呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
舞台裏に落ちる影の中で、松明が五本、揺れていた。
その炎が届かぬ領域には、両面宿儺の呪力満ちている。
柱も壁も床も、宿儺という特異点に惹かれ、その輪郭を闇へと静かに沈めていった。
幕の端に立った宿儺は、四本の腕のうちの一本、その二本の指先で、重い布地を無造作に摘まみ上げていた。
その眼前の闇の中で動く乙骨憂太を、滑稽そうに眺める。
脚本の頁を閉じ、裏梅に出番を命じるその手つきには、もはや一欠片の迷いもない。
演出家を気取るその正確な所作を、宿儺は「退屈」という名の毒を含んだ眼差しで見下ろした。
音もなく、乙骨の背後へ影が重なった。
首筋に触れた呼気だけで、周囲の石壁が凍てついたように温度を失う。
「お前は今、師の仇を討つ正しい弟子を演じているな」
囁きは、乙骨の肺の奥を直接掴むように響いた。
「正義を捨てろ。奴を追い詰めたいなら……ただ、堕ちればいい」
その一言が、乙骨の魂を無慈悲に
復讐を正当化していた思考の膜が、音を立てて剥がれ落ちていく。
正しい弟子、正しい怒り……。自分を繋ぎとめるための「人間らしさ」だ。
乙骨の呪力が、冷たく濁る。
喪服の黒が、光を貪る虚無へと変色していく様を、宿儺は愉悦とともに見届けた。
「面白い」
客席は、丹念に整えられた虚飾に満ちていた。
前列中央、一段高い「王の椅子」には羂索。
その隣に、硬い表情の九十九が座る。
乙骨は舞台の確認を装い、客席へと降りた。
その足が羂索の前で止まる。
羂索は微笑んでいた。余裕を保つための、精巧な作り物の笑み。
「この演目の名は?」
彼の声は穏やかだが、その奥底には獲物を探るような冷たさが潜んでいる。
乙骨は、王を真正面から見据えた。
「『ゴンザーゴ殺し』」
一拍、置いた。その瞬間の静寂が、客席の空気を薄い氷へと変えた。
「……あるいは、『ねずみ捕り』です」
羂索の指が、肘掛けを一度だけ叩いた。
意図せぬ、微かな震え。
石の肘掛けに当たった硬い音が、不自然なほど大広間に響き渡る。
しかし羂索は、すぐさま微笑みを貼り直した。
「……楽しみだ」
声のトーンは揺るがない。だが、その指先が肘掛けから離れることはなかった。
乙骨は独り、闇の中へ歩みを進めた。
喉の奥には、まだ「心」という名の重みが
――行動するために心が邪魔をするなら、一つ一つ、丁寧に取り除けばいい。
熱を孕んだ感情を、錆びた刃で切り出すように手放していく。
愛も、慈悲も、かつて隣にあった手の温もりも……。
最初の一枚を剥がした瞬間、背後の道は音もなく崩れ落ちた。
演技は虚構か、真実か。もはやその境界に意味はない。
舞台と同じ。一度「幕」が開けば……もう引き返すことはできない。
舞台袖へ戻った乙骨の隣に、真希が立った。
「憂太」
その呼びかけに応じた声に、真希の身体が凍りついた。
言葉の内容ではない。声の質から、人間の温もりが完全に消え失せていた。
呪霊が言語を覚えたような、意味だけを運ぶ、乾いた音。
「……見ていてほしい。あいつの仮面が剥がれる瞬間を」
顔の造作は変わらない。だが声の出所は、もはや人間ではなかった。
「……ああ」
簒奪者をその目に焼き付けろという、乙骨の無機質な言葉。
しかし真希は、闇に沈みゆく彼の背中だけを、生涯忘れることのないよう、瞳の奥に刻みつけることを誓った。
幕が、動き始めた。
裏梅が幕を引くと同時に、松明の炎が一斉に舞台の方へ吸い寄せられた。
熱を吸い込むような、あるいは舞台が何かおぞましいものを呼び寄せているような、異様な光景。
宿儺が、幕の向こうへと踏み込んだ。
その一歩だけで、客席が凍土に変わる。
宿儺の呪力と裏梅の冷気が客席を侵食し、臣下たちは無意識に背を縮めた。
逃げ場はない。扉はあっても、誰も立てない。
始まった劇は、終わるまで終わらない。
その確信が、全員を椅子に縫い止めていた。
炎が揺れ続け、闇が舞台を飲み込む。
幕が、上がった。