呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
焦げついた
熱を孕みすぎた薫香は甘さを失い、腐敗に近い苦みを帯びている。
その
乙骨憂太が歩を進めるたび、その不可視の層が裂け、内側に溜め込んだ呪力の軋みが不吉な音を立てて漏れ出していく。
乙骨が角を曲がった瞬間、回廊の中央に立っていた加茂憲紀の背筋が跳ねた。
意志が命じるより先に、身体が「監視者」としての構えを完成させてしまう。
染み付いた従順さが、指先の角度一つまでをも無慈悲に規定していた。
その、己を裏切るような身体の反応が、加茂には耐えがたかった。
「乙骨君」
必要以上に、丁寧な挨拶。
声の角を削り、廷臣として振る舞うその礼節が、かえって全てを露わにしていた。
加茂の右手が、震える指先を隠すように左腕を抑える。
乙骨は足を止め、加茂の顔を真正面から覗き込んだ。
「加茂君……」
その声は、凪のように穏やかで、それが最も恐ろしかった。
乙骨は一拍置き、喉元までせり上がった「ある名」を、静かに奈落へ圧し戻す。
唇から音が消えたとき、回廊には凍てつくような拒絶の重圧が満ちた。
「君の瞳には――王への不信と、僕への裏切りが同時に映っているよ」
温度のない断罪。
乙骨はあえて「王」という虚飾を口にすることで、加茂との間に埋められない溝を作った。
加茂が全身の力で石畳を踏みしめ、耐える。
その傍らへ、圧のある影が滑り込んだ。
東堂葵が、一歩踏み出した。
それだけで、回廊を支配していた微かな震えが、強引にねじ伏せられた。
術式を介さぬ、ただの「在り方」が空気を支配する。
揺れていた燭台の炎さえ、芯を掴まれたように動きを止めた。
「加茂」
一語。それだけで加茂を退かせ、東堂は乙骨を凝視した。
喪服の黒、死んだ瞳、呪力の厚み。
そのすべてを値踏みするように見据え、問いを投げかける。
「――どんな女がタイプだ?」
沈黙が、落ちた。
乙骨の思考が、初めて止まった。
復讐の激情が断ち切られ、意識が一瞬、空白に沈む。
瞬きが止まり、眉がわずかに寄った。
死んだ瞳の奥に、困惑という名の「生」が、一瞬だけ灯る。
修羅になりきれぬ少年の、不格好で、しかしあまりに人間らしい狼狽。
その一秒を、東堂の目は逃さなかった。
「……里香ちゃん」
その名が空気に触れた瞬間、回廊の時間が止まった。
乙骨の喪服の奥底から、焦げた白檀を容易に飲み込む、「温かい」呪力が溢れ出す。
それはかつての里香が纏っていた、春の陽光そのものだった。
陽だまりのような優しさが、石壁の冷気と衝突し、悲鳴を上げるように白い霧を噴き出させる。
影が狂ったように壁で踊り、光と闇の境界が溶け落ちていった。
東堂は、あの一瞬の「不格好な困惑」を、その確信を掌に込めて、乙骨の肩を強く叩いた。
「その迷いこそが、オマエの強さか」
不敵な笑み。そこに嘲りは一欠片もない。ただ、最大級の敬意だけがあった。
「退屈させんなよ、乙骨」
焦げた白檀の匂いが、鉄の匂いの中へと、ゆっくりと戻っていった。