呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット   作:役を解かれぬ者

11 / 31
第11話 陽光

 

 

 

焦げついた白檀(びゃくだん)の香気が、蛇のように回廊を這い回っていた。

 

熱を孕みすぎた薫香は甘さを失い、腐敗に近い苦みを帯びている。

 その(よど)みの底には、逃れようのない鉄の匂いが沈んでいた。

 乙骨憂太が歩を進めるたび、その不可視の層が裂け、内側に溜め込んだ呪力の軋みが不吉な音を立てて漏れ出していく。

 

乙骨が角を曲がった瞬間、回廊の中央に立っていた加茂憲紀の背筋が跳ねた。

 意志が命じるより先に、身体が「監視者」としての構えを完成させてしまう。

 染み付いた従順さが、指先の角度一つまでをも無慈悲に規定していた。

 その、己を裏切るような身体の反応が、加茂には耐えがたかった。

 

「乙骨君」

 

必要以上に、丁寧な挨拶。

 声の角を削り、廷臣として振る舞うその礼節が、かえって全てを露わにしていた。

 加茂の右手が、震える指先を隠すように左腕を抑える。

 乙骨は足を止め、加茂の顔を真正面から覗き込んだ。

 

「加茂君……」

 

その声は、凪のように穏やかで、それが最も恐ろしかった。

 乙骨は一拍置き、喉元までせり上がった「ある名」を、静かに奈落へ圧し戻す。

 唇から音が消えたとき、回廊には凍てつくような拒絶の重圧が満ちた。

 

「君の瞳には――王への不信と、僕への裏切りが同時に映っているよ」

 

温度のない断罪。

 乙骨はあえて「王」という虚飾を口にすることで、加茂との間に埋められない溝を作った。

 加茂が全身の力で石畳を踏みしめ、耐える。

 その傍らへ、圧のある影が滑り込んだ。

 

東堂葵が、一歩踏み出した。

 それだけで、回廊を支配していた微かな震えが、強引にねじ伏せられた。

 術式を介さぬ、ただの「在り方」が空気を支配する。

 揺れていた燭台の炎さえ、芯を掴まれたように動きを止めた。

 

「加茂」

 

一語。それだけで加茂を退かせ、東堂は乙骨を凝視した。

 喪服の黒、死んだ瞳、呪力の厚み。

 そのすべてを値踏みするように見据え、問いを投げかける。

 

「――どんな女がタイプだ?」

 

沈黙が、落ちた。

 

乙骨の思考が、初めて止まった。

 復讐の激情が断ち切られ、意識が一瞬、空白に沈む。

 

瞬きが止まり、眉がわずかに寄った。

 死んだ瞳の奥に、困惑という名の「生」が、一瞬だけ灯る。

 

修羅になりきれぬ少年の、不格好で、しかしあまりに人間らしい狼狽。

 その一秒を、東堂の目は逃さなかった。

 

「……里香ちゃん」

 

その名が空気に触れた瞬間、回廊の時間が止まった。

 

乙骨の喪服の奥底から、焦げた白檀を容易に飲み込む、「温かい」呪力が溢れ出す。

 それはかつての里香が纏っていた、春の陽光そのものだった。

 

陽だまりのような優しさが、石壁の冷気と衝突し、悲鳴を上げるように白い霧を噴き出させる。

 影が狂ったように壁で踊り、光と闇の境界が溶け落ちていった。

 

東堂は、あの一瞬の「不格好な困惑」を、その確信を掌に込めて、乙骨の肩を強く叩いた。

 

「その迷いこそが、オマエの強さか」

 

不敵な笑み。そこに嘲りは一欠片もない。ただ、最大級の敬意だけがあった。

 

「退屈させんなよ、乙骨」

 

焦げた白檀の匂いが、鉄の匂いの中へと、ゆっくりと戻っていった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。