呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット   作:役を解かれぬ者

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第10話 愛を殺す言葉

 

 

 

石壁を穿つように作られた窓際のベンチに、乙骨憂太は身を預けていた。

 

数メートルの厚みを持つ城壁の凹みは、外部の光をかろうじて拾い上げる唯一の場所だ。

 だが、木製の鎧戸の隙間から這い入る冬の冷気は、無造作に敷かれた狼の毛皮を容易に貫き、彼の指先を鉄のように凍えさせている。

 乙骨は、光を失った瞳で、五条の亡霊が彷徨うはずの(くう)を凝視していた。

 

――生きるべきか、死ぬべきか。

 

残された者に突きつけられた、重い二択。

 

羂索の罪を識り、刃を振るえるのは自分しかいない。

 だが、復讐という名の血に手を染めれば、里香と共に歩む光射す未来は永遠に断たれる。

 恩師の無念を晴らして死ぬか、あるいは、自身の安寧のために心を殺して生きるか。

 

乙骨は重い吐息をつくと、石の冷たさを背骨に刻み込み、ゆっくりと立ち上がった。

 

 

 

一輪の白い花が、里香の指の間で細かく跳ねていた。

 震えが茎を伝い、花弁を揺らしている。

 彼女は視線の先に乙骨を認めると、吸い寄せられるように歩みを速めた。

 

一歩ごとに、手に持った脆い「生」が呼吸を浅くする。

 死の気配を纏う背中へ、彼女は壊れ物を運ぶような足取りで近づいた。

 

乙骨は動かなかった。

 振り返らずとも、背後の空気が里香の色に染められていくのが分かる。

 陽だまりのような安らぎ。

 それが肌を刺した瞬間、彼は心に石を詰め、瞳から一切の光を抜いた。

 

「憂太」

 

その一音が、彼の喉の奥を締め上げた。

 振り向けば、この数秒で築き上げた冷徹な仮面は一瞬で砕け散るだろう。

 乙骨は一度も視線を向けず、ただ正面の闇を睨み据えた。

 

「こっちを向いて、憂太」

 

里香の指が、乙骨の左手に触れ――。

 

振り払った。

 

乾いた音が静寂を裂き、里香の手から放り出された花が石畳の上で折れた。

 

里香の視線が、乙骨の左手に縫い止められた。

 いつもそこにあったはずの、銀の輝きがない。

 彼女は息を呑み、自らの薬指に縋るように触れた。

 対になるはずの光が消えた乙骨の手を見て、彼女の心から軋む音がした。

 

花が泥溜まりへ転がり、灰色が毒のように白を侵していく。

 

一ミリ、また一ミリ。

 逃げ場のない中心へ濁りが這い寄り、白が死んでいった。

 

石壁が、鳴った。

 乙骨の傍らで、目地に沿って亀裂が走る。

 音もなく、細い線が石の表面を這い、止まった。

 

「君への愛は嘘だった。……最初から、全部」

 

乙骨は喪服の胸元を上から強く押さえた。

 布地の下で、指輪が肋骨を圧し、肉に食い込む。

 その銀の痛みが、崩れ落ちそうな彼の輪郭を繋ぎ止める、唯一の支えだった。

 

廊下の空気が一瞬で凍りつき、吐く息さえ白く濁るほどの冷気が、二人を割いた。

 かつて暖炉の前で椅子を分かち合った温もりは、もう塵ほども残っていない。

 

「行け! 二度とその顔を僕に見せるな!」

 

叫びが石壁に吸い込まれた後には、完全な静寂だけが残った。

 

里香は焦点の合わない瞳を向けていた。

 

そこに立つ少年は、彼女の知る乙骨憂太ではなかった。

 瞳は死に、気配は復讐という名の黒い霧に沈んでいる。

 

「……憂太? あなた、誰……?」

 

乙骨は一度も彼女の涙を視界に入れぬよう、呪詛のような足取りで歩み出した。

 

 

 

廊下の影で、真希は壁を指が白くなるほど掴んでいた。

 遠ざかっていく乙骨の背中。喪服の黒が、闇に溶けていく。

 だが、その肩甲骨の間だけが、隠しようもなく細かく震えていた。

 

面を被ったかのような無表情、狂いのない足取り。

 しかし布地を透かして漏れるその痙攣は、閉じ込められた魂の叫びだった。

 

愛するために愛を殺す、最も残酷な「正気」。

 

その重さが一歩ごとに彼の魂を削り、内側から蝕んでいく。

 鼻を突く血の匂いと、冷え切った空気。

 乙骨が選んだ地獄――狂装が、この回廊のすべてを塗り潰していた。

 

石畳の上で、白い花が泥に沈んでいた。

 白は、もう、どこにもなかった。

 

 

 

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