ポケットモンスター 君がいた記録   作:人間国宝

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第6話

 

 

 勝利の興奮(アドレナリン)は、安物の麻酔に似ている。

 効いている間は無敵だが、切れた瞬間に、利子をつけて地獄がやってくる。

 ジムバッジを手に入れ、路地裏に逃げ込んだ直後のことだった。

 

「が、はっ……!」

 

 胃の中身をすべて吐き出した。

 酸っぱい液と、鉄の味が混ざる。

 視界がぐにゃりと歪み、コンクリートの地面が顔に向かって迫ってきた。

 

『キルッ!?』

 

 シリウスの悲鳴が聞こえた気がしたが、答える力がない。

 全身の血管にガラス片が流れているような激痛。

 リミッターは沈黙している。ウィック(ヒトモシ)にエネルギーを吸わせすぎたのだ。

 

 「過剰」な状態から、一気に「欠乏」へ。

 急激なエネルギー落差に、自律神経がついていけず、ショック状態を起こしている。

 

(まずい……これ、死ぬやつだ……)

 

 薄れゆく意識の中で、ウィックが心配そうに(あるいは餌が腐るのを惜しむように)僕の顔を覗き込んでいるのが見えた。

 冷たい雨が降り始めた。

 その冷たさが心地いいと感じた瞬間、僕の意識はプツリと途切れた。

 

 

 

 

 夢を見た。

 白い天井。消毒液の匂い。

 窓の外で遊ぶ同年代の子供たち。

 

 『レンくんは外に出ちゃダメよ』

 

 看護師の優しい声が、鎖のように僕を縛り付ける。

 僕は窓ガラスに手を当てる。冷たい。

 出たい。走りたい。痛くてもいいから、生きてるって実感が欲しい。

 

 

 

 

 

 ――ピーン、ピーン、ピーン。

 

 規則的な電子音が聞こえる。

 ああ、またこれか。心電図モニターの音。

 僕は捕まったのか。病院に連れ戻されたのか。

 すべては無駄だったのか。

 

「……目を覚ましたか」

 

 低い、聞き慣れた声。

 重い瞼を開けると、そこは病院の個室――ではなかった。

 薄暗い、カビ臭い部屋。安宿の一室だ。

 ベッドの脇に置かれたポータブルの医療機器が、僕の生体情報を表示している。

 そして、パイプ椅子に座り、文庫本を読んでいる白衣の男。

 

「……イサナ」

 

 声が掠れる。喉が渇いて張り付いている。

 イサナは本を閉じ、無表情でこちらを見た。

 その足元には、ピンク色のナース服のような模様を持つポケモン――タブンネが控えていた。

 タブンネの耳の触角が、僕の方を向いている。あれで心音を聞き取っているのだ。

 

「状況を説明する」

 

 イサナは事務的な口調で言った。

 

「君は路地裏で低血糖性ショックと低体温症を併発して倒れていた。発見があと30分遅れていたら、心停止していたぞ」

 

 彼はサイドテーブルの水差しを取り、ストローを僕の口元に運んだ。

 僕はされるがままに水を飲む。生き返る心地がした。

 

「……どうして、病院に連れ戻さないの?」

 

 僕が問うと、イサナは深くため息をついた。

 

「今の君を動かせば、移動のストレスで死ぬ確率が高いからだ。ここでバイタルが安定するまで処置をする。それが医者としての判断だ」

 

 彼は「医者として」と強調した。

 

 ベッドの隅を見る。

 シリウスとウィックが、小さくなって固まっていた。

 シリウスは僕が目覚めたことに気づき、涙目で駆け寄ろうとするが、イサナのタブンネに「安静に」と手で制され、悔しそうに唸った。

 

 ウィックは……僕の点滴のチューブに興味深そうに触れようとして、やはりタブンネにぺちんと手を叩かれていた。

 

