ポケットモンスター 君がいた記録   作:人間国宝

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第3話

 

 

 目覚めは最悪だった。

 コンクリートから這い上がる冷気が、全身の関節を錆びつかせているようだった。

 

 僕は身じろぎして、呻き声を漏らす。

 その瞬間、胸の上に乗っていた「重み」が動いた。

 

『……キル?』

 

 シリウスだ。彼は僕の胸の上で丸くなって眠っていたらしい。

 僕が目を覚ますと、彼はすぐに飛び起きて、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。

 彼の小さな手足は冷たい。僕を温めようとしてくれていたのだろう。

 

「……おはよう。生きてるよ、なんとか」

 

 身体を起こすと、路地裏の隙間から灰色の空が見えた。

 朝だ。

 

 『始動区』の朝は早い。遠くで工場の始業を告げるサイレンが鳴り響き、蒸気の噴出音が街のリズムを作っている。

 

 僕はポケットから薬ケースを取り出し、朝の分の錠剤を口に放り込んだ。水は昨夜の雨水が溜まったドラム缶から少し拝借した。衛生的とは言えないが、脱水症状よりはマシだ。

 

 懐中時計型端末ーートレーナー証を取り出す。

 文字盤には数字がなく、代わりに8つの窪みがある。今は空っぽのその窪みが、僕の空虚な寿命そのものに見えた。

 

 まずは一つ。この街のジムリーダーを倒し、歯車を手に入れなければ、先へは進めない。

 

 

 だが、今の僕にはジムに挑む前に解決すべき問題があった。

 腹が減ったのだ。

 僕も、シリウスも。

 

 広場の一角、作業員たちがたむろする屋台通り。

 鉄板で肉や野菜を焼く香ばしい匂いが漂っている。

 シリウスが鼻をヒクつかせ、僕のズボンの裾を引いた。

 

『キルゥ……』

「わかってる。でも、金が足りないんだ」

 

 僕は屋台の脇にある、即席のバトルコートへ目を向けた。

 地面にチョークで線が引かれただけの粗末な場所。

 そこでは、作業着を着た男たちが、賭けにも似た賞金マッチを行っている。

 公式戦ではない、小遣い稼ぎの野良試合。

 今の僕が手っ取り早く食い扶持を稼ぐには、これしかない。

 

「……すみません。次、僕に挑ませてくれませんか」

 

 僕が声をかけると、たむろしていた男たちが一斉にこちらを見た。

 病人のように白い肌、細い腕。そして足元には、愛玩用に見える小さなラルトス。

 

 男たちの一人、太い腕に刺青を入れた大男が、鼻で笑った。

 

「おいおい、お嬢ちゃん。迷子か? ここはポケモンを撫で回す場所じゃねえぞ」

「お嬢ちゃんじゃありません。それに、撫で回すつもりもありません。……1試合、1000円でどうですか」

 

 僕が精一杯の虚勢を張ると、男はニヤリと笑い、腰のベルトからヘビーボールを取った。

 

「いい度胸だ。朝の準備運動にはちょうどいい。怪我しても泣くなよ!」

 

男がボールを投げる。

 

 ドスン! という重い音と共に現れたのは、鉄骨を担いだ灰色のポケモン――『ドッコラー』だった。

 筋肉隆々の身体。あんな鉄骨で殴られたら、シリウスの華奢な身体など一撃で砕ける。

 

(タイプ相性は有利だ。エスパーは格闘に強い。でも……)

 

 僕はシリウスを見た。彼は怯えていない。

 僕を守るために前に出ている。その小さな背中から、「やるぞ」「負けない」という強い意志が伝わってくる。

 

「……頼むぞ、シリウス」

 

 

「始めッ!」

 

 審判役の男が手を振り下ろした瞬間、ドッコラーが突進してきた。

 速い。見た目に似合わず、踏み込みが鋭い。

 

「『はたく』だ!」

 

 男の指示で、ドッコラーが鉄骨を横薙ぎに振るう。

 風切り音が聞こえるほどの剛腕。

 

「かわせ!」

 

 僕の指示より速く、シリウスは反応していた。

 僕の「怖い」という直感を共有しているからだ。彼は紙一重で鉄骨の下を潜り抜ける。

 だが、風圧だけでよろめく。体重差がありすぎる。

 

