『迷いの森』は、その名の通り、方向感覚を狂わせる磁場に覆われていた。
視界を白く塗り潰す濃霧。苔むした巨木が、亡者の手のように枝を伸ばしている。
GPSは圏外。頼りになるのは、道端に点々と置かれた、朽ちかけた道祖神のような石碑だけだ。
「……寒いな」
僕は襟元を合わせ、白い息を吐いた。
森の湿気は、弱った肺には毒だ。呼吸をするたびに、濡れた綿を詰め込まれているような息苦しさを感じる。
肩に乗ったウィック(ヒトモシ)が、頭の炎を少し強く燃やしてくれた。
周囲の霧が晴れ、暖かさが頬に伝わる。
こいつは本当に、現金なやつだ。僕の体調が良いときはそっけないが、弱ってくると「死なれては困る」とばかりに甲斐甲斐しく世話を焼く。
『キル……』
足元を歩くシリウス(ラルトス)が、立ち止まった。
彼の赤いツノが、不規則に明滅している。
「嫌な感じ」「足元」「たくさんいる」。
警戒のアラートが脳内に響く。
ザッ、ザザッ。
落ち葉の下、腐葉土の地面が波打った。
一箇所ではない。周囲360度、至るところから、土を掘り返す音がする。
「……囲まれたか」
僕はウィックを肩から降ろし、臨戦態勢をとった。
土の中から現れたのは、土色の身体に、退化した小さな目を持つ昆虫ポケモンたち。
ツチニンだ。
本来は地中で木の根を齧って暮らす大人しいポケモンだが、この『迷いの森』の個体は違う。
縄張り意識が異常に強く、侵入者の足音を感知して集団で襲ってくる。
ジジジジジ……。
十数匹のツチニンが、鋭い爪を擦り合わせ、威嚇音を鳴らす。
視力はほとんどないはずだが、僕の不整脈のような足音と、漏れ出す生体エネルギーのノイズが、彼らを苛立たせているらしい。
「強行突破するぞ。ウィック、『ひのこ』で道をこじ開けろ!」
『ポウッ!』
ウィックが紫色の炎を吐き出す。
先頭のツチニンが燃え上がり、地中へ逃げ込む。
だが、数が多い。
別の方角から飛び出したツチニンが、鋭い爪で『みだれひっかき』を繰り出す。
「シリウス、『ねんりき』で迎撃!」
シリウスが青い波動を放ち、飛びかかってきた敵を空中で静止させる。
しかし、その隙に別の個体が地面を掘り進み、僕の足元から奇襲をかけてきた。
ドガッ!
「ぐっ……!」
突き上げられた衝撃で転倒する。
泥の味が口に広がる。
まずい。倒れたら、振動が増えて余計に標的にされる。
這い上がろうとする僕の背中に、ツチニンの爪が迫る。
『キルァッ!!』
シリウスが金切り声を上げ、僕の上に覆いかぶさった。
小さな身体で、僕を庇う。
ツチニンの爪が、シリウスの白い肌を切り裂く。
赤い筋が走り、シリウスが苦痛の感情を爆発させる。それがダイレクトに僕の脳を揺さぶる。
「シリウス……!」
――やめろ。
僕を守って傷つくなんて、本末転倒だ。
僕は使い捨てのトレーナーでいい。君たちは、僕が死んだら野生に戻ればいいんだ。
そう思っていたはずなのに。
シリウスは退かない。
涙目で、ボロボロになりながら、それでも僕の前に立って小さな両手を広げている。
「守る」「僕が」「もっと強く」。
純粋すぎる願い。
それが、僕の心臓と共鳴した。
ドクン。
僕の胸から溢れたエネルギーが、シリウスへと流れ込む。
いつもの「暴走」とは違う。
これは「譲渡」だ。僕の命の炎を、彼に託す。
「……シリウス!」
僕の叫びに応えるように、霧の中でまばゆい光が弾けた。
進化の光。
生命の形が組み替わる、神秘の輝き。
小さなラルトスのシルエットが、光の中で伸びやかに成長していく。
短かった手足がすらりと伸び、頭部のツノが大きくなり、まるでチュチュを纏ったバレリーナのような姿へ。
光が収束する。
そこに立っていたのは、ラルトスではない。
感情ポケモン、キルリア。
『……キルリ』
その声は、以前よりも少し大人びて、凛としていた。
彼は――いや、進化した今の姿は中性的で美しい――スッと片足を上げ、優雅にターンを決めた。
それだけで、周囲の霧が晴れるような清涼な空気が広がる。
ツチニンたちが一斉に飛びかかる。
キルリアは動じない。
踊るように腕を振るう。
放たれたのは、必中の追尾弾――『マジカルリーフ』。
光り輝く葉の群れが、霧を切り裂き、ツチニンたちを一匹残らず正確に撃ち抜いた。
ドカドカドカッ!
ツチニンたちが吹き飛び、裏返る。
圧倒的な制圧力。
これが、進化……。
静寂が戻る。
残ったのは、一匹だけ。
群れのボスらしき、ひと回り大きなツチニンが、ひっくり返ってもがきながらも、まだ戦意を失わずにこちらを睨んでいた。
その執念。泥に塗れても生きようとする泥臭さ。
それは、今の僕に必要なものだと思った。
「……ウィック、そいつを弱らせてくれ。優しくだぞ」
ウィックが心得たとばかりに、弱火の『おにび』を放つ。
火傷を負い、動きが鈍ったツチニンに向けて、僕はボールを投げた。
カシュッ。
コロン、コロン、コロン……カチッ。
ゲット完了。
僕は泥だらけの手でボールを拾い上げた。
「……よろしくな。『ウツセミ』」
その夜。
大樹の根元で焚き火を囲んだ。
進化したキルリア――シリウスは、僕の隣に座り、傷の手当てを受けている。
ラルトスの頃のようにベタベタと甘えてくることはなくなった。
代わりに、背筋を伸ばして周囲を警戒するその横顔には、騎士のような気高さが宿っていた。
感情の伝達も変わった。
以前のような「感情の洪水」ではなく、もっと洗練された、言葉に近いニュアンスが伝わってくる。
『傷は痛みますか? レン』
そんな、気遣うような視線。
「大丈夫だよ。……ありがとう、シリウス。かっこよくなったな」
僕が言うと、彼は嬉しそうに、でも少し照れくさそうに、くるりと回ってみせた。
そして、新入りのツチニン、ウツセミ。
ボールから出すと、彼はすぐに地面に潜ろうとしたが、焚き火の温かさに気づき、顔だけ出してじっとしている。
土の中で長い時を過ごし、やがて殻を脱ぎ捨てて空へ飛び立つポケモン。
そして、その抜け殻に魂が宿ると言われる特殊な生態。
(本体と、抜け殻……)
僕は自分の手を見つめた。
病に蝕まれたこの身体は、いつか抜け殻になる。
その時、僕の魂はどこへ行くのだろう。
イサナとの約束の街まで、あと少し。
手持ちは3体になった。
戦力は整いつつある。でも、僕の身体は確実に、冬に向かっていた。
焚き火の爆ぜる音が、時計の秒針のように森に響いていた。