呪術廻戦IF:呪術悲劇ハムレット 作:役を解かれぬ者
「近頃、乙骨君の様子がおかしい。そう思わないか?」
羂索の言葉が、夜明け前の執務室に冷たく響いた。
窓硝子の曇りを、彼の指が苛立たしげになぞる。
親友を失った王の孤独を演じてはいるが、その背には隠しきれない焦燥が滲んでいた。
「戴冠式以降、あの子の言動は看過できない。悟を失って傷心しているにしても、限度がある」
「それ程おかしいかな? 私は、あの劇の演出は実によくできていたと思うよ」
九十九由基が、机に寄りかかりながら淡く笑った。
初めて見せる明確な反対意見に、羂索の指が止まる。
「……何が言いたい」
「別に。王が、毒で、殺される芝居だった……。ただ、それだけのことさ」
九十九の視線が、羂索の
羂索は振り返り、隠していた苛立ちを剥き出しにした。
「……あの子の心が落ち着くまで、イングランドへ行かせることにした。楽巌寺先生、貴方もそれでいいですね?」
垂れ幕の陰に控えていた楽巌寺嘉伸に、冷徹な圧が向けられる。
老術師は目を伏せ、慎重に言葉を選んだ。
「……不安定な乙骨を、監視の届かぬ国外へやるのは得策とは思えん」
「加茂と東堂をつければ済む話だ」
羂索が吐き捨てる。だが、九十九がそれを遮った。
「待て。私も、彼を国外に出すのには反対だ。……私が彼と話そう。それで改善されないなら、その時に考えればいい」
しばしの沈黙。羂索は舌打ちを飲み込み、その案を呑んだ。
「いいだろう。君が責任を持って説得するといい。ただし、報告は貴方にしてもらいますよ。楽巌寺先生」
羂索はそれだけを言い残し、拒絶するように部屋を去った。
王が去った後の部屋には、重い残穢だけが澱んでいる。
一角に据えられた鏡。その手前の空気が、乙骨憂太の放つ呪力によって異様な密度へと押し固められていた。
光は歪んだ空間に衝突し、不自然に屈折する。
鏡に映る乙骨の輪郭は中心から裂け、正解を失った影のように揺らめいていた。
乙骨は、鏡の中の己を見つめていた。
赤く充血した眼球。眠れぬ夜が積み重なり、その瞳はもはや少年のものではない。
瞳孔の奥、青白い炎が、消えることのない灯火として燃え続けている。
背後に立つ九十九の顔と、乙骨の顔が重なり、鏡の中の充血した瞳が、九十九の像を飲み込んだ。
「僕たちは……」
乙骨は鏡を凝視したまま、振り返らずに告げた。
「同じ汚れの中にいる」
室温が、急落した。
乙骨の呪力が周囲の熱を奪い、場を凍りつかせている。
執務机の花瓶の水面が、内側から膨れ上がる圧に耐えかね、激しく波立った。
乙骨が、ゆっくりと振り返る。
「誰が五条先生を殺したか。……気づいていますよね」
断定だった。
「気づいていて、あの男の隣に立った。先生の死の上に立って理想を語り、その骨を踏み台にして、夢を見た」
――花瓶が、割れた。
音は、なかった。内側から膨張する呪力が陶器の内壁を静かに破壊し、亀裂が走る。
静寂の中で花瓶は二つに裂け、倒れた花弁は水に沈み、無惨にひしゃげた。
「それを汚辱と呼ばずに、何と呼ぶんですか」
乙骨の視線が、九十九を通り過ぎた。
部屋の隅、塵一つ動かない虚空へ焦点を結ぶ。
「……五条先生、来てたんですか」
声の質が、唐突に変わった。
鋭利さは霧散し、代わりに、懐かしい知己を見つけた子供のような無邪気さが混じる。
「嬉しいな。……やっぱり、僕のこと放っておけないんですね」
九十九の背筋を、戦慄が走った。
彼女には見えない。見えないことが、死よりも恐ろしかった。
「乙骨君。……君は、誰と話しているんだ」
「ほら、そこに。……何も見えないんですか?」
乙骨は、慈しむように虚空を見つめたまま問い返す。
九十九はその視線の先を直視できず、吐き捨てるように言った。
「みんな君の妄想だ。狂気は、ありもしないものを巧みに作り出す」
「狂気……?」
乙骨の首が、緩慢な動きで九十九へと向けられた。
瞳の奥の青白い炎が、彼女の輪郭を焼き切るような温度で爆ぜる。
「自分の罪を棚に上げて、僕の狂気のせいにするんですか?」
鏡の中の乙骨の残像が、激しく歪む。
だが次の瞬間、九十九を射抜いていた視線から一切の熱が失われ、彼女の存在そのものが彼の意識から滑り落ちた。
乙骨は再び、誰もいない部屋の隅へと向け、無邪気に微笑む。
「先生があんな顔をするのは、僕がまだ何も成し遂げていないからだ。……大丈夫ですよ。すぐですから」
乙骨が、背を向けて歩き出した。
重い足音が石畳を叩くたび、部屋の空気が微動する。
垂れ幕の裏で、楽巌寺は心音すら殺して硬直していた。
足音が、近づく。
楽巌寺の目の前を、乙骨の影が分厚い布地越しに掠めた。
その一瞬、楽巌寺は「死」そのものが自らの横を通り過ぎたことを、肌の粟立ちで悟った。
少年の纏う呪力が布地を震わせ、老術師の頬を冷たい刃のように撫でる。
扉へ向かう乙骨の意識は、背後に残した九十九にも、潜んでいる楽巌寺にも向いていない。
ただ、彼にしか見えない「師」の残照だけを追うように、その足取りは迷いなく続いた。
楽巌寺は、布地を白くなるほど握り締めたまま、動けなかった。
報告義務。術師としての矜持。
それらすべてが、沈黙の中で、粉々に砕け散っていた。