出したエネルギーの反動で、体中が鉛のように重い。血管の中を泥が流れているような不快感。
隣の席で、シリウス(ラルトス)が身じろぎした。
彼は僕の左腕に、自身の小さな白い手を添えている。
『キルゥ……』
細く、鈴を転がすような鳴き声。
言葉は聞こえない。だが、腕の接触面から、「不安」「焦燥」「心配」といった感情の波が、じんわりと僕の脳内に染み込んでくる。
僕は震える手で、シリウスの緑色の頭を撫でた。
「平気だ。ただの……ガス欠だよ」
強がりを言うと、シリウスの頭にある赤いツノが、一瞬だけ鋭く明滅した。
『嘘つき』。そう言われた気がした。
彼は不満げに頬を膨らませるような仕草を見せ、それから僕の太ももに顔を埋めるようにして寄りかかってきた。僕の体温を確認するかのように。
午前3時。バスは終点の街に到着した。
アイオン地方の南端、『始動区(ギア・ワン)』と呼ばれる工業港湾都市だ。
プシューッ、という音と共にドアが開く。
タラップを降りた瞬間、潮風と機械油、そして鉄錆の混じった匂いが鼻孔を突いた。
港には巨大なクレーンが林立し、街全体が低い駆動音を立てている。まるで巨大な機械仕掛けの中に迷い込んだようだ。
「……寒いな」
パーカーのフードを目深にかぶり、僕は歩き出した。
休息が必要だった。足はもつれ、視界の端が黒く滲んでいる。
本来ならポケモンセンターに行くべきだ。そこならトレーナー向けの簡易宿泊施設が無料で使える。
しかし、それは自殺行為に等しい。
イサナのことだ。既に地方全域のセンターのネットワークに、僕の手配書――『保護対象者:レン』のデータを回しているに違いない。IDを通せば即座に通報がいき、ジョーイさんに笑顔で拘束されるだろう。
(野宿か……いや、この気温じゃ朝までに心臓が止まる)
路地裏を彷徨う。
配管が迷路のように張り巡らされた薄暗い路地。蒸気が噴き出すパイプの近くなら暖かいかもしれない。
僕は建物の隙間、換気扇の下あたりに、身を隠せるスペースを見つけた。
ここなら雨風は凌げる。
「シリウス、今日はここで休もう」
リュックを下ろそうとした、その時だ。
バチッ。
静電気が爆ぜるような音がした。
シリウスが素早く僕の前に飛び出し、低い警戒の声を上げる。
『ラッ!』
暗闇の奥から、複数の光る「目」が現れた。
複眼だ。黄色い、小さな電気の光。
カサカサという音と共に、黄色い毛玉のような小さなポケモンたちが這い出てくる。
バチュルだ。電気を主食とする虫ポケモン。
一匹、二匹ではない。十匹以上の群れが、涎を垂らすような飢えた気配でこちらを見ている。
(……そうか、僕のせいだ)
僕の身体から漏れ出す「過剰な生体エネルギー」。
それが彼らにとっては、極上の餌の匂いとして漂ってしまっているのだ。
「……ごめん、シリウス。僕が撒き餌になっちゃってるみたいだ」
僕が一歩下がると、バチュルたちは一斉に跳躍した。
狙いは僕だ。
『キルァッ!』
シリウスが手をかざす。念力の波動が先頭の二匹を叩き落とす。
しかし、数が多い。
小さいとはいえ、野生のポケモンだ。噛みつかれればただでは済まないし、何より電気を吸い取られたら、僕の不安定な心臓はショック状態に陥る。
一匹のバチュルが僕の足元をすり抜け、膝に飛びついてきた。
チクリとした痛みの直後、ズズズッと体内の力が引きずり出される感覚。
「う、ぐっ……!」
膝から崩れ落ちる。
シリウスが振り返り、悲痛な声を上げた。助けに行こうとするが、他のバチュルたちに囲まれて身動きが取れない。
シリウスはまだ戦闘経験が浅い。ただの「念力」では、素早い虫たちを捉えきれていない。
(指示を……出さなきゃ……)
薄れる意識の中で、僕は必死に思考を回した。
病院のベッドの上で、何百回もシミュレーションしたバトルの知識。
バチュルは電気・虫タイプ。体重は軽い。密集している。
シリウスが使える技は『ねんりき』と『なきごえ』、そして『かげぶんしん』。
「シリウス……!」
僕は声を絞り出した。
シリウスが僕を見る。その大きな瞳が、恐怖で見開かれている。
イメージを叩きつけろ。
僕は自分のリミッターが発する熱を感じながら、シリウスに「感覚」を送った。
――僕を守るんじゃない。お前自身が増えるイメージだ。そして、混乱させろ。
「『かげぶんしん』……からの、『なきごえ』だ!」
シリウスの姿がブレた。
一体、二体、五体。
残像が路地裏を埋め尽くす。バチュルたちが標的を見失い、キョロキョロと視線を彷徨わせる。
その隙を突き、全ての分身が一斉に、耳をつんざくような高周波の声を上げた。
『キルゥゥゥーーーーッ!!』
狭い路地裏で音が反響する。聴覚の鋭いバチュルたちが、苦しんでひっくり返る。
敵の攻撃力が下がった、その一瞬の隙。
「今だ……まとめて弾き飛ばせ!」
シリウスの実体が、青白いオーラを纏う。
彼の感情――僕を傷つけられたことへの「怒り」が、念力の威力を底上げしていた。
衝撃波が扇状に広がり、バチュルの群れを一掃する。
小さな身体たちが空き缶のように吹き飛び、蜘蛛の子を散らすように闇の奥へ逃げていった。
静寂が戻る。
僕は壁に背を預けたまま、ずるずると座り込んだ。
膝の傷跡が熱い。少し電気を吸われただけで、酷い目眩がする。
『……キル?』
シリウスが駆け寄ってきた。
分身は消え、ただ一人の小さな相棒が、涙目になって僕の膝の傷を覗き込んでいる。
彼は自分の頬を僕の手に擦り付け、必死に「ごめんね」「痛い?」「怖かった」という感情を送ってくる。その感情の奔流が強すぎて、僕の頭痛が悪化するほどだ。
「……はは、泣くなよ。勝ったんだぞ」
僕は震える指で、バッグから『キズぐすり』を取り出した。
シュッ、と冷たい霧を吹きかけると、痛みが少し引く。
これが、現実の旅だ。
ゲームやテレビのような華やかさはない。汚くて、痛くて、理不尽だ。
でも。
僕は目の前のシリウスを見た。
僕のために怒り、僕のために泣いてくれる存在が、確かにここにいる。
病院のベッドで一人、天井のシミを数えていた夜とは違う。
「ありがとう、シリウス。助かった」
僕がお礼を言うと、シリウスはきょとんとして、それから少し照れくさそうに顔を背けた。
ツノの光が、温かなピンク色に変わっていた。
僕はコンクリートの冷たい地面の上で、シリウスを抱き寄せて目を閉じた。
リミッターの警告音も、今は静かだ。
ここが僕らのスタートライン。