目覚めは最悪だった。
コンクリートから這い上がる冷気が、全身の関節を錆びつかせているようだった。
僕は身じろぎして、呻き声を漏らす。
その瞬間、胸の上に乗っていた「重み」が動いた。
『……キル?』
シリウスだ。彼は僕の胸の上で丸くなって眠っていたらしい。
僕が目を覚ますと、彼はすぐに飛び起きて、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。
彼の小さな手足は冷たい。僕を温めようとしてくれていたのだろう。
「……おはよう。生きてるよ、なんとか」
身体を起こすと、路地裏の隙間から灰色の空が見えた。
朝だ。
『始動区』の朝は早い。遠くで工場の始業を告げるサイレンが鳴り響き、蒸気の噴出音が街のリズムを作っている。
僕はポケットから薬ケースを取り出し、朝の分の錠剤を口に放り込んだ。水は昨夜の雨水が溜まったドラム缶から少し拝借した。衛生的とは言えないが、脱水症状よりはマシだ。
懐中時計型端末ーートレーナー証を取り出す。
文字盤には数字がなく、代わりに8つの窪みがある。今は空っぽのその窪みが、僕の空虚な寿命そのものに見えた。
まずは一つ。この街のジムリーダーを倒し、歯車を手に入れなければ、先へは進めない。
だが、今の僕にはジムに挑む前に解決すべき問題があった。
腹が減ったのだ。
僕も、シリウスも。
広場の一角、作業員たちがたむろする屋台通り。
鉄板で肉や野菜を焼く香ばしい匂いが漂っている。
シリウスが鼻をヒクつかせ、僕のズボンの裾を引いた。
『キルゥ……』
「わかってる。でも、金が足りないんだ」
僕は屋台の脇にある、即席のバトルコートへ目を向けた。
地面にチョークで線が引かれただけの粗末な場所。
そこでは、作業着を着た男たちが、賭けにも似た賞金マッチを行っている。
公式戦ではない、小遣い稼ぎの野良試合。
今の僕が手っ取り早く食い扶持を稼ぐには、これしかない。
「……すみません。次、僕に挑ませてくれませんか」
僕が声をかけると、たむろしていた男たちが一斉にこちらを見た。
病人のように白い肌、細い腕。そして足元には、愛玩用に見える小さなラルトス。
男たちの一人、太い腕に刺青を入れた大男が、鼻で笑った。
「おいおい、お嬢ちゃん。迷子か? ここはポケモンを撫で回す場所じゃねえぞ」
「お嬢ちゃんじゃありません。それに、撫で回すつもりもありません。……1試合、1000円でどうですか」
僕が精一杯の虚勢を張ると、男はニヤリと笑い、腰のベルトからヘビーボールを取った。
「いい度胸だ。朝の準備運動にはちょうどいい。怪我しても泣くなよ!」
男がボールを投げる。
ドスン! という重い音と共に現れたのは、鉄骨を担いだ灰色のポケモン――『ドッコラー』だった。
筋肉隆々の身体。あんな鉄骨で殴られたら、シリウスの華奢な身体など一撃で砕ける。
(タイプ相性は有利だ。エスパーは格闘に強い。でも……)
僕はシリウスを見た。彼は怯えていない。
僕を守るために前に出ている。その小さな背中から、「やるぞ」「負けない」という強い意志が伝わってくる。
「……頼むぞ、シリウス」
「始めッ!」
審判役の男が手を振り下ろした瞬間、ドッコラーが突進してきた。
速い。見た目に似合わず、踏み込みが鋭い。
「『はたく』だ!」
男の指示で、ドッコラーが鉄骨を横薙ぎに振るう。
風切り音が聞こえるほどの剛腕。
「かわせ!」
僕の指示より速く、シリウスは反応していた。
僕の「怖い」という直感を共有しているからだ。彼は紙一重で鉄骨の下を潜り抜ける。
だが、風圧だけでよろめく。体重差がありすぎる。
「シリウス、『ねんりき』!」
シリウスが踏ん張り、青い光を放つ。
見えない力がドッコラーを包み込み、持ち上げようとする。
しかし――重い。
ドッコラーは筋肉に力を込め、念力の拘束を力尽くで振りほどこうとする。
『キッ、キルゥゥッ……!』
シリウスの苦悶の声。
その瞬間、僕の頭の中に、頭蓋骨を締め付けられるような激痛が走った。
リンクしすぎている。シリウスの負担が、僕の脳に逆流してくる。
「ぐっ……!」
僕は胸を押さえた。リミッターが『ピピッ、ピピッ』と警告音を鳴らし始める。
心拍数の上昇。エネルギーの漏出。
まずい。長期戦になれば、僕が先に倒れる。
「へへッ、どうした坊主! 顔色が悪いぞ! ドッコラー、『がんせきふうじ』!」
ドッコラーが地面を叩き、砕けたコンクリート片を飛ばしてくる。
避ける場所がない。
このままでは当たる。
(思考しろ。僕にできることはなんだ。ただ見ているだけか?)
