呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
主を失った椅子が無様に倒れ、広間の中央に取り残されていた。
廷臣たちが逃げ去った奔流の跡には、踏みつけられた扇、脱げ落ちた靴。
そして倒れた燭台から立ち昇る焦げた油の匂いだけが、逃げ場を失って淀んでいた。
舞台の端では、真人が毒瓶を弄んでいる。
完璧な幕引きだった。
演技を終え、大広間に満ちていく異様な余韻を、彼は愉悦として吸い込んでいた。
宿儺はすでに幕の裏へ消え、その圧倒的な気配の残り香だけが石壁を冷たく湿らせ、劇の終わりを告げている。
真希が、乙骨の隣に立った。
眼鏡の奥の瞳が乙骨を捉えたが、彼の視線は羂索が逃げ去った扉に縫い付けられたまま、微塵も動かない。
やがて、その目がゆっくりと真希を向いた。
「……見た? 真希さん」
冷たい。勝利の熱も、怒りさえもない声。
真希は、乙骨の瞳を覗き込んだ。
「ああ。見えた」
「毒を流し込んだ時は?」
「王は明らかに、動揺していた」
確証は、得た。
乙骨の瞳に灯る青白い炎が、僅かに揺れた。
広間の混乱も、羂索の狼狽も、すべてを糧としてより高く、より冷たく燃え上がる。
もはや咎めるものは何もない。
「……終演だ」
乙骨はそれだけを口にすると、役目を終えた脚本を机に置き、羂索が消えた扉へ向かって歩き出した。
その歩調が、真希の目にはあまりに速く見えた。
乙骨憂太という人間が、取り返しのつかない深みへと吸い込まれていく。
背中にかけようとした言葉は、指の間から溢れる砂のように消えていった。
乙骨が扉の向こうへ消え、その足音が闇に溶けた頃。
松明の煙が淀む天井に、「白」が混ざっていることに真希は気づいた。
劇が始まる前から、あるいはもっと前からか……。
五条の蒼い双眸は、羂索が逃げ去った扉――かつての親友の肉体を奪った異物が消えた先を、じっと見つめている。
しかし、亡霊の表情に宿っていたのは、憎しみではなかった。
不意に、亡霊が乙骨の残していった脚本に目を向けた。
声ではない「響き」が、冷え切った広間の神経を震わる。
――強くなったね、憂太。
それは祝福ではなく、埋葬の言葉だった。
亡霊の輪郭が薄れ、煙と共に天井へ散っていく。
気づけば、舞台端で嗤っていた真人の気配も絶えていた。
白髪の残像が消えた跡には、焦げた油の匂いだけが、重い現実として残された。
真希は、静かに口を閉じた。
眼鏡の奥、熱を帯びた瞳を一度だけ伏せ、逃げ出しそうな後悔を胸の奥底へと押し留める。
広間の燭台が、一本だけ、なおも激しく揺れていた。