呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
石壁を穿つように作られた窓際のベンチに、乙骨憂太は身を預けていた。
数メートルの厚みを持つ城壁の凹みは、外部の光をかろうじて拾い上げる唯一の場所だ。
だが、木製の鎧戸の隙間から這い入る冬の冷気は、無造作に敷かれた狼の毛皮を容易に貫き、彼の指先を鉄のように凍えさせている。
乙骨は、光を失った瞳で、五条の亡霊が彷徨うはずの
――生きるべきか、死ぬべきか。
残された者に突きつけられた、重い二択。
羂索の罪を識り、刃を振るえるのは自分しかいない。
だが、復讐という名の血に手を染めれば、里香と共に歩む光射す未来は永遠に断たれる。
恩師の無念を晴らして死ぬか、あるいは、自身の安寧のために心を殺して生きるか。
乙骨は重い吐息をつくと、石の冷たさを背骨に刻み込み、ゆっくりと立ち上がった。
一輪の白い花が、里香の指の間で細かく跳ねていた。
震えが茎を伝い、花弁を揺らしている。
彼女は視線の先に乙骨を認めると、吸い寄せられるように歩みを速めた。
一歩ごとに、手に持った脆い「生」が呼吸を浅くする。
死の気配を纏う背中へ、彼女は壊れ物を運ぶような足取りで近づいた。
乙骨は動かなかった。
振り返らずとも、背後の空気が里香の色に染められていくのが分かる。
陽だまりのような安らぎ。
それが肌を刺した瞬間、彼は心に石を詰め、瞳から一切の光を抜いた。
「憂太」
その一音が、彼の喉の奥を締め上げた。
振り向けば、この数秒で築き上げた冷徹な仮面は一瞬で砕け散るだろう。
乙骨は一度も視線を向けず、ただ正面の闇を睨み据えた。
「こっちを向いて、憂太」
里香の指が、乙骨の左手に触れ――。
振り払った。
乾いた音が静寂を裂き、里香の手から放り出された花が石畳の上で折れた。
里香の視線が、乙骨の左手に縫い止められた。
いつもそこにあったはずの、銀の輝きがない。
彼女は息を呑み、自らの薬指に縋るように触れた。
対になるはずの光が消えた乙骨の手を見て、彼女の心から軋む音がした。
花が泥溜まりへ転がり、灰色が毒のように白を侵していく。
一ミリ、また一ミリ。
逃げ場のない中心へ濁りが這い寄り、白が死んでいった。
石壁が、鳴った。
乙骨の傍らで、目地に沿って亀裂が走る。
音もなく、細い線が石の表面を這い、止まった。
「君への愛は嘘だった。……最初から、全部」
乙骨は喪服の胸元を上から強く押さえた。
布地の下で、指輪が肋骨を圧し、肉に食い込む。
その銀の痛みが、崩れ落ちそうな彼の輪郭を繋ぎ止める、唯一の支えだった。
廊下の空気が一瞬で凍りつき、吐く息さえ白く濁るほどの冷気が、二人を割いた。
かつて暖炉の前で椅子を分かち合った温もりは、もう塵ほども残っていない。
「行け! 二度とその顔を僕に見せるな!」
叫びが石壁に吸い込まれた後には、完全な静寂だけが残った。
里香は焦点の合わない瞳を向けていた。
そこに立つ少年は、彼女の知る乙骨憂太ではなかった。
瞳は死に、気配は復讐という名の黒い霧に沈んでいる。
「……憂太? あなた、誰……?」
乙骨は一度も彼女の涙を視界に入れぬよう、呪詛のような足取りで歩み出した。
廊下の影で、真希は壁を指が白くなるほど掴んでいた。
遠ざかっていく乙骨の背中。喪服の黒が、闇に溶けていく。
だが、その肩甲骨の間だけが、隠しようもなく細かく震えていた。
面を被ったかのような無表情、狂いのない足取り。
しかし布地を透かして漏れるその痙攣は、閉じ込められた魂の叫びだった。
愛するために愛を殺す、最も残酷な「正気」。
その重さが一歩ごとに彼の魂を削り、内側から蝕んでいく。
鼻を突く血の匂いと、冷え切った空気。
乙骨が選んだ地獄――狂装が、この回廊のすべてを塗り潰していた。
石畳の上で、白い花が泥に沈んでいた。
白は、もう、どこにもなかった。