勝利の興奮(アドレナリン)は、安物の麻酔に似ている。
効いている間は無敵だが、切れた瞬間に、利子をつけて地獄がやってくる。
ジムバッジを手に入れ、路地裏に逃げ込んだ直後のことだった。
「が、はっ……!」
胃の中身をすべて吐き出した。
酸っぱい液と、鉄の味が混ざる。
視界がぐにゃりと歪み、コンクリートの地面が顔に向かって迫ってきた。
『キルッ!?』
シリウスの悲鳴が聞こえた気がしたが、答える力がない。
全身の血管にガラス片が流れているような激痛。
リミッターは沈黙している。ウィック(ヒトモシ)にエネルギーを吸わせすぎたのだ。
「過剰」な状態から、一気に「欠乏」へ。
急激なエネルギー落差に、自律神経がついていけず、ショック状態を起こしている。
(まずい……これ、死ぬやつだ……)
薄れゆく意識の中で、ウィックが心配そうに(あるいは餌が腐るのを惜しむように)僕の顔を覗き込んでいるのが見えた。
冷たい雨が降り始めた。
その冷たさが心地いいと感じた瞬間、僕の意識はプツリと途切れた。
夢を見た。
白い天井。消毒液の匂い。
窓の外で遊ぶ同年代の子供たち。
『レンくんは外に出ちゃダメよ』
看護師の優しい声が、鎖のように僕を縛り付ける。
僕は窓ガラスに手を当てる。冷たい。
出たい。走りたい。痛くてもいいから、生きてるって実感が欲しい。
――ピーン、ピーン、ピーン。
規則的な電子音が聞こえる。
ああ、またこれか。心電図モニターの音。
僕は捕まったのか。病院に連れ戻されたのか。
すべては無駄だったのか。
「……目を覚ましたか」
低い、聞き慣れた声。
重い瞼を開けると、そこは病院の個室――ではなかった。
薄暗い、カビ臭い部屋。安宿の一室だ。
ベッドの脇に置かれたポータブルの医療機器が、僕の生体情報を表示している。
そして、パイプ椅子に座り、文庫本を読んでいる白衣の男。
「……イサナ」
声が掠れる。喉が渇いて張り付いている。
イサナは本を閉じ、無表情でこちらを見た。
その足元には、ピンク色のナース服のような模様を持つポケモン――タブンネが控えていた。
タブンネの耳の触角が、僕の方を向いている。あれで心音を聞き取っているのだ。
「状況を説明する」
イサナは事務的な口調で言った。
「君は路地裏で低血糖性ショックと低体温症を併発して倒れていた。発見があと30分遅れていたら、心停止していたぞ」
彼はサイドテーブルの水差しを取り、ストローを僕の口元に運んだ。
僕はされるがままに水を飲む。生き返る心地がした。
「……どうして、病院に連れ戻さないの?」
僕が問うと、イサナは深くため息をついた。
「今の君を動かせば、移動のストレスで死ぬ確率が高いからだ。ここでバイタルが安定するまで処置をする。それが医者としての判断だ」
彼は「医者として」と強調した。
ベッドの隅を見る。
シリウスとウィックが、小さくなって固まっていた。
シリウスは僕が目覚めたことに気づき、涙目で駆け寄ろうとするが、イサナのタブンネに「安静に」と手で制され、悔しそうに唸った。
ウィックは……僕の点滴のチューブに興味深そうに触れようとして、やはりタブンネにぺちんと手を叩かれていた。
「あのヒトモシ……君の身体からエネルギーを『吸い出させる』ことでバランスを取ったのか?」
イサナが呆れたように言った。
「狂気の沙汰だ。量の加減を間違えれば即死だぞ。野生のゴーストを手懐けた気になっているなら、とんだ勘違いだ」
「……手懐けてないよ。利害が一致してるだけだ」
「それを『共依存』と言うんだ」
イサナは立ち上がり、僕の点滴パックを交換した。
手際がいい。憎らしいほどに優秀な医者だ。
「レン。君がジムバッジを一つ取ったことは認める。だが、その代償がこれだ」
彼は僕の痩せこけた腕を指差した。
「たった一戦でこのザマだ。この先、山を越え、海を渡る? 不可能だ。君の旅は、緩やかな自殺でしかない」
「それでも……」
僕は身体を起こそうとして、激痛に顔をしかめた。
「病院でただ腐っていくよりは、マシだ」
イサナの瞳に、強い感情の光が宿った。
怒り。そして、深い悲しみ。
彼は僕の胸ぐらを掴み――寸前で手を止めた。
「……お前の父さんが死んだ時、俺の親父がどれだけ悔やんだか知ってるか」
静かな声だった。
「俺たちは、お前を『生かしたい』んだ。ただそれだけなんだよ」
沈黙が部屋を支配する。
タブンネが心配そうにイサナの白衣を引いた。
イサナは乱暴に頭を掻きむしり、再び椅子に座り込んだ。
「……取引だ、レン」
彼は僕を見ずに言った。
「今すぐ無理やり連れ戻しはしない。ここで体調が回復するまで待つ。その代わり」
彼は懐から、自分の懐中時計(トレーナー証)を取り出した。
そこには既に、4つのバッジが輝いている。格が違う。
「次の街へ行くには、『迷いの森』を抜ける必要がある。そこを抜けたら、次の街で俺とバトルをしろ」
「……バトル?」
「ああ。俺が勝ったら、大人しく病院へ戻れ。俺のポケモンたちが、お前のそのボロボロのパーティを完膚なきまでに叩き潰して、夢を終わらせてやる」
それは、医者としてではなく、一人のライバルとしての宣戦布告だった。
力ずくで連れ戻すのではなく、僕の心をへし折って、諦めさせるという宣言。
「……いいよ。受けて立つ」
僕はイサナを睨み返した。
「でも、僕が勝ったら?」
「その時は……」
イサナは少し自嘲気味に笑った。
「俺が専属主治医として同行してやる。死ぬまでな」
翌朝。
熱は下がっていた。
イサナは「先に行っている」という書き置きと、大量の薬、そして高品質な『きずぐすり』を残して消えていた。
机の上には、暖かいスープが入った魔法瓶まで置いてあった。
本当に、甘い奴だ。
「……行くぞ、みんな」
僕はベッドから降りた。足取りはまだ重いが、昨夜よりはマシだ。
シリウスが心配そうに寄り添ってくる。
ウィックは点滴の残骸をつまみ食いしようとしていたが、僕が呼ぶと慌てて肩に乗ってきた。
宿を出る。
雨上がりの空は、高く澄み渡っていた。
次の目的地は『迷いの森』。
ゴーストタイプや虫タイプが跋扈する、天然の迷宮。
僕は懐中時計のバッジを撫でた。
一つ目の歯車。
でも、僕の身体はもう悲鳴を上げている。
次のイサナとのバトルまで、僕の命と、ポケモンたちの体力が持つかどうか。
(……生き延びてやるさ)
僕は魔法瓶のスープを一気に飲み干し、歩き出した。
そのスープは、少し塩辛くて、悔しいほど温かかった。