静寂が支配する頂の祭壇に、荒い息遣いと、雪を踏みしめる足音だけが響いていた。
「……レン! おい、レン!」
イサナが駆け寄ってくる。
彼は白衣を泥だらけにし、肩で息をしながら、祭壇のマシンにもたれかかって眠る少年の元へ滑り込んだ。
医療キットを広げる手つきは、かつてないほど焦っていた。
「脈は……まだあるか!? クソッ、体温が低すぎる! ハピナス、強心剤だ! 早くしろ!」
イサナの怒号が飛ぶ。
だが、レンを守るように寄り添っていたエルレイド――シリウスは、静かに首を横に振った。
彼は血まみれの左手で、イサナの手を優しく押し留めた。
『……』
シリウスの赤い瞳は、深く澄んでいた。
そこには、悲嘆も絶望もない。ただ、約束を果たした戦士の安らぎだけがあった。
イサナの手が止まる。
彼はレンの顔を覗き込んだ。
その表情は、苦悶に歪んでいなかった。
まるで最高の悪戯を成功させた子供のように、満足げに微笑んだまま、目を閉じていた。
胸元のリミッターは砕け散り、心臓の音はもう聞こえない。
けれど、その身体からは不思議と温かい熱気が立ち昇っていた。
最期まで彼を生かし続けた、青い炎の残り香。
「……バカ野郎」
イサナは注射器を雪の上に落とした。
膝から力が抜け、レンの隣に崩れ落ちる。
「勝ったまま逃げ切るなんて、反則だろうが……」
イサナは涙を流さなかった。
ただ、レンの冷たくなった手を両手で包み込み、頭上の星空を見上げた。
0時00分を過ぎた時計の針が、新しい一日を告げていた。
レンがいなくなった、新しい世界。
モニターには、まだ『CHAMPION』の文字が輝き続けていた。
――3年後。
アイオン地方、レクイエム・シティ郊外。
海を見下ろす『写生の丘』に、一つの新しい墓標が立っていた。
黒曜石で作られた、小さな石碑。
そこには名前も、没年も刻まれていない。
ただ、8つの歯車(バッジ)のレリーフと、短い一文だけが刻まれている。
『瞬きより速く駆け抜け、永遠より長く刻まれた者 ここに眠る』
風が吹いた。
花畑が波打つ中、白衣を着た青年――イサナが、その石碑の前に花を手向けていた。
今の彼は、地方屈指のドクターであり、そしてポケモンリーグの医療顧問も務めている。
「……よう。久しぶりだな」
イサナは石碑に語りかける。
返事はない。波の音が答えるだけだ。
「最近のチャレンジャーは小粒でな。お前みたいに、命を削ってまで挑んでくるバカはいなくなったよ。……平和なもんだ」
イサナは苦笑し、懐から一枚のスケッチブックを取り出した。
「ほら、あいつからの新作だ」
墓石の前にスケッチブックを開いて置く。
そこに描かれていたのは、四季折々のアイオン地方の風景。
春の桜、夏の入道雲、秋の紅葉、冬のオーロラ。
そして、そのすべての風景の中に、小さく「後ろ姿の少年」が描かれていた。
空から、黄金の羽音。
テッカニンのハヤテが、目にも止まらぬ速さで旋回し、花粉を運んでくる。
その影には、ひっそりとヌケニンのウツセミが浮いている。彼は変わらず、虚無の穴で空を見つめていた。
そして、石碑の最前列。
墓守のように片膝をついて座る、隻腕のエルレイド。
シリウス。
彼は野生に戻ったわけではない。かといって、イサナの手持ちになったわけでもない。
彼はただ、ここにいる。主との思い出を守るために。
イサナは、シリウスの隣に座った。
「……あいつの記録、まだ誰も抜けないんだ」
ポケモンリーグのクリアタイム。
レンが叩き出した記録は、3年経った今も破られていない。
病弱な少年が、命を燃やし尽くして駆け抜けた速度。
それは今や伝説となり、多くのトレーナーたちの憧れとなっていた。
ふと、石碑の前に置かれた青いランタンに、火が灯った。
誰も火をつけていないのに、ひとりでに燃え上がった青白い炎。
ウィックだ。
彼はもう実体を持たないが、この場所にはいつも、優しい火の粉が舞っている。
『……』
シリウスが立ち上がり、海の方角を指差した。
そこには、新しい旅に出ようとする、一人の少年トレーナーの姿があった。
弱そうなコラッタを連れた、頼りない少年。
けれど、その目は希望に燃えている。
「……行くか、シリウス」
イサナが立ち上がる。
シリウスは頷き、片腕を振って風を切った。
彼らは時々、こうして新人トレーナーをこっそり導いているらしい。
かつて、自分たちが誰よりも苦労して歩んだ道を、次の世代が歩めるように。
「じゃあな、レン。また来る」
イサナは背を向けた。
振り返らない。
レンはもう、過去の悲しい思い出ではない。
彼らの背中を押す、追い風になったのだから。
誰もいなくなった丘の上。
風が吹き抜け、スケッチブックのページをめくった。
最後のページ。
そこには、こんな絵が描かれていた。
満天の星空の下、頂の祭壇で。
ボロボロのポケモンたちに囲まれて、涙を流しながら笑っている少年の顔。
その下には、下手くそな字で、こう記されていた。
『ありがとう。最高のトレーナー』
青い炎が揺らめき、その文字を優しく照らす。
墓標の懐中時計は、永遠に0時00分を指したまま。
けれど、物語は終わらない。
誰かが冒険に出るたび、誰かが夢を追うたび。
その一瞬の輝きの中に、彼は必ずいる。
瞬きより速く。
永遠より長く。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
かなり駆け足でダイジェストの様になってしまいましたが、レンくんの物語としては相応しいのではないでしょうか。
バトルの描写など分かりにくい部分も多かったと思います。すみません。
ジムバトルでジムトレーナーの繰り出すポケモンが少なかったり、急にダブルバトルになったりと混乱したかもしれません。
基本的にチャレンジャーの実力を測るためにその場に応じて対応できるかどうか、またチャレンジャーの好きな様にさせるといった方針でした。
説明するの忘れてました。
気が向けば番外編なども投稿します。