呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
舞台の上は、深い闇に包まれている。
一本の燭台だけが灯され、その橙色が石畳を模した板張りの床を、死斑のように照らしていた。
幕の向こうから踏み込んだ宿儺の一歩が、大広間の空気を凍土へと変えていた。
逃げ場のない呪力の重みが客席の人々を椅子に縫い止め、誰もが呼吸を忘れてその闇を注視する。
完全に幕が上がりきった瞬間に現れたのは、不自然なほどの「安寧」だった。
王妃の装束を纏った裏梅が、玉座に座る宿儺の傍らに寄り添っている。
裏梅の手は慈しむように宿儺の肩へ置かれ、二人は虚空に向かって穏やかな愛の言葉を交わしていた。
観客などいないように振舞う裏梅が、凍てつくような優しさで言葉を紡ぐ。
「もし貴方が死んで、私が他の誰かに寄り添うようなことがあれば……。それは貴方を二度、殺すも同然です」
九十九の指が、布地を強く握りしめた。
視線を落とせば、自分の選択が間違いだったと認めてしまう。
言葉に隠された刃が自分へ向いているのを感じながら、彼女は舞台を凝視し続ける。
その様子を、乙骨はただ、暗がりの底から観測していた。
舞台の上で、王が眠りに就く。
宿儺の四つの目が閉じられた瞬間、この場を支配していた呪力の重みも、かき消えた。
最強が眠る時の無防備さが、かつての王の私室の静寂を呼び戻していた。
舞台の端で影が揺らぎ、真人が染み出すように現れる。
軽やかに動く靴底が板を踏むたび、音の代わりに凍てつく冷気が弾けた。
その冷気が最前列の羂索の肌に触れた刹那、彼の微笑みが一度だけ、石のように硬直した。
真人は眠れる宿儺の背後に立ち、分厚い布を音もなく手元に手繰り寄せた。
右肩から先に、布を落とす。
丁寧な、あまりに丁寧な手つき。左肩を後から合わせ、端を整える。
そして指先を、眠れる者の首元に一度だけ触れさせ、離した。
触れた角度。速度。離れる指の残像。
それらすべてが、一分の狂いもなく羂索の脳裏にある「あの夜」と重なり、溶けた。
――演劇は、「現実の鏡」。
羂索の瞳が、己の手へと向けられた。
肘掛けの上に置かれた、夏油傑の形をした指先。
それを一瞬だけ凝視し、逃げるように視線を舞台へと戻す。
真人が懐から小瓶を取り出した。
黒い液体が、燭台の炎を反射してなお暗さを深めていく。
真人は瓶を傾け、眠れる王の耳元へと寄せた。
「おやすみなさい、おじさま。……思考を止める毒は、耳から。魂を奪う毒は、その微笑みから」
囁きが、広間の端まで届く。瓶の中の黒が揺らめいた。
「ああ、これほどまでに清らかな殺意を、貴方はかつてどこかでご覧になったことが?」
乙骨の瞳が、羂索を射抜く。
その瞳に、一瞬だけ別の光が混じった。
深淵から覗くような、冷徹な青。
乙骨の背後に、ありえないはずの「最強」の残照が揺らぎ、耐えかねたように羂索が立ち上がった。
「明かりを!」
怒号が静寂を破り、なぎ倒された椅子が石畳を打つ、乾いた衝撃音が広間に反響する。
「明かりを持ってこい! 中断だ!」
羂索は叫んだ直後、一秒に満たない静止を見せた。
すぐさま冷徹な王の表情を無理やり貼り直し、一度も振り返らずに扉へ向かう。
突き飛ばされた両開きの扉が、背後で、拒絶するように音もなく閉ざされた。
宿儺がつまらなそうに立ち上がり、真人は
乙骨の瞳は、羂索が消えた扉だけを、黙って見据えていた。