(違う。僕の病気は、欠陥であると同時に、過剰なエネルギー源だ)
僕はイチかバチかの賭けに出た。
コートのラインギリギリまで踏み込む。
「シリウス! 僕を見ろ!」
シリウスが振り返る。
僕は意識して、リミッターの制御を緩めた。
胸の奥から熱い奔流が溢れ出す。それは「指示」というよりも、純粋な「殺意」に近い闘争本能。
それがテレパシーの回路を通じ、ダイレクトにシリウスへ流れ込む。
ブォンッ!
シリウスの身体から、目に見えるほどの青白いオーラが噴き出した。
彼は飛んでくる岩石を、触れることなく空中で静止させた。
そして、首を振るだけで、その岩石を倍の速度でドッコラーへ撃ち返した。
「なっ!?」
ドガガガガッ!
自分の技を倍返しされたドッコラーが、砂煙の中に吹き飛ぶ。
鉄骨がカラン、と乾いた音を立てて転がった。
静寂。
砂煙が晴れると、ドッコラーは目を回して倒れていた。
「……う、嘘だろ……」
大男が呆然と呟く。
僕は――立っているのがやっとだった。
視界が歪む。鼻血がまた出ているのがわかる。
でも、勝った。
『キルッ!』
シリウスが駆け寄ってきて、僕の脚にしがみついた。
彼の身体も小刻みに震えている。僕の過剰なエネルギーを受け止めた反動だ。
ごめんな、と心の中で謝りながら、僕は大男に手を差し出した。
「……いい試合でした。約束のものを」
10分後。
僕とシリウスは、港のベンチに並んで座っていた。
手には、戦利品の金で買った熱々のミートパイと、モーモーミルクのボトル。
「……美味い」
一口かじると、肉汁とスパイスの香りが口いっぱいに広がった。
ただの屋台飯だ。病院食より栄養バランスは悪いだろう。
けれど、生きている味がした。
自分の力で勝ち取り、自分の命を削って手に入れた食事。
シリウスも、専用のポケモンフード(これも買えた)を嬉しそうに食べている。
時折、口の周りを汚しながら僕を見上げ、「美味しいね」「あったかいね」という幸福感を送ってくる。
その感情が、僕のささくれだった神経を鎮痛剤のように癒やしていく。
「次はジム戦だ。もっときついぞ」
『キル!』
シリウスは頼もしく頷き、最後のひとかけらを飲み込んだ。
ふと、視線を感じた気がして振り返る。
雑踏の中。
遠くの街角に、白い人影が見えた気がした。
イサナか? それとも警察か?
目を凝らしたが、そこにはもう誰もいなかった。
ただ、風に乗って微かに、ろうそくが燃えるような独特の焦げ臭さが漂ってきた気がした。
僕はミートパイの包み紙を握りつぶし、立ち上がる。
立ち止まっている暇はない。
僕の時計の針は、もう回り始めているのだから。