『始動区』のジムは、街一番の巨大製鉄所の中にあった。
高くそびえる煙突から黒煙が吐き出され、赤錆びた鉄扉の向こうからは、轟音と熱気が漏れ出している。
ここ、第一ジム『スチーム・ゲート』。
タイプは「鋼」と「炎」。
この地方の産業を支えるエネルギーの源だ。
「……最悪の環境だな」
重厚な扉を押し開けた瞬間、熱風が顔面を叩いた。
気温は優に40度を超えているだろう。舞い散る火の粉と、鼻を突く硫黄の臭い。
健康な人間でさえ息苦しいこの場所は、体温調節機能が壊れている僕にとっては、巨大な処刑台のようなものだ。
胸のリミッターが、即座に反応した。
警告音が早まる。外気の熱に誘発され、体内の生体電流が暴れだそうとしている。
『キルッ!』
足元のシリウスが、鋭い悲鳴を上げて僕のズボンを引っ張った。
強烈な拒絶の感情が脳に突き刺さる。彼はエスパータイプだ。鋼や虫ほどではないが、この暴力的な騒音と熱気は、繊細な精神にとってストレスでしかないだろう。
「……引き返せないよ。ここを通らなきゃ、先へは行けない」
僕は咳き込みながら、受付のある管理室へと歩を進めた。
汗が噴き出すそばから蒸発していく。視界が赤いフィルターをかけたように揺らぐ。
ジムの控え室は、工場の休憩所を兼ねていた。
オイルの染みた長椅子に座り、順番を待つ。
ジムリーダーは工場の現場監督も兼任しているらしく、「急なトラブルで炉の点検中だ。30分待て」と言われたきり、もう1時間が経過していた。
「はぁ……はぁ……ッ」
限界が近い。
水分補給はしているが、体内の熱が下がらない。
リミッターの警告音が、耳障りな高音に変わりつつある。
意識が朦朧としてきた。シリウスが必死に僕の手を握り、自分の冷たい体温を分け与えようとしてくれているが、焼け石に水だ。
(まずい……ここで倒れたら、挑戦権剥奪どころか、強制搬送だ)
少しでも涼しい場所を探さなければ。
僕はふらつく足取りで控え室を出て、薄暗い廊下へと逃げ込んだ。
そこは資材搬入用の裏通路のようだった。メインの炉からは離れているが、それでも空気は淀んでいる。
ガクッ。
膝から力が抜け、壁に手をつく。
そのままズルズルと崩れ落ちた。
視界が暗転しかける。
心臓が早鐘を打ち、体中の血液が沸騰しているようだ。過剰生成されたエネルギーが行き場を失い、僕の内側を焼き尽くそうとしている。
『キルゥゥーーッ!』
シリウスが泣き叫び、僕の胸を叩く。
死ぬな、死ぬな、と。
その時だった。
ふわり、と。
鉄と油の臭いに混じって、**「甘い、ろうそくの香り」**が漂ってきた。
廊下の奥の闇から、ゆらりと青白い炎が現れた。
白い蝋でできた身体。つぶらな黄色い瞳。
ヒトモシだ。
(……野生か? こんな工場の中に?)
図鑑の知識が脳裏をよぎる。
――『ヒトモシ。人の生命力を吸い取り、頭の炎を燃やす』。
別名、死神の案内人。弱った人間に近づき、その灯火を吸い尽くすポケモン。
ヒトモシは音もなく近づいてきた。
シリウスが威嚇のために立ち塞がる。
『キッ!』
だが、ヒトモシはシリウスを一瞥もしない。
その黄色い瞳は、ただ一点、熱暴走を起こしかけている僕の心臓を見つめていた。
涎を垂らすような、純粋な「食欲」の気配。
『ポゥ……』
ヒトモシが小さく鳴き、僕の目の前に立った。
シリウスが念力を放とうとする。
「……待て」
僕は掠れた声でシリウスを制した。
直感があった。
こいつは、僕を殺しに来たんじゃない。
僕から溢れ出ている、この「余分なもの」を欲しがっているだけだ。
ヒトモシが小さな手を伸ばし、僕の胸――リミッターの上あたりに触れた。
ひやりとした感触。
次の瞬間。
ジュワァッ……。
身体の芯から、熱い泥のようなものが吸い出される感覚があった。
苦痛ではない。むしろ、パンパンに膨れ上がった風船の空気が抜けていくような、奇妙な開放感。
「……あ、ぁ……」
ヒトモシの頭の炎が、青から紫へ、そして激しい赤へと色を変え、大きく燃え上がる。
美味しい。もっと欲しい。
そんな感情が、冷たいテレパシーのように流れ込んでくる。
リミッターの警告音が、徐々に間隔を空け、やがて止まった。
心拍数が落ち着いていく。
僕を殺そうとしていた「過剰な生命エネルギー」を、この小さな死神が吸い取ってくれたのだ。
『ポッ?』
ヒトモシが不思議そうに首を傾げた。
普通の人間なら、これだけ吸えば気絶するか、死んでいるはずだ。
なのに、目の前の人間は、逆に顔色が良くなっている。
「枯れない泉」を見つけた。そんな驚きと歓喜が、その瞳に宿った。
「……はは。美味いか? 僕の命は」
僕が力なく笑うと、ヒトモシは満足げに目を細め、ぽんぽんと膨れたお腹を叩いた。
そして、名残惜しそうに何度か僕を見た後、廊下の闇へと消えていった。
『キル?』
シリウスが呆気に取られている。
敵意を向けようとした相手が、結果的に主人を救って去っていったのだから、混乱するのも無理はない。
「……助かったな。皮肉な話だけど」
僕は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
身体が軽い。ここ数年で一番調子がいいかもしれない。
毒を以て毒を制す。
僕の病気は、ゴーストタイプにとっては極上の餌場というわけか。
「レン選手! レン選手はおられませんか! 次、あなたの番です!」
遠くから呼び出しのアナウンスが聞こえた。
僕は深呼吸をする。肺に入ってくる熱気が、もう怖くない。
「行こう、シリウス。……今の僕は、ちょっと強いぞ」
ジムのメインスタジアム。
巨大な溶鉱炉の上に架けられた、金網のバトルフィールド。
その向こう側には、作業用ゴーグルを首から下げた筋骨隆々の男――ジムリーダー『ガストン』が立っていた。
隣には、蒸気を噴き上げる亀のようなポケモン、コータスがいる。
「待たせたな、挑戦者! この熱気に耐えられず逃げ帰る軟弱者が多い中、よく立った!」
ガストンの大声が反響する。
金網の下からはマグマのような熱気。だが、僕の体温は平熱だ。さっきのヒトモシが、致死量ギリギリまで吸い取ってくれたおかげで、今の僕は一時的な「健常者」になれている。
「チャレンジャー、レン。……始めます」
ボールを構える。
シリウスがフィールドに飛び出し、コータスと対峙する。
相手は炎タイプ。エスパー技は等倍だが、コータスの物理防御は鉄壁だ。
だが、僕には見えていた。
スタジアムの天井付近、鉄骨の影に、小さな青い光が揺れているのを。
あのヒトモシだ。
僕という「餌」が、どう料理されるのかを見物しているらしい。
(見せてやるよ。お前の気に入った味が、どれほどの熱量か)
僕は懐中時計を強く握りしめた。
さあ、最初の歯車を回そう。
「シリウス、戦闘開始!」
製鉄所の轟音を切り裂き、僕らの旅の、本当の初戦が始まった。
懐中時計型端末ーートレーナー証をこれから懐中時計と言います。