「あのヒトモシ……君の身体からエネルギーを『吸い出させる』ことでバランスを取ったのか?」

 

 イサナが呆れたように言った。

 

「狂気の沙汰だ。量の加減を間違えれば即死だぞ。野生のゴーストを手懐けた気になっているなら、とんだ勘違いだ」

「……手懐けてないよ。利害が一致してるだけだ」

「それを『共依存』と言うんだ」

 

 イサナは立ち上がり、僕の点滴パックを交換した。

 手際がいい。憎らしいほどに優秀な医者だ。

 

「レン。君がジムバッジを一つ取ったことは認める。だが、その代償がこれだ」

 

 彼は僕の痩せこけた腕を指差した。

 

「たった一戦でこのザマだ。この先、山を越え、海を渡る? 不可能だ。君の旅は、緩やかな自殺でしかない」

「それでも……」

 

 僕は身体を起こそうとして、激痛に顔をしかめた。

 

「病院でただ腐っていくよりは、マシだ」

 

 イサナの瞳に、強い感情の光が宿った。

 怒り。そして、深い悲しみ。

 彼は僕の胸ぐらを掴み――寸前で手を止めた。

 

「……お前の父さんが死んだ時、俺の親父がどれだけ悔やんだか知ってるか」

 

 静かな声だった。

 

「俺たちは、お前を『生かしたい』んだ。ただそれだけなんだよ」

 

 沈黙が部屋を支配する。

 タブンネが心配そうにイサナの白衣を引いた。

 イサナは乱暴に頭を掻きむしり、再び椅子に座り込んだ。

 

「……取引だ、レン」

 

 彼は僕を見ずに言った。

 

「今すぐ無理やり連れ戻しはしない。ここで体調が回復するまで待つ。その代わり」

 

 彼は懐から、自分の懐中時計(トレーナー証)を取り出した。

 そこには既に、4つのバッジが輝いている。格が違う。

 

「次の街へ行くには、『迷いの森』を抜ける必要がある。そこを抜けたら、次の街で俺とバトルをしろ」

「……バトル?」

「ああ。俺が勝ったら、大人しく病院へ戻れ。俺のポケモンたちが、お前のそのボロボロのパーティを完膚なきまでに叩き潰して、夢を終わらせてやる」

 

 それは、医者としてではなく、一人のライバルとしての宣戦布告だった。

 力ずくで連れ戻すのではなく、僕の心をへし折って、諦めさせるという宣言。

 

「……いいよ。受けて立つ」

 

 僕はイサナを睨み返した。

 

「でも、僕が勝ったら?」

「その時は……」

 

 イサナは少し自嘲気味に笑った。

 

「俺が専属主治医として同行してやる。死ぬまでな」

 

 翌朝。

 熱は下がっていた。

 イサナは「先に行っている」という書き置きと、大量の薬、そして高品質な『きずぐすり』を残して消えていた。

 机の上には、暖かいスープが入った魔法瓶まで置いてあった。

 本当に、甘い奴だ。

 

「……行くぞ、みんな」

 

 僕はベッドから降りた。足取りはまだ重いが、昨夜よりはマシだ。

 シリウスが心配そうに寄り添ってくる。

 ウィックは点滴の残骸をつまみ食いしようとしていたが、僕が呼ぶと慌てて肩に乗ってきた。

 

 宿を出る。

 雨上がりの空は、高く澄み渡っていた。

 次の目的地は『迷いの森』。

 ゴーストタイプや虫タイプが跋扈する、天然の迷宮。

 

 僕は懐中時計のバッジを撫でた。

 一つ目の歯車。

 でも、僕の身体はもう悲鳴を上げている。

 次のイサナとのバトルまで、僕の命と、ポケモンたちの体力が持つかどうか。

 

(……生き延びてやるさ)

 

 僕は魔法瓶のスープを一気に飲み干し、歩き出した。

 そのスープは、少し塩辛くて、悔しいほど温かかった。

 

 

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