呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット   作:役を解かれぬ者

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第1話 安らぎ

 

 

 

冬の湿り気を帯びた夜気が、エルシノア王宮の石壁をじわりとしみ通っていた。

 

浸食――その言葉が最も実態に近い。

 風雨が削るのではなく、夜そのものが城の骨格へ沈み込んでいく。

 今夜の湿気には、粘りつくような澱みが混じっていた。

 この国で何かが始まることを、沈黙を守る石壁だけが知っていた。

 

王宮の深部、石造りの螺旋階段を昇りつめた先に、その部屋はある。

 王の私室(ソーラー)――太陽の部屋と呼ばれる場所。

 そこは大広間の喧騒を拒絶し、王が魂の鎧を脱ぐことを許された、選ばれし者のみが招かれる聖域だった。

 

その聖域でのみ、五条悟は眠ることができる。

 

――脆き者よ、その名は最強。

 

傍らに置かれた白絹(しらぎぬ)の目隠し。暖炉の前の椅子に深く沈んだ五条の唇が、微かに開いている。

 意識は深層へと沈み、防御を司る無下限の膜は、その濃度を失っていた。

 衛兵すら通さぬこの奥の院を、断りもなく開くことのできる「影」への油断。

 

それこそが、今夜の致命となった。

 

廊下の石畳を叩く足音が近づく。

 眠りの淵にある聴覚が、その気配を無意識に選別した。

 足音の重み、歩みの癖。それらが重なり、導き出される名は一つに絞られる。

 

「……傑?」

 

声というより、吐息だった。

 

「風邪をひくよ、悟」

 

耳元で、甘く響く声がする。

 抑揚、語尾、名前を呼ぶ際の間。すべてがいつも通りだった。

 五条の指先から力が抜け、胸元で固く握られていたブランケットの端が、音もなく膝の上へと滑り落ちる。

 

無防備になったその肩に、再びブランケットが落ちた。

 右肩から、吸い付くように丁寧に。幾度となく繰り返された親愛の仕草。

 指先が首元に触れ、離れる。五条の感覚は「傑だ」と断定した。

 だが、脳の奥で静かな違和感が波紋のように広がっていく。

 

耳腔(じこう)に、何かが触れた。

 

熱かった。冷たいはずの液体が、焼けるような熱を持って侵入する。

 情報の逆流。それは毒という概念を超え、魂の輪郭を融解させる呪いだった。

 

六眼が、強制的に開かれた。

 剥き出しの瞳が、目の前の存在を解析し始める。

 

夏油傑だった。

 夏油傑ではなかった。

 

出力される情報が矛盾を極める。

 外形、声紋、呪力の表層。

 すべてが傑と一致しながら、五条の魂はそれを否定する。

 

「お前は……誰だ」

 

叫ぶことも、術式を編み直すことも叶わない。

 六眼は「傑でありながら傑ではない」という解けない問いを突きつけられ、思考回路が異常な速度で空転を始めた。

 

脳が、焼けた。

 

臨界を超えた加速は自重を支えきれず、崩壊へと向かう。

 情報の濁流が最強の思考を逆流し、六眼の視せる世界が破片となって砕け散る。

 傑の笑顔。私室の天井。意味を失った残滓が熱へと変わり、魂の繊維を焼き尽くしていく。

 

最強の鼓動が、静かに停止した。

 

椅子に深く沈んだまま、五条悟は動かなくなった。

 ブランケットが丁寧に肩を覆い、安らかにさえ見えるその顔が、何よりも残酷だった。

 

夏油――羂索は冷たくなりゆく頬を撫で、温度の変化を確かめながら目を細めた。

 最強という唯一の障壁は、親友の名前、親友の声という、あまりに人間的な欠落と、「密室(ソーラー)」への立ち入りを許された特権によって、消失した。

 

羂索は立ち上がり、ブランケットの端に触れ、整えた。

 

「おやすみ、五条悟」

 

その声は、夏油傑の声で、どこまでも穏やかだった。

 

「……新しい世界で、また会おう」

 

扉が閉じた瞬間、微かな風が部屋を抜けた。

 傍らに置かれていた白絹が、その揺らぎに押されるようにして床へ滑り落ちた。

 

乾いた絹が石をなでる、わずかな、しかし決定的な断絶の音。

 

そこにはもう最強も、その愛した親友もいなかった。

 

 

 

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