「シリウス、『ねんりき』!」

 

 シリウスが踏ん張り、青い光を放つ。

 見えない力がドッコラーを包み込み、持ち上げようとする。

 

 しかし――重い。

 ドッコラーは筋肉に力を込め、念力の拘束を力尽くで振りほどこうとする。

 

『キッ、キルゥゥッ……!』

 

 シリウスの苦悶の声。

 その瞬間、僕の頭の中に、頭蓋骨を締め付けられるような激痛が走った。

 リンクしすぎている。シリウスの負担が、僕の脳に逆流してくる。

 

「ぐっ……!」

 

 僕は胸を押さえた。リミッターが『ピピッ、ピピッ』と警告音を鳴らし始める。

 心拍数の上昇。エネルギーの漏出。

 まずい。長期戦になれば、僕が先に倒れる。

 

「へへッ、どうした坊主! 顔色が悪いぞ! ドッコラー、『がんせきふうじ』!」

 

 ドッコラーが地面を叩き、砕けたコンクリート片を飛ばしてくる。

 避ける場所がない。

 このままでは当たる。

 

(思考しろ。僕にできることはなんだ。ただ見ているだけか?)

(違う。僕の病気は、欠陥であると同時に、過剰なエネルギー源だ)

 

 僕はイチかバチかの賭けに出た。

 コートのラインギリギリまで踏み込む。

 

「シリウス! 僕を見ろ!」

 

 シリウスが振り返る。

 僕は意識して、リミッターの制御を緩めた。

 胸の奥から熱い奔流が溢れ出す。それは「指示」というよりも、純粋な「殺意」に近い闘争本能。

 それがテレパシーの回路を通じ、ダイレクトにシリウスへ流れ込む。

 

 ブォンッ!

 

 シリウスの身体から、目に見えるほどの青白いオーラが噴き出した。

 彼は飛んでくる岩石を、触れることなく空中で静止させた。

 そして、首を振るだけで、その岩石を倍の速度でドッコラーへ撃ち返した。

 

「なっ!?」

 

 ドガガガガッ!

 

 自分の技を倍返しされたドッコラーが、砂煙の中に吹き飛ぶ。

 鉄骨がカラン、と乾いた音を立てて転がった。

 静寂。

 砂煙が晴れると、ドッコラーは目を回して倒れていた。

 

「……う、嘘だろ……」

 

 大男が呆然と呟く。

 

 僕は――立っているのがやっとだった。

 視界が歪む。鼻血がまた出ているのがわかる。

 でも、勝った。

 

『キルッ!』

 

 シリウスが駆け寄ってきて、僕の脚にしがみついた。

 彼の身体も小刻みに震えている。僕の過剰なエネルギーを受け止めた反動だ。

 ごめんな、と心の中で謝りながら、僕は大男に手を差し出した。

 

「……いい試合でした。約束のものを」

 

 

 10分後。

 僕とシリウスは、港のベンチに並んで座っていた。

 手には、戦利品の金で買った熱々のミートパイと、モーモーミルクのボトル。

 

「……美味い」

 

 一口かじると、肉汁とスパイスの香りが口いっぱいに広がった。

 ただの屋台飯だ。病院食より栄養バランスは悪いだろう。

 けれど、生きている味がした。

 

 自分の力で勝ち取り、自分の命を削って手に入れた食事。

 シリウスも、専用のポケモンフード(これも買えた)を嬉しそうに食べている。

 時折、口の周りを汚しながら僕を見上げ、「美味しいね」「あったかいね」という幸福感を送ってくる。

 その感情が、僕のささくれだった神経を鎮痛剤のように癒やしていく。 

「次はジム戦だ。もっときついぞ」

『キル!』

 

 シリウスは頼もしく頷き、最後のひとかけらを飲み込んだ。

 

 

 ふと、視線を感じた気がして振り返る。

 雑踏の中。

 遠くの街角に、白い人影が見えた気がした。

 

 イサナか? それとも警察か?

 目を凝らしたが、そこにはもう誰もいなかった。

 

 ただ、風に乗って微かに、ろうそくが燃えるような独特の焦げ臭さが漂ってきた気がした。

 僕はミートパイの包み紙を握りつぶし、立ち上がる。

 立ち止まっている暇はない。

 僕の時計の針は、もう回り始めているのだから。

